第17話

せいちゃん、どうしたの?」

 奏多が顔をさげ、したからのぞきこむように星を見た。

「ううん。ごめん、どうもしない」


 ¬——ホントは、どうもする。


 梨絵と谷本の様子が、なにかおかしい。だが、それをここで話したからといって、奏多になにができるわけでもない。

 本当は聞いて欲しかった。不安。なにかが動き始めているのに、自分がそこから取り残されて、大きくなった黒い波に飲み込まれてしまう。そういう不安があった。

「そっか、ならいいんだ。星ちゃんごめんね、明日早いから先に寝るね」

「うん。奏多君、ごめんね」

 そう言いながら、すぐにリモコンで部屋のあかりを暗くした。顔を見られたくはなかった。

「まだ忙しいの?」

 奏多はベッドに潜り込むと、シーツから顔だけのぞかせた。

「うん。しばらくはこの状態が続くと思うんだ。星ちゃん、いつもありがとう」

「ううん。忙しいのにごめんね」

「僕は平気。でも、星ちゃんが心配だよ。本当に平気?」

「奏多君は優しいね。でも、大丈夫だよ」

「そっか。それならいいんだけど」

「うん。おやすみなさい。奏多君」

「うん。おやすみ」

 奏多が疲れているのは一目でわかった。

 工期がかなりずれ込んでいる。季節外れの台風が災いし、建材の運搬が遅れた。それに加え、大工がひとり職を辞した。どちらも奏多になんの非もないうえ、奏多の力でどうこうできる問題ではなかった。それから二週間、遅れを取り戻すべく連日早朝から家を出て、遅くに帰ってきた。それでも解決策が見出せないまま、奏多はいまだ苦心していた。そんななか、奏多に余計な心配をさせるわけにはいかない。

 すぐに寝息が聞こえてきた。日に四時間ほどしか眠っていないのだから当然だ。


 ——さて、と。


 寝室の戸をしずかに閉めると、星はキッチンで紅茶を淹れた。

 奏多が早く眠ったとしても、星のひとりの夜は続く。そういう夜の過ごし方を、星はほとんど忘れていた。

 奏多と結婚して四年。大学を卒業してから四年間同棲して結婚に至ったことを考えると、八年間も一緒に過ごした。それまでは実家暮らしだった。星は本当のひとりを知らない。そう思いながらも、本当はいつもひとりだったとも思う。誰のことも理解できないし、誰からも理解されない。そういう感覚が常につきまとっていた。

 だとしたら、どうして奏多と八年間も一緒にいられたのだろう。星はそんなことを問う自分自身に嫌気がさした。


 ——そんなの、好きだからに決まってるしょや。


 テーブルのうえに置かれた、小さな箱を見やった。錦糸で刺繍したかのような艶やかな装飾に目を引かれるものの、箱ばかり目立ち、中身の印象も、くれた人の印象も、すっかり薄れてしまった。

「きっとその子、星ちゃんに気があるんだよ」

「アハハ、まさか」

 奏多の言葉を真に受けなかった。一回りも年の離れた大学生が自分に好意を抱くなどとはどうしても思えない。そっと小さな箱に手を伸ばす。蓋を開けると、ほんのりとチョコレートの香りが残っている気がする。甘い。


 ——まさか、私のことなんて。


 半年以上前からずっとテーブルに置きっぱなしだった。外装が綺麗だったので、和明がチョコレートを食べた後、箱だけ返してもらった。

 考えてみれば不自然なことはたくさんあった。それ以外にも、信也は頻繁にジュースやお菓子を買ってきた。だが、それは谷本に限ったことではない。自分によくしてくれる人は他にもいる。他社の人もよくお菓子をくれるし、薫はイチゴ味のソーダを買ってくれた。和明にだって喫茶店ではご馳走になったのだ。


 ——だから、そんなのありふれたことなんだ。


「糸井さんってバカですか。自分が女を使って生きてるって、わからないんですか。鈍感すぎるっていうか、無頓着すぎるっていうか。だから女に嫌われるんですよ」

 梨絵がどうして苛立っていたのか、どうして八つ当たりのような言葉を吐いたのか、星にはまるで見当がつかなかった。

 梨絵の面接の後、和明から相談されたことを思い出した。

 こつこつと地道に勉強し、ファイナンシャルプランナーと簿記3級を取得。取り柄は明るいこと、常に笑顔でいることを心がけている。笑顔でいれば、自然と笑顔になれるようなできごとが自分のところを訪れるのだ、と。趣味は読書とランニングで、毎月十冊の読書と最低でも三十キロは走ると決めている。話した感じも真面目な印象で、履歴書に記載された内容には嘘偽りなく、それをそのまま現実にしたかのような好人物だった。だが、そこがどこか引っかかる。

 これが和明の話した、梨絵に対する最初の印象だった。

 再び小さな箱を見やる。谷本のことと梨絵が苛立っていたことと、なにか関係があるとしたら。


 ——藤原さんは谷本君が好きってこと?


 紅茶をカップに注いだ。暖房を入れないと夜はもう寒い。扉を閉め切っているのに、どこからか隙間風が入ってきた。これではなかなか部屋が暖まらない。スリッパの下から、爪先が金属に触れたみたいな冷たい感触が伝わってくる。奏多に相談したいことがまたひとつ増えた。


 ——もしかして、福田さんのことが好きなの?


 薫からもらったイチゴ味のソーダ。あの頃、梨絵はすでに入社していたか、星は正確な前後関係が思い出せなかった。

 熱を出して休んだ。喫茶店で和明に会ったのよりも前の出来事だっただろうか。正確に覚えているのは、谷本からチョコレートをもらった時期だけ。入社して半年も経たず、毎日が不安だった。胃も腸も荒れ、なにものどを通らなかった。そんな矢先にもらったチョコレートを忘れるわけがない。

 星は紅茶を啜ると、フーッと長い息をついた。


 ——溜息じゃない、溜息じゃない。深呼吸、深呼吸。


 奏多に教わった呼吸法を実践する。一から五までゆっくりと数えながら息を吸い、一から五までゆっくりと数えながら息を吐いた。胸ではなく、横隔膜が下がって、お腹が膨らむように呼吸する。気管を通り肺にたまる空気に意識を集中させ、自分自身が酸素になって肺胞を経て、からだの奥深くの動脈を巡っていくのを想像する。足先、指先までいたると、そこから静脈をたどって肺へと帰り、何割かは二酸化炭素に入れ替わっていて、呼気は吸気よりすこし重たくて、呼吸しただけ体重が軽くなった。

 暖房をつけ、熱い紅茶を飲んでも、軽いからだは冷たいままだった。

 シンク下の戸棚を開け、奏多が職場でもらったブランデーを取り出した。ポットからあらたに注いだ熱い紅茶にトポトポとブランデーを混ぜると、アルコールの香りがツンと鼻を突いた。小指を浸し、少し舐めた。ただのお酒。温まりそうだ。紅茶の香りはブランデーの強い香りで消されてしまった。スティック砂糖を二本入れた。


 ——美味しい。


 のどの奥を通る熱い感覚がからだを温めていく。空になったポットを手に、キッチンへ向かった。テーバッグを取り替えると、今度はアップルティーにした。ただの紅茶よりも香りが強く、これならブランデーにも負けないだろうと思った。二杯目を飲み終える頃には体温と室温が溶け合うような心地がして、ソファの上で毛布にくるまり、猫のように丸くなっていた。

 奏多はとうに眠った。眠れない夜を、ひとりでどう過ごすべきか。自ら淋しさを慰める方法を、星は知らないわけではない。それでは埋められない欠落がある。欲の赴くままに任せれば、かえってそれは大きくなる。いたずらに欠落を大きくして、埋める手段がわからなくなってからではもう手遅れだ。なのに、自然と手が伸びた。

「糸井さん、バカですか」

 梨絵の言葉を思い出した。星の手がとまった。ソファに横たわっていた星は、からだを勢いよく起こし、空のティーカップいっぱいにブランデーを注いで、それを一気に煽った。


 ——バカだ。バカだ。ホントに私はバカだ。


 音を立てないように、そっと寝室のドアを開けた。奏多の寝息が聞こえる。それだけで、ざわざわと腹の底で蠢いていたなにかがしずかになる。シーツを持ち上げ、からだを無理やりねじこむようにして、奏多の隣に身をよせた。

 リビングよりも寒いはずの寝室のほうが、ずっと暖かく感じられた。奏多の胸に顔をうずめると、もう我慢ができなかった。


 ——声は出しちゃだめ。声は出しちゃだめ。奏多君、起きちゃうから。


 息を潜めて奏多の心臓の音を聞くうちに、星は次第にそれが自分の鼓動と区別がつかなくなる。ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。バイクに乗ってエンジン音に共鳴してしまうあの感覚よりも、もっともっともっと近い。ひとつになる。愛する人と寄り添って、ぴったり重なる。重なりかけたリズムは、すぐにずれてしまう。ずっときれいに重なっていればいいのに、完璧にシンクロすればいいのに。単純で簡単なことのはずが、どうしてこれほど難しいのだろう。近いのに、遠い。奏多だけじゃない。誰もが近いのに遠い。それでも、奏多だけは、ずっと近くにいて欲しかった。もっと近くにいて欲しかった。単純で簡単なことのはずなのに、どうして、どうして——。

 なにかが星の後頭部に触れた。

「んんー。星ちゃん、すごいお酒くさいよ」

 奏多はもう片方の腕も回すと、星を強く抱き寄せた。

「ん、ごめんね、起こしちゃった。起こすつもり、なかったの」

「僕は大丈夫。ねえ、星ちゃん。別に我慢しなくてもいいんだよ」


 ——我慢なんて、してないもん。


「……うっぐ、ううう」

 ひとたび声を出して泣き始めるともう止まらない。泣きたくないのに、奏多を心配させたくないのに、星の目からどぼどぼととめどない涙が溢れだした。

「星ちゃん。大丈夫だから」

 奏多は星を強く抱きしめた。

「大丈夫。大丈夫」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 星は泣きながら謝り続けた。奏多は大丈夫、大丈夫という言葉を、何度もやさしく繰り返すだけだった。その胸で泣くうち、星は眠った。

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