第4話

せいちゃんはさ、旦那のことなんて呼んでるの?」

「え、いきなりなんですか?」

 福田薫は、その類の質問を彼女が嫌がるのを知っていた。案の定、星は顔をしかめ、彼の顔には満足気な笑みが浮かんだ。

「そういうのってプライベートなことだし、言いたくないです」

「ハハハ、星ちゃん恥ずかしいんだ。星ちゃんってさ、今いくつなの?」

「四月で三十二歳です。福田さんはおいくつですか?」

「俺はもうすぐ二十八。星ちゃん四月が誕生日か。もうすぐじゃん」

「あの、その星ちゃんって呼ぶの、やめてもらえますか」


 カタカタカタカタカタカタ。カタ。


 学校はつまらなかった。教師は教科書に書いてあることを黒板に写すだけで授業をやったつもりになるし、生徒は写しただけで勉強したつもりになる。誰一人、自分の頭で考えることをせず、言われたことを言われた通りにこなす。そんなクズの巣窟に棲まう、獣みたいなやつらのひとりが言った。

「福田くんって授業まともに出てないし勉強もしてないのに、どうして良い成績が取れるわけ? なんかズルしてるっぽいよね」

 授業中には誰よりも集中して教科書を読み倒した。放課後に部活に時間を使う奴らとは違い、足りないと思う勉強はやり尽くした。知識だけで不足だと思えば、実践的なスキルを身につけ、高校の頃から一般企業でオフィス勤務をした。

 すべて自分で手に入れた。誰かからタダで与えられたものではない。時間も労力も費やそうとしない無能な獣たちに、なにがわかるのだ。

「頭が良いからって傲慢だよ。謙虚さのない人間って、やっぱダメだよね」

 頭が良い。違う。誰よりも勉強をした。誰よりも時間を費やした。それを才能と呼ぶなんて、不遜だ、不敬だ。自分の頭で考えないクズに理解できるものか。


「あ、ごめん」

「はい。わかっていただけたなら、別に構いません」

 金の長髪はオフィスワーカーには見えない。

 美容師、ホスト、アパレル。時にナンパ師というレッテルを貼られた。表層にある快楽を生きる。窓の外を飛ぶ鳥のように自由になりたい、そのためだけに時間と労力を費やしてきた、軽く、薄く、浅く、愚鈍な人間どもの排泄物に浸かったような不快な重みから逃れ、あの空を飛びたかった。

 なのに、星が入社してから、なぜか窓が遠い。

「福田君、頼んだ資料って進んでる?」

 薫はようやく、自分の手が止まっていたことを知った。和明が怪訝な表情を浮かべ、薫の顔を覗き込んでいた。無性に腹が立った。

「もう終わってますよ。さっきもう共有しておきました。メール見てないっすか? あと、マニュアル修正もしておきました、レポート作成用の」

「え、もうできたの? すごいね、どうしたらそんなに効率的に仕事をこなせるの」

「いえ、件数少なかったし。谷本の分が残ってたから面倒でしたけど。それでも普段より少し多いくらいですから、二時間あれば処理できない件数じゃないっす」

 薫は意図して声を尖らせた。キーボードを叩く音も高い。冷房の効きすぎた執務室では、指先もいつものように軽やかには動いてくれない。表面を浅く滑るように動いて欲しいのに、おもちゃ売り場ではしゃぐ子供のように跳ね回っていた。

「最近の谷本君、ちょっとひどいね。まるで仕事が手についていないというか。学校とか忙しんだろうけど。一度ちゃんと注意した方がいいかもね」

 薫の意を汲みつつ、和明は巧みに追求をかわした。


 釘を刺しておきたかった。

 業務量が増えることは気に留めないが、恋愛に現を抜かす阿呆の尻拭いとなれば話は別。本人がいないところで嫌味を言ってもしかたないが、和明をいびるためのネタになるなら悪くない。コントロールする対象はなにも、星や谷本だけではない。和明だって、その範疇だった。

 社員の座席は固定で、通路側に二席並んでいる。

 それ以外のアルバイトスタッフは、窓に向かって直線に四席と六席の合計十席。薫は窓際の席を好んだが、最近では星の隣を選ぶことが多くなっていた。その隣が和明で、一番通路側になる。

「すみません。きっとそれ、私の責任です」

 高い声に、薫のこめかみがぴくんと痙攣した。

「スタッフさんとのコミュニケーションのつもりが、ちょっと話し過ぎちゃったんです。色々と業務のお願いしたりとかしてると、言葉が多くなってしまって。説明とかにも時間かかっちゃって。なんかもう、ホントに谷本君が悪いっていうじゃなくって、私がいけないんですよ」

「それ、別に星ちゃんは悪くないっしょ。谷本の最近の仕事ホントひどいから。それをかばっても、なんも改善しないから」

 明らかに怒気を含む自分の声を、薫は必死に抑制した。

「それは僕も思っていたことだし。福田君が言う通り、糸井さんは悪くないよ」

「違うんです。私が悪いんですって」

 カタカタカタカタカタカタ。カタ。高く跳ねていた薫の指の動きが止まった。

「糸井さんは、どうして谷本君が悪くないと思うんですか?」

「どうしてとかじゃなくって、だって私が——」

「星ちゃんさ、それって答えになってないんだわ。俺たち仕事してんでしょ。だったらその原因って具体的に分析できなきゃなんも意味ない。別に谷本を責めたいとかそういうんじゃなくて、どうしたら谷本の生産性が極端に落ちてる状況を改善できるかって、今してるのってそういう話なんじゃないの? 誰が悪いとかじゃなくってさ」

「ちょっと、福田君」

 和明が立ち上がると、二人のあいだに割って入った。

「そうですね、おっしゃるとおりです。谷本君が集中して働けるような環境を作れるよう考えます。彼はまだ大学生で、未熟というか子供なところもあるんだと思います。なんとなく私がそれをゆるしてしまったのかもしれません。だから私の責任だと——」

「そういう意味では僕に責任があります、責任者ですから。時間をとって谷本君と話してみます。注意すれば変わると思うので」


 ——だから、注意とかじゃなくてさ。


「はい、ありがとうございます。お任せします」


 ——窓が遠い。


 薫はイヤホンをつけ、キーボードを叩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る