第10話
——梅雨が明ける。
川の水嵩は増していた。長雨をふらしたねずみ色の雲は東に抜け、金曜日の夕暮れの空はピンク色に染まっている。心がひそかに色めき立った。西の空が澄んでいる。明日は晴れる。晴れる。晴れる。週末に晴れるのはおよそ一ヵ月ぶりだった。和明の脳裏では、早くも白い衣が風にひるがえっていた。
「伊藤さん、どうしたんですか? 早く行かないとミーティング始まっちゃいますよ」
いつもなら、和明にうながされて
一週間が終わる。久々の晴れ間が、太陽が待っている。そんなことを考えると、たちまち和明は落ち着かなくいなった。
「すみません。行きましょうか」
バッテリーケーブルを引き抜き、ラップトップを閉じた。すぐに星の背を追いかけようとして、足を止めた。
「福田君。先週頼んでおいた資料ってできてる?」
振り返って福田薫に尋ねた。
「……カズさん、それもう月曜には完成してクラウドにアップしてあります。メールでも送りました、口頭でも伝えました、メッセージも既に送ってあります」
薫は顔もあげずに応じた。スピーカーから流れる業務放送かなにかのように無機質で、色彩を欠いた声だった。
「そっか、ごめん。すぐに確認します。ミーティング行ってくるんで、そのあいだ、こっちよろしくお願いします」
「はい」と、またスピーカーからモノトーンの声が流れた。
「よろしくお願いします」
星もキャビネットのまえで立ち止まり、頭を下げた。薫が手をとめ、椅子を九十度回転させると、星を見上げた。
「うん。星ちゃん、行ってらっしゃい」
福田の声に色が戻った。星はちらと薫を見やってから、視線をそらした。そのふたりの様子の変化に気づくと、和明は落ち着かなくなった。
朝。目覚まし時計よりもはやく起きて、ゆめうつつの境をうつろう。まどろみを歩いているあいだも太陽は時をすすめ、起きろ、目を覚ませ、と和明をせかす。ちょっと待ってくれ、まだ起きる時間ではない。と、かたくなに太陽の声には応じず、あわいをうろつきながらも、六時までは眠る。周囲に流されてばかりの和明も、習慣だけはこうして律儀に守り続けていた。彼の朝は、きっかり六時と決まっている。
夏はもうすこし早く起きても良いかもしれない、というより、窓からさすひかりで目覚まし時計よりもどうせ早く起きてしまう。それでも、自分の呼吸をのんびりと数えながら、気長にアラーム音を待ってから目を開いた。卵の黄身のようにとろりとした、夢のような時間が好きなのに、目覚めるといつもさらさらの朝が待っている。それが少し寂しかった。
六時に響く高い音とともにからだを起こし、ベッドからおりた。顔を洗うよりもさきに、和明は洗濯機へと一直線に向かった。
夏の気が滅入るほどの日差しが高い空からそそがれている。二時間、もしくは三時間もあれば乾く。晴れ。梅雨の後の、待ちわびた、焼けつくようなひかり。
——春過ぎて、夏来にけらし白妙の。
三種類あるコースの「標準」でスタートボタンを押した。
パソコンでグラスハープの動画を流すと、叫び声のような甲高い音が部屋いっぱいにひろがった。鋭い音が夏の朝の過剰を、ケバブでも削ぐように剥いでいく。そうして時間が経つと、いくらか角の取れた、まるい朝になる。
和明はコーヒーを淹れた。
「式の前に一度、三人で会っておきたいんだ」
悠志は愚直なほどストレートに告げた。電話が遠い。よく通るはずの悠志の声が、その時だけは届かなかった。
「律も和明も、ふたりとも俺にとってかけがえのない大切な人だから」
三人で『まり』に行くのは、律を紹介して以来だった。
店の扉を開けると、相変わらずの油の臭いが鼻をつき、けたたましい学生たちの話し声が表の通りへと漏れた。ふたりの背中はすぐにわかった。入り口から見て右奥の席で、来たばかりなのか、酒も頼まずしずかに座っていた。
「どうぞ、奥の席にいらしてますよ」
「はい、ありがとうございます」
ふたりが和明に気がつく様子はなかった。
近づいて行くと、久々に会う懐かしさと後ろめたさのようなものがないまぜになって、足が重かった。だが、顔を見ると嘘のように心は晴れた。なにも変わってはいない。
「なんていうか、はっきりさせておきたかったんだよ。誠実さっていうか、正直さっていうか。俺、そういうの大切だと思うから」
乾杯をして、悠志が話し始めた。すぐ後ろで、学生らしき集団が政治の議論を交わしている。内容はまるで違うのに、なぜか悠志と学生たちは同じ熱を帯びている。
「別に、僕は気にしてないよ」
悠志にちゃんと聞こえるように、必死に声を張り上げた。
「わかってる」
「ふたりが幸せになるなら僕も嬉しいから」
また、声を張り上げた。
「うん、ありがとう」
コトン、と悠志がジョッキを置く音が響いた。
騒々しいはずの店内が、呼吸を合わせたかのように、一瞬だけ静まりかえった。こんなことが前にもあった。この店だったか、別のところでだったかは覚えていないが、時間が止まったかのように静まり返るような瞬間を、何度も経験したことがある。その度、自分がなにかしただろうかと思う。
「カズ君、ちっとも変わってないよね」
律の声にはそれとわかる棘があった。
和明ののどを、ひんやりとした苦味が流れおちる。痛みにも似た爽快な刺激が、奥ではじけるのがわかった。
「どういうこと?」
律がいきおいよくビールをあおると、口の端からあふれた泡が首をつたって胸元へと流れこんだ。
夏だからすぐに乾く、ブラウスが濡れるくらい気にしてたまるか。ゴクンゴクンと音を鳴らしてのどが語る。言葉にせずとも、いわんとしていることはわかった。酒を酌み交わしたのも一度や二度ではない。また、空になったジョッキを叩きつけるかのようにテーブルに置いた。
「おい、ちょっとこぼれてるぞ」
悠志がおしぼりで律の首元をふいてやろうとするが、律はそれを奪い取って、自分でぬぐった。
「すみません! 生、もう一杯!」
律は店の反対の角に立つ店員に、大声で注文した。テーブルに身を乗り出し、空のビールジョッキを固くにぎりしめるその手の甲には、青い血管がくっきりと浮き立っていた。
「はーい! すぐお持ちします!」
「ねえ、カズ君。いつまでそんな風に生きるつもりなの? 自分の年齢とか、そういうの真剣に考えたことある?」
「なあ律、まだ酔うにはちょっと早いだろ」
悠志はいさめるように肩に手を置くが、それを乱暴に払いのけた。気まずい雰囲気になるのも構わず律は続けた。
「別にさ、私との間であったことをとやかく言いたいんじゃないの。悠志はとても素敵な人だから、悠志と会えたのはカズ君のおかげ。だから感謝してるくらいだよ。ただ、カズ君さあ、あの時からなにも変わってないよ。一歩も進んでいるようには見えない。カズ君がどう生きるつもりなのか、私にはまるでわからないよ」
和明は音も立てずにコースターのうえにジョッキを置いた。
「ごめん、りっちゃん。りっちゃんの言ってること、理解はできるんだけど、はっきりいって僕はちっとも共感できないんだけど」
一度も見たことのない和明の様子に、悠志は目を丸くした。
「ちょっと、和明?」
「結婚とか子供とか、仕事のこととか、考えないわけないでしょ。職場でも同い年で結婚してる人だっているし。どうでもいいなんて思ってない。でも、どうしてそんなに年齢が大事? 結婚とか将来とかが大事? どうして今、それを決めなきゃならないの?」
律の濡れたブラウスから、下着が透けて見えた。
——春過ぎて、夏来にけらし白妙の、衣ほすてふ天の香具山。
純白の衣が、小さな山のふもとで、心地よい初夏の風にひるがえる。そんな光景が脳裏に浮かぶのと同時に、話しているのとはまったく関係のないことに思い当たった。
——
クラス一の秀才。おかっぱ、黒い瞳に華奢な肩。勝てないにしても、持統天皇の歌だけは取ってやる。
少女と向き合ったときに感じた胸の高鳴りは、今でも覚えている。春過ぎて、という言葉に反射的にからだは動いた。重なるふたりの手。彼女の手は、じっとりと汗で濡れ、和明の手の甲の上でわなわなと震えていた。コンマ数秒の差。たったの一枚だけど、彼女から取れた。少年時代の、なつかしく、とりとめもない記憶だった。
「カズ君はさ、男だからそんなことが言えるんだよ」
律は吐き捨てるように言ってから、二杯目のビールを空にした。そして手を挙げて店員を呼ぶと、迷わず三杯目のビールを頼んだ。
「律。そんなこというために三人で集まったんじゃないだろ」
とりつくろうような悠志の言葉に、律は思わず視線を落とした。
お通しのきゅうりの浅漬けが、皿からこぼれおちていた。律がまくしたてた拍子に、和明が食べようとして落としたきゅうりだった。
「そうだね。ごめん、悠志。……カズ君も」
「うん。こっちこそごめん」
和明は、律が空にしたばかりのジョッキを取ると、テーブルの端に置きなおした。三人が黙っても、あちこちから絶えず人の声が聞こえてくる。騒がしい店内で、その場だけがしんと静まっていた。
悠志がビールを飲みほした。
「くはあー。じゃ、仕切り直しってことで。和明にはたっぷりとお祝いしてもらわなきゃ。もちろん、和明のおごりだろうし」
悠志が冗談めかして言った。
「三人の今後の友情のために、さあ、祝おう」
「うん」
律が頷くと、三杯目のビールが運ばれてきた。ゴン、と音を立てて荒っぽく置かれたジョッキから、白い泡がこぼれた。
悠志がジョッキを高く掲げ、それにならうように二人もジョッキを持ちあげた。空のジョッキ、一杯のジョッキ、飲みかけのジョッキ。三人は顔を見合わせ、恥ずかしそうに笑った。
緊張と懐かしさとやきもきする気持ち。三者三様、抱えた気持ちをふりはらうように、カンッとガラスを打ち鳴らした。
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