第7話

「夏休み、本当にこんなに出るの?」

 週五日八時間、計四十時間。谷本信也のシフトはフルタイムと変わらなかった。

「大丈夫です。八月はテストもないんで。学校が始まる九月中旬までは、こんな感じでお願いします」

「うん。ありがたいんだけどね。大学生ってサークルとか友達と遊んだりとかそういうのあるでしょ? 大学時代の友達って、長い付き合いになる人いるよ。大切にしたほうがいいと思うけどな」

 信也は鼻の頭を指で掻くと、へへッと意味もなく笑った。

「サークルとか入ってないんすよ。それに今、人足りないじゃないすか。大変そうだから力になりたいんですよ」

 和明は椅子を九十度回転させ、ほとんど睨むような目で信也を見た。なにかしただろうかと谷本はいぶかしみながら、次の言葉を待った。

「ありがとう。確かに人は足りないから、とりあえずこのシフトで受理させてもらう。けど、もししんどくなったり苦しかったら、本当にすぐにでも言って欲しい。学生の本分は学業だから。それに、遊ぶのも大事なことだからね。年長者が説教くさいこと言うけど、大学生っていう今しかない時間を大切にして欲しいんだよ」

「お気遣いありがとうございます。じゃあ、それでお願いします」

 視線が空席へ向いた。

 蛍光灯の光がそこだけ弱く、いつもより暗い気がした。上から吹くエアコンの風が、襟元から這い込んでくる。

「ちょっと寒いですね」

 去年の夏、風邪を引いたことを思い出した。

「ああ。設定温度変えていいよ」

 外の気温はそれほど高くなかった。雨のせいで空気はべたつき、朝なおしたはずの前髪の癖が、くるんとまつげに絡みつこうとしてうっとうしかった。

 それでもいくらか気持ちが晴れている。今日は福田薫がいない。

「福田君ね、夏は毎年ヨーロッパだから。今回は東欧を回るって言ってたよ。旧ソ連領土内をぐるぐる回るんだってさ」


 昼食後にデスクへ戻ると、せいのすがたがそこにあった。休みだと聞いていた信也は虚をつかれ、あっと小さな声を上げた。

「谷本君。おつかれさまです」

 星のその薄氷を履むかの如き慎重さで発せられた声はヤスリのようにざらついて、いがいがしていた谷本の心をあっというまに磨き上げた。

「お疲れ様です」

 上擦った谷本の声が執務室に響き渡った。

「声、すごいですね」

「やっぱりわかる? 風邪引いちゃったんだ。アハハ」

 まるで全ての言葉が濁っているかのように、星の声は嗄れていた。

 普段の様子とはまるで違い、気さくというかフランクというか、理由はわからないが、信也はどうにも抑えようのない興奮を感じた。

「そりゃわかりますよ、そんな声ですもん」

「ううううう。やっぱりかあ。ひどい声でごめんー」

 どれだけ話しても、たとえ信也から提案しても、星は敬語を崩さなかった。社員の和明や同じバイトの福田薫に対してもひとしく敬語で、常にビジネスライクというわけでもなく、適切な愛想を振る舞った。一見すると好印象だが、せっかくの印象が薄まっていくのは、一か月後も二か月後も態度が一貫して変わらないからだ。

 誰にとっても距離が縮まらない存在。誰もが一度は好意を抱くのに、その状況にやきもきし、誰もが離れていく。

 だから星はいつでも孤独……。


 ロンシャン礼拝堂。

 ル=コルビュジェが設計した教会から漏れる光、重たい雲のような屋根、真っ白の壁。背景にあるのはどこまでも晴れ渡った青い空。

 建築史の授業で勉強したばかりの数枚の写真が脳裏をめぐっていた。それは美しく、それでいて軽やかで、温もりのある建築だった。信也はなぜか、星がそれに似ていると思った。


 ラップトップに向きあう星の膝にはブランケット、肩からはカーディガンで、夏とは思えない服装なのに、体は小刻みに震えていた。

「自分、温度あげてきますね」

 星は虚ろな表情のまま力なくうなずいた。

 からだが軽くなる。前にもあった。二十五階から飛んだら、きっとこういう気持ちになるのだろう。今ならなんでもできる、ドキドキして、自由で、浮遊感があって、心がきらきらした喜びで満ちあふれている。落ちるなんて嘘だ。どうして恋は、落ちる、などと言うのだろう。落ちるわけがない。恋は、飛ぶものなのだから。

 窓の外に視線をやると、川鵜のむれが日のひかりをめざすように天高く羽ばたいていた。長い首を前に長く伸ばし、小さな羽を必死にばたつかせていた。体の割には、小さな翼だ。

 エアコンのコントローラー画面を見た。設定温度が二十四度になっている。信也が少し上げても、また誰かがすぐに下げるのだ。平凡な時間が繰り返される。そう思った途端、息が詰まった。苦しい。それでも必死に手を伸ばして、谷本はエアコンの温度を上げた。


 午後から雨はやみ、ところどころに晴れ間が見え始めた。窓からさす光は明るく、窓際のデスクの人が次々とブラインドをさげた。室内は乾燥している。それなのに、まつげに絡みつこうとする癖のある前髪だけは、もとにもどらなかった。

「和明さん、これ、数字がでないんですけど。エラーになるんですよ、ここの数式が。なんで。ねえ? これ、なんでなんで?」

 信也はちらとふたりの様子を横目で見た。和明は星のデスクに身を乗り出して画面を覗き込む。その瞬間、ふたりの肩がかすかに触れ合った。

「ああ、これですか。参照がエラーになってます。ここ、集計シートのA4だから、えっと、ほらこっち。合計シートになってますよ。そこ直せば平気なはずです」

「アハハ、なんだあ、そんなことだったの。なんだ、なんだ、なんだ。アハハ、あたしバカみたい。ありがとうございます」

「いえ、とんでもないです」

 星が横に座っている。それだけで仕事が手につかないのに、星の様子がおかしいとなると、信也の手は完全に動かなくなった。

 星は画面にかじりつくように顔をよせ、レポートの数値とにらめっこしていた。時々なにか思い出したのか、エヘヘと笑いを漏らした。カタカタ鳴るキーボード。そしてまた笑いが漏れる。食べかけのパンが口からこぼれた。

「星さんさっきからどうしたんですか? パン、口からぼろぼろこぼれてますよ」

「いや、なんでもないです。大丈夫です」


 コルビュジェの建築はどちらかといえば無機質で、彼の提唱した近代建築の五原則、水平連続窓やピロティ、屋上庭園などを思うと、規則的、法則的なはずなのに、ロンシャン礼拝堂は荘厳さと軽妙さという、相矛盾した二極の魅力を備えていた。それがどうして星と重なるのか、もう少しでわかりそうなのに、大切ななにかが足りない。

 足りないのはロンシャン礼拝堂ではなく、星の方だ。なにかが決定的に欠けているのに、なにが欠けているのかわからない。あるいはその欠落の欠落こそが、星の欠けているなにかなのかもしれない。信也は頭の中で錯綜する論理にからめとられて、身動きがとれなくなっていく。


「谷本君、エクセルの集計ファイルって、もう先方に送ってくれた? 福田くんが今日お休みだから谷本君がやるって言ってくれたやつ。デッドライン二時までなんだけどさ」

 メールの下書きのフォルダに1というアラビア数字が太字で示されていた。下書きの未送信が一件。時計を見ると、針は午後三時を示していた。

「あっ!」

 信也は和明のほうを振りむくと、その表情に言葉を失った。怒り。今朝、自らその仕事をやると名乗り出たのだった。風邪で休むという星のために。

 だが——。

「自覚あると思うけど、谷本君、最近たるんでるよ。大事なレポートの更新をしてなかったり、入力漏れがあったり、今日みたいにメール送信を忘れたりさ」

「も、申し訳ございません!」

「今朝も言ったけど、学生の本分は学業だよね。それに、友人と遊ぶのだって大切な時間だと思う。なんか説教臭くてごめん。たださ、夏休みの件、週五日はやっぱり多すぎる気がする。こういうミスも増えてるし、休むって言うか、リフレッシュするって言うかさ。ちょっと考え直さない?」

「それは、大丈夫——」

「そう言ってくれるのはありがたいんだけどさ、」

 和明が途中でさえぎった。

「とりあえず考え直してみてよ。まったく地に足ついてないでしょ。その点も含めて一度ちゃんと考えてっていうこと。メールは僕の方から謝罪込みで送っておくから」

「……はい。承知しました」

 信也は首を縦に振ったものの、やきもきした思いが胸の内でくすぶっていた。

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