第8話

「はあ? 谷本また馬鹿したんですか? これで何度目——」

「まあさ、谷本君も反省してたからさ。僕からも注意はしておいたし」

「カズさん、ちょっと甘すぎませんか?」

 福田薫は手をとめると、和明を正面からしかと見据えた。

 こうして面と向かって薫が人を話すのは珍しい。彼が仕事の手を止めることは滅多になかった。

 和明の表情が緊張した。業務においては薫に頼りっぱなしな和明にとって、彼の意見をないがしろにはできない。

「それはねえ。そうかもしれないけど。でも、辞められる方が困るでしょ?」

「まあ、それはそうですけど……」


 ——俺の仕事が増えるじゃねえかよ、くそっ。


 薫は袖机のひきだしからカップを取りだすと、バンッと音を立てて閉じた。

 すっくと立ちあがった身長は百八十センチをゆうに超える。実際は百七十九センチだが、ブーツで割り増ししていた。

「じゃあ、尻拭いはカズさんがやるって認識で良いですか?」

 高くから鋭い目で、射貫くように和明を見下ろした。

 明白な意思表示だ。

「ああ、わかってる。僕と糸井さんでどうにかするから」

 薫はあからさまに不快感をあらわにし、ハーッと溜め息をついた。

「カズさん。せいちゃんそんなのできる状況じゃないんだから、やらせたって無駄だよ。見ててわかるじゃないですか、星ちゃんにそんな余裕ないって。カズさんの仕事量が多いのはわかってますけど、全部それを星ちゃんに流したって星ちゃんがつぶれるだけですよ。もうちょっとバランスとか考えてやりなよ」

「……ああ」と、和明はおざなりに答えた。画面から視線を外さなかった。


 ——くそっ。いつものだんまりかよ。


 これ以上になにを言っても、ああ、という返事以外に返ってこない。

 時間を置けばおのずと和明の感情はしずまる。解決しようと工作しても功を奏さず、かえってこじれるだけだ。三年以上の付き合いになる。薫はなにもいわず業務に戻った。


 午後になると、星が本社の研修から戻った。

「戻りましたー」

 相変わらずのしゃがれた声は、全てが濁音だった。先週の風邪をまだ引きずっている証拠だ。

「ああ、おかえりなさい」

 和明の調子は朗らかで、ほら、と内心薫はほくそ笑んだ。

 コントロールの範囲内にいる。和明にしろ谷本信也にしろ、予想の範疇を越えたりはしない。この職場でコントロールの範囲内に収まらないのは星くらいのものだ。戦術、戦略、策略、策謀。ポリフォニックな攻撃をも巧みにかわす星の回避力に、さすがの福田も舌を巻いていた。


 ——でも、今日はきっと。


「星ちゃん、その声どうしたの?」

 星のしゃがれた声に心が浮き立った。

 この手の女はからかいながら距離を縮めるのが最短ルート。それもできるだけ軽く、何気なく、どうでもいいように。どういうプロセスで攻めるべきか、福田の灰色の脳細胞が最適解を導こうと血流全開フル稼働で出力されたのがこの作戦。まだ試していなかった。

「風邪です。昨日、病院行って薬もらったんで、すぐに良くなるとは思いますけど」

「ああ、糸井さん。ちょっといいかな。ミーティングルーム取ってあるから」


 ——え、まじかよ。


 和明は薫をちらりとも見ようとしなかった。

 午前の不機嫌もすっかり直っていたと思ったが、これは午前福田が責め立てたことへの当てこすりだ。

 福田が星と話そうとしているのを、和明だってわかっていた。

「あ、はい。昨日お話ししていた件ですよね。承知です」

 ラップトップを持って立ち上がると、ふたりは執務室を後にした。

 扉の向こうに消えたふたり背にを見送ると、薫はチッと舌打ちをした。斜め前のデスクに座る誰かが一瞬、反応したが、また何事もなかったかのように、オフィスは喧騒に紛れた。

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