第3話
「イトイセイ。面白い名前ですよね」
谷本信也はからかうように言った。と同時に、同級生に好意を上手く伝えられない小学生のような自らの幼稚さに恥じ入った。
彼女が隣にいると仕事が手につかない。
キーボードに手を置いてもFとJがいたずらに画面に並び、マウスを握ってもポインターが蠅のように飛ぶだけだった。
——ああ、話したい。
とにかく少しでもいいから会話がしたい。盗み見た耳たぶは少し赤い。年齢が離れているのに何故か彼女が子供っぽく感じられる。話していると自分も子供に戻ったような気持ちになる。
今一つ踏み込めない。だけどそれが、不思議と心地よかった。
「そうなんです。どうして糸井さんと結婚しちゃったんだろうって思う。なんか私、いまだにこの姓に馴染めないんですよね」
と、そんな言葉に信也は微かな光を見出す。たとえばそれが谷本だったら、谷本星だったらと、また子供のような考えが頭に浮かんだ。
「そっか。星さんだけに、姓に馴染めないんですね?」
近づくために、そんなくだらない冗談すら交わす。
「うん、そうかも」
と、するりと流されるが、彼の心は簡単には折れない。
中学高校と六年間野球部に所属し、肉体と精神の陶冶に励んだ。不撓不屈。それが谷本信也の座右の銘だった。
高校三年最後の夏、県予選準決勝、九回裏ツーアウト、ランナー二三塁の一点差。長打で逆転という場面で響いた快音。瞬間、誰もが試合の終わりを確信した。引っ張り過ぎ。数センチ右なら、もっと長く仲間とプレイできた。
ベストフォーの高みから見た景色と、刹那に落ちた奈落の暗さを、忘れるはずがない。
不撓不屈。まだなにもしていない。
「そういえば、
まだ、九回裏ではない。それでも自然と声に力が入った。
「ソラチ」
「えっ?」
思いのほか大きくなった信也の声に視線が集まったが、星は構わず続けた。
「空を知ると書いて、空知っていうの。めずらしいでしょ」
「空を知る、ソラチですか。はじめて聞きました。空を知る星。それはそれですごい名前ですね」
「そうなんです。両親からもらった苗字と、その名前は、私に一生ついてまわるんだって思ってたんですけどね。いざ失ってみるとちょっと惜しい気もします。私ね、星のことも空のこともなんにも知らないんですよ。理科、苦手だったし。旦那さんのほうがずっと詳しいんです。私は時間と季節が変わると、星の場所もわかんなくなるから」
「アハハ。空を知らない空知さんかあ。それはそれで面白いですけどね」
「明日、雪降る? とか訊かれたってそんなの知らないってのに、いい迷惑」
星はいつものように、ハの字型に眉根を寄せた。
「そっか。やっぱりからかわれたりしたんですね」
「それはね、もちろん。散々からかわれてきましたよ。今日も天気が良いなあ、とかそれくらいしかわからないのに。そうだ、信也君。谷本さんの下の名前って信也君でしょ?」
バッドの芯を食ったような痛快な痺れ、力が直線的にボールに加わり、正反対のベクトルへと反発する重みと共に、全身を駆け巡る痺れを感じた。
言葉にならない緊張が一点に収斂し、解き放たれる快感。行き場のない喜びに、信也はすぐにでも走り出したくなった。
と、そんなことはつゆ知らず、空のことも知らない旧姓空知さんは、大きな窓から空を眺めている。
その黒く潤んだ瞳に空が映る。
——空を知らないなんて嘘だ。
「あれ、違った?」
「いや違うんです。違うって、違くなくって。そうです。あってます。谷本信也です」
「なんだ、間違えたかと思ったあ。私、糸井星です。って、なんか自己紹介みたい。今さらって感じだけど」
信也は振り返って、窓の外の空を見た。
「ホント、良い天気ですね」
足もとのバッグの横に置かれた、小さな紙袋から、ほのかな甘い香りが漏れている。
渡す前に気づかれてしまうなんて間抜けな真似はしたくないと、星からは見えないよう注意を払っていた。
「谷本さん。そろそろちゃんと仕事しましょう」
「ああ、はい。そうですね」
JとF。揺れるマウスポインター。
糸井星。いといせい。イトイセイ。回文みたいだ。空知星。そらちせい。ソラチセイ。
ゆるゆると喋る様子、潤んだ黒い瞳、短い黒髪。綺麗に短く切りそろえられた爪と、薬指にこれみよがしにひかる銀色の指輪。チョコレートの香り。苦い、苦い、苦い苦い苦い苦い苦い、苦い。
ブーン、ブーン。
と、星のスマホのバイブに、信也の思考は断ち切られた。
「はい。お疲れ様です。ミーティングですか? あっ、もうこんな時間。ああ、申し訳ございませんでした。すぐに参ります。はい、はい。失礼いたしました。はい」
星がラップトップを手に取り、勢いよく立ち上がった。
「谷本さん。私、ミーティングあるの忘れてたよ!」
星は慌てて去ろうとするが、挿さったままの充電コードがガッと音を立てて引っかかり、転びそうになる。思わず信也は笑みを漏らした。
「はは、そうみたいですね」
ふと、椅子の背もたれに掛かる星のコートに、白い羽がふわふわ揺れているのに気がついた。ダウンの羽だ。
「ああもう。気づいてたんなら教えてよ」
「いや、気づいてないですよ。僕だって今知ったんです」
星はコードを引きちぎるように抜くと、取るものもとりあえず執務室をあとにした。
急にオフィスが静かになった。信也はようやく画面に視線を戻した。
静けさが嫌に冷たく感じられる。星のつんと刺すような高い声が、耳の奥にこびりついている。
脇に置いた紙袋を見やると、また甘い香りが立った。
「よくやるよ」
剣のある声に、信也の肩がびくんと震えた。
福田薫の指は絶えずキーボードのうえを動き回っている。口を動かすからといって手をとめる理由はない。彼が前にそんなことを言っていたのを思い出した。
「なにがですか」
話しかけられたからといって、信也がわざわざ彼に視線を向ける理由はなかった。画面をじっと睨む。指は重く、斜向かいの彼の手のようには動かない。
「人妻だろ。しかも一回りも上」
信也の肩が再びかすかに震えた。さっきまで星が座っていた椅子。背もたれのコートの上で揺れる白い羽がどうにも気になった。
「な、なんのことですか」
「なんなら俺が女紹介してやろうか?」
ミーティングが終わったのか、にわかにオフィスが活気付いてきた。
座席の後ろでは四半期のKPI設定値の見直しの議論をしていれば、デスクトップを挟んだ向こうの席ではCVR低下の要因はシーズナリティの影響以上に広告の訴求が弱まったと考えたほうが合理的だの云々の議論で、福田薫の言葉など、少しも耳には届かないはずだった。
「大きなお世話ですよ」
彼は信也を蔑むように、ふっと鼻で笑った。
「なあそれ、さっきから気になってたんだけど、その茶色の紙袋」
「あっ」
信也の顔に血がのぼった。目敏い。気付かないだなどと思うほうが馬鹿だ。返す言葉が見つからなかった。
隣からキーボードを叩く音が聞こえる。ピアノでも演奏するかのように軽やかに仕事をするその指先から生み出されるのは、独創的かつ整然とした、人を魅了するスライドの数々だ。カタカタ。カタカタ。カタカタカタカタカタカタ。仕事ができなければただの嫌なやつで済むのに、能力が高いことがかえって信也を苛立たせる。
馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だ、馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ、馬鹿だ——。
ブーン、ブーン。
と、再び信也の思考が遮られた。
「え、あの人、スマホ忘れてんじゃん」
信也は紙袋を持って立ち上がった。渡すなら今しかない。知られたからといって、この男の目の前でプレゼントを渡すなんて醜態を晒したくはない。
「僕、届けてきます!」
「あ、ちょっと、まっ——」
福田薫は扉へと駆けていく谷本の背を見送り、また、チッと舌を鳴らした。彼の向かいの席では、ブーン、ブーン、とスマホが鳴り続けていた。
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