第5話

「今朝早かったから先に寝ます。ごめんね」

 帰りの電車で送られてきた奏多かなたからのメッセージをせいは何度も見返した。

 コンビニで買ったコロッケをレンジで温める。冷蔵庫から出した冷凍ご飯をお椀に開け、虫のように唸る白い箱のなかで、オレンジ色の光に照らされ回る皿を眺める。そしてフーッとながい息をつく。


 ——溜め息じゃない、深呼吸。


 チンと鳴ると、今度は入れかわりでご飯を温める。

 コロッケ、ゴボウサラダ、卵焼きを皿に盛りつけ、安いホテルの朝食ビュッフェのような、ワンプレートの晩御飯が完成していく。星の週末のささやかな贅沢。

 チン、とふたたびレンジが鳴った。

 テーブルに御飯を並べて、缶チュウハイのプルトップを引き上げると、プシュッと炭酸が抜ける音。一日の終焉が告げられる。

 ソファに浅く腰かけ、録画しておいたアニメを見ようとテレビをつけた。

 画面のなかでは、三人の女子高生がファミレスでだらだらと会話をしている。気怠い雰囲気が好き、あてのない空気が好き、目的のない会話が好き。すっぽり抜け落ちた時間をフィクションで埋め、酔いとともにあらかじめ失われた青春を取り戻す。

 鈍色の過去はまだ、腹の底に重たく沈んでいた。


「海ってなんで青いん?」

「そりゃ空を映してるからでしょうが」

 チュウハイをあおるうちに、温かな明かりがさし、からっぽのうつわを酔いが満たしていく。

 なかったこととあったことが曖昧になり、青春という不確かなものなどどうでもよくなる。こうしてどうでもよくなるまで酒を飲むのが、星のひとり夜の過ごし方だった。

「ふーん。じゃあ、空はなんで青いん?」

 しんと凪いだ海の上をカモメが飛んだ。案外丁寧に描かれているな、と星は思った。

「そりゃ海を映してるからでしょう」

 天と海とが逆転して、白いカモメが雲のように大きくひろがった。


 あっという間に食事を終えると、星はお皿と空き缶そのままに、ソファで横になった。しずかな海に、ざわざわとさざなみが立つ音が聞こえる。ぽつんと浮かんで周囲にはなにもなく、高い空から注ぐ日差しが肌をじりじり焼く。少しでも動いた瞬間、きっとなにものかに、星はとらえられる。だからじっと動かず、波音に耳を澄ます。そうするうちに、星は眠りに落ちた。


「ねえ、星。星ちゃん。せいちゃーん。起きて。起きて起きて。今日、高尾山に行くんでしょ、山、のぼるんでしょう?」


 ふたりの生活には時差があった。

 仕事柄、奏多は朝が早い。

 地域密着型の中規模工務店に施工管理者として勤め、現場入りは午後でも構わないのに、奏多は職人と同じ時間に現場へ赴いた。

 事前に事務所に立ち寄り、部材の搬送状況や建築計画の進捗を確認する。そのため、職人よりもさらに朝が早い。なにより職人さんたちとの信頼関係が大事なんだよ、と奏多は口癖のように言っていた。

 対して星の朝は遅い。

 奏多君は真面目だな、と他人事のように思いながら毎朝食事をひとりで済ませた。職場での業務が夜へ押すことが多く、必然的に帰りも遅くなった。帰りが遅いと夜が遅くなり、自然と朝も遅くなる、という繰り返しで、徐々に後ろへとずれ込んでいった。こんな近くにいるのに、なんか遠距離恋愛してるみたい。その分、会える喜びが大きくなるんだから、それも楽しめばいいんじゃない?とよく言いあって、ふたりして笑った。


 春でもまだ朝は冷える。冷たい空気が毛布の隙間から這い込んできた。全身がおさまるように、星は体を小さく丸めた。

「奏多君、おはよう」

「おはよう」

 ソファのうえでからだを起こすと毛布が落ちた。

 しわだらけのセーターとスカート。昨晩と同じ服。化粧すら落としていなかった。星はフーッとながい息をついた。


 ——深呼吸、これは深呼吸。


「星ちゃん、高尾山に行くっていってたでしょ。忘れちゃった?」

「ごめんそうだった。待ってて、すぐ準備するから」

 星は立ちあがって時計を見た。六時半。最後に時計を見たのは一時半だった。いや、二時半だっただろうか。からだに残る怠さは、昨日飲んだ酎ハイのせい。たった五百ミリリットルが自分を歪め、歪められた自分の方がどこか真っ直ぐなのではないかと思う。だとしたら、自分は元々歪んでいる。

「ねえ、体調悪いの? 今日はやめとく?」

「ううん。平気」

 星は自分のなおざりな声に驚き、訂正するかのように、すぐにつとめて明るく言った。

「奏多君、ありがとう。大丈夫だよ。奏多君も準備して」

「うん。わかった」

 フーッと、星は長い息をついた。


 島の駐輪場にバイクをとめ、歩いて弁天橋を渡った。

 初春の鵠沼海岸は、サーファーの姿がちらほら見られるくらいで、人はまばらだった。

 波打ちぎわに強く吹き付ける風を、鳶が泳いでいる。

 波に乗るのも風に乗るのもバイクに乗るのも、似たようなものだと星は思う。波に乗るのは、波になること。風に乗るのは、風になること。バイクに乗るのは、バイクになること。

 エンジンの振動と自分の鼓動が共鳴すると、無機質な機械のかたまりが有機的な自分の身体感覚に結びつき、境界があわくなって、アスファルトからサスペンションに伝わる衝撃や正面からカウルにぶつかって砕ける風や唸るエンジンの振動やタイヤの回転やなにもかもが自分とひとつになるような気がする。

 距離、境界、自他、この瞬間この場所この感覚では関係ない。鳶は風になった、サーファーは波になった、そして星は——。

「ね、星ちゃん。海も悪くないでしょ?」

 高尾山に行くはずが、向かったのは江の島だった。奏多のいつもより少し高い声が、耳に快く響く。気持ちがたかぶっている証拠だ。

「うん、気持ちいいね。すんごく気持ちがいい」


 ——空知星そらちせい

 結婚するまで、星はその名に悩まされた。

 小学校のころは馬鹿にされることよりも、可愛い名前だね、と言われることのほうが多かった。

 変化が訪れたのは中学に入ってからで、クラスの男子の一人が言い出した。お前、空のことをよく知ってるんだろ。空知だもんな。明日、晴れるのかよ。一人が言い出すと、つられるように他の男子も言い出した。なあ、明日晴れにしてくれよ。今晩は星がよく見えるか。ペルセウス座流星群っていつごろ見えるんだよ。ふたご座流星群は。お前、空のことならなんでも知ってるんじゃねえのかよ。空知って変な名字だな。星ってすげえ勘違いな名前だよな。自分のことアイドルかなんかだと思ってんのかよ。スター気取りってか。


 ——うるさいうるさいうるさいうるさい。


 ご飯のうえを飛ぶ小蠅のようにうっとうしくて、潰してしまいたいのにうまく捕まえられないのがもどかしかい。

 だが、男子とはそういうものだと割り切れないほど星は子供ではなかった。

 問題は別のところにあった。

 男子にからかわれることが増えるにつれて、女子から疎まれるようになった。話しかけても冷たい反応が返ってくるだけで、男たらし、男好きと陰口を叩かれた。

「お前のせいで、アキ、別れることになったんだからな」

 一年の二学期、夏休みがあけたばかりの頃のことで、アキとは当時、クラスの中心にいた女子で、彼氏はサッカー部の男子、小学校の同級生だった。

「で、どう責任取るんだよ」

 顔と腹だけは殴られなかった。

 友達ごっこのためにはいつでも敵が必要。戦隊もののヒーローが団結するには、敵が必要。正義のためには、敵が必要。自分以外には皆、敵が必要。だから自分が的になるしかない。

 誰もが男子と話したいのに、話すことがゆるされるのは一部の女子だけ。その女子たちもサッカー部かバスケ部、野球部の男子としか話さない。星を除く誰もが息苦しさを感じ、星だけが自由に見えた。だから誰もが、星を羨んだ。そして、標的になった。

 ——私は悪役。

 納得できるはずのない理不尽を受け入れるのが、いつのまにか癖になっていた。反抗しなかった。耐えようとすら思わなかった。腹の奥で黒く太い毛の生えた動物が、グウグウと低い声で鳴いて、憎悪を貪り食って大きくなり、吐き気に似たそれが喉元まで迫るのを、何度も必死で飲み下した。

 出してはいけない、出してはいけない。

 奏多にそんなものを見せるわけにはいかない。奏多と出会って星は、糸井星になった。井戸のなかから見上げた小さな空から、細い糸のような星の光が垂れる。それで十分だ、と星は思った。

「天気も良いし。もう春だね」

「うん」

 女子高生がふたり、砂浜を歩いていた。

 星はふと、そんなところになくした時間を見つける。恒星の光に似ている。それはここにあるのに、今ではもうどこにもないかもしれない光。そんな光を、なにげなく見つける。美しく輝いているはずが、もうそこにはないかもしれないひかり。そうして時間の前後関係が壊れるのが、少し怖い。

 星は海風が冷たい気がして、横にいる奏多の手を握った。

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