14.鬼と呼ばれた男

「お勤めご苦労様でしたね、ユキノジョウさん」


 糸目の寒窺が笑った。

 ユキノジョウは、トウキチと糸目の二人を交互に見ながら、ゆっくりと目を見開いてゆく。目端が切れ、赤いものが滲む。こめかみに青筋が浮き上があがる。嚙み締めた奥歯が砕け、バキと凶暴な音を立てた。


 剝き出しの憤怒と憎悪に晒されながら、糸目は悠然と笑みを深めた。トウキチの手を摑んだのとは逆の手には、抜き身の〈スコップ〉が握られていた。糸目はそれをゆっくりとトウキチの細い首筋に近づけてゆく。


「そんな怖い顔をなさらないでください。私は話をしに来ただけなんですから」

「黙れ。その子を放せ」

「あー、怖いこわい。私は小心者なんです。恐怖を感じると、すぐに体が震え出してしまう。ほォら」


 おどけるように言って、糸目は手許を小刻みに震わせた。〈スコップ〉の刃が細い首の上でチラチラと瞬いた。トウキチの喉からヒュッと悲鳴にならない悲鳴が漏れる。


「貴様……ッ!」


 糸目はさも愉快そうな笑い声を上げる。


「いいですねェ。そう、木偶みたいに大人しくしててくださいよ?」

「何が、目的だ」

「なに、難しいことではありませんよ。あなたのお力を貸していただきたいんです」


 糸目は空いた手をトウキチの頭にのせた。


「親方様はね、あなたのことを思い出されたんですよ。近頃、隣国との緊張が高まっていますからね。もし戦になれば、あなたほど心強い寒窺は他にいないというわけです」

「知ったことか」


 ユキノジョウは吐き捨てるように言った。


「くだらぬ思い込みで、を〈斬伐組〉に追いやった腑抜けの言うことなど聞けるものか」


 怒りを露わにした口調とは裏腹に、ユキノジョウの顔つきからは色彩が失われていった。粘つくような憎悪だけが、黒々とした瞳に残った。糸目はその変化に気づいていないのか、余裕ぶった笑みを浮かべたまま、ごしごしとトウキチの頭を撫でるのだった。


「そう言うだろうと思い、先んじて手を打たせてもらったんです」

「なぜミフユ殿を見殺しにした」

「戦に来てくれと言っても、あなたは聞かなかったでしょう? 親子の身を案じて」

「否。この国が、民を等しく守る国であったのなら、いくらでも戦場で〈スコップ〉を振るっただろう。だが、この国は違う。弱者を平然と虐げるばかりか、あまつさえ見殺しにした。なぜだ。なぜ、そんなことができるのだ」


 ユキノジョウの握った〈スコップ〉がメキメキと軋み音を立てた。

 糸目はやれやれと肩をすくめた。


「物わかりの悪いお方だ。なぜって、見せしめですよ。当然でしょう。親方様は、未だにあなたを恐れているんですから。とびきり頑丈な首輪を必要としているんです」


 糸目は屈みこみ、トウキチの首に刃を押し当てた。呻き声を漏らしたその首から血の糸が垂れる。


「つまらぬ問答はこの辺りで終いにしませんか? あなたに選択肢はない。私に付いてこなければ、この子がどうなるか、あなたにも解るでしょう?」

「選択肢、確かにひとつだ」

「では……」

「腑抜けと、それに仕える者は、みなごろしだ」


 その声は、糸目の耳もとで聞こえた。彼の目の前に、すでにユキノジョウの姿はなかった。汚らわしい病憑きの女の亡骸が、ぽつんと横たわっているだけである。

 糸目は声のほうに振り向こうとした。その時、足許に何かが落下した。水の詰まった袋を叩きつけたような音が鳴った。


「あ、ぎゃあぁあぁあぁぁあぁああああぁあぁあァ!」


 突然、糸目は目を剝き、絶叫した。そのままゴロンと後ろに転がり、激痛の走る己の腕を凝視した。肘から先がなくなっていた。

 ユキノジョウはトウキチを抱きあげ、〈スコップ〉についた血を払った。そして、一度は封じこめた怒りを露わに、ぐわりと目を見開いた。再び目の端が切れ、血が流れた。悪鬼が流す涙のごとく。


「この世全ての苦しみを味わえ」


 バタバタと糸目は後退った。血の噴き出す片腕を押さえながら。


「こ、こんな事をして、ただで済むと思うのか! 親方様に逆らうということは、この国を敵に回すということ……! すべての寒窺を、敵に回すということなのだぞ……!」

「知ったことか。腑抜けの恐れた力がどれほどのものか、その身を以て知るがよい」


 ユキノジョウは空気を撫でるように〈スコップ〉を横に薙いだ。糸目の喉笛が裂け、高く血を噴きだした。糸目はとっさに裂けた喉を押さえたが、血液は指の間からとめどなく溢れ出た。糸目はユキノジョウを睨み、よろめき、ゴボゴボと血の泡を吐いた。それから不意にトウキチを見た。そして縋るように手を伸ばした。唇が動いた。声にならぬ声で、誰かの名を呼んだ。目尻に涙が膨れ、事切れた。血をたっぷりと吸いこんだ雪が、べちゃっと弾けた。


「……許さぬぞ」


 ユキノジョウは片腕でトウキチを抱きながら、遥か彼方、天高くそびえる天守閣へ向けて歩き出した。トウキチは、いつの間にか気を失っていた。それはせめてもの救いであっただろう。これから繰り広げられる地獄絵図を目の当たりにせずに済むのだから。


「貴様! そこで何をしている!」


 騒ぎを聞きつけた寒窺がやって来た。血だまりに倒れた糸目と、返り血に濡れたユキノジョウを交互に見て〈スコップ〉を構えた。


「え?」


 その瞬間、彼は己の手首にぷくりと血が滲むのを見た。そして、視界が斜めに滑り落ちてゆく感覚を味わった。音をたてて地面の上に転がったのは、彼の首だった。そこで彼は死を知った。血の霧が意識を呑み込んだ。


「許さぬぞ……」


 真紅の雨を浴びながら、ユキノジョウは歩いた。立ち塞がる者あれば容赦なく斬り捨てた。夜の街に悲鳴が谺した。平民はかたく門戸を閉ざし、寒窺は意味を伴わぬ喚き声を上げながら逃げてゆく。ユキノジョウが天守閣にたどり着くまで、そう長くはかからなかった。


 ユキノジョウは、それを見上げた。

 天守閣。雪を降らせる雲にまで届きそうに高い。鯱、破風、小天守や渡櫓にいたるまで、ありとあらゆるものが金色に彩られ、城下を睥睨する壁は、黒漆の潔癖な光沢で濡れている。それら全てが、寒窺たちの過酷な雪かき、あるいは民の慎ましい努力によって支えられたもの。


 大きく弧を描く石段を、ユキノジョウは上っていった。頭上から降りそそぐ雪の塊や氷柱つららを躱し、壊し、師の足で背を蹴られながらまろび出る若い寒窺たちを躊躇なく斬って捨てた。


 無論、無傷ではいられなかった。片腕にトウキチを抱いているからだ。肩や背中、右足にまでも、氷柱が突き刺さっていた。しかしユキノジョウの歩みは止まらない。足取りが遅れることすらも。


 彼の視界は黒い炎に覆われていた。そこに時折、雪よりも白い肌をした、美しい女の姿がちらつくのだった。〈スコップ〉を握った手は芯まで冷え切っていた。それでも凍り付いたミフユの体より、ずっと温かかった。


「く、来るなァ!」


 やがてユキノジョウは、破風部屋に隠れた城主を見つけ出した。五人の護衛の間隙に、その腰抜けの姿が窺えた。白いものの混じった髪を結いもせず、乱れに乱したまま、壁にはり付いて震える初老の男。扱えもせぬ〈スコップ〉を胸に抱き、豪華絢爛な衣服に身を包み、ユキノジョウを指さして殺せ殺せと泣き喚く。


 護衛の寒窺たちは、死へ挑みかかるような悲痛な表情で〈スコップ〉を振るった。雑兵ばかりだった。ユキノジョウは、ひらめく刃を蛇の如きしなやかな身のこなしで躱した。一息つく間に、こちらの間合いだ。相手の心臓や頸動脈が次々と裂けてゆく。破風部屋が血に満たされる。


「てえぇええええぇえぇええぇ!」


 ところが、ただ一人だけ強者がいた。その寒窺の刃は、雲の切れ間から突如のぞいた陽光にも似て鋭かった。ユキノジョウはそれを紙一重で受け流した。しかし唇の肉をわずかに抉られた。目の前に飛んだ己の血の赤色を見て、どくんと心の臓が強く打った。時の流れが粘ついた。相手の太刀筋が、ゆっくりと流れた。


 ユキノジョウはほとんど倒れ込むように身を屈めた。刃が頭上を通過し、毛先を斬って宙に散らした。頭を低くしたまま地を蹴った。相手の懐にもぐり込み、その厚い体を壁に押しつけた。そして、〈スコップ〉を短くにぎり、脇腹に刃を突き入れた。


「ぐあ、ァ……!」


 寒窺の口から血の塊が吐き出され、ユキノジョウの顔面を真っ赤に汚した。ユキノジョウは痙攣する相手を蹴って転がし、その首に刃を突きたて介錯した。近衛はそれが最後だった。


 屍の中に立つ血塗れの男を、城主は震えながら見上げた。〈スコップ〉を構えることさえしない。

 このような腑抜けにミフユは殺されたのか。

 ユキノジョウの心が、憤怒のなかで凍えていった。


「たす、ッ……」


 哀願の声を、〈スコップ〉の一閃が断った。鼻梁をなぞるようにして、城主の顔面に一筋の赤い線が刻まれた。たちまち夥しい血が噴き出した。城主の体は正中線から二分され、その場にくずれ落ちた。


 ユキノジョウは残心した。そして、くしゃりと顔を歪めた。腕の中にトウキチの温もりがあった。だが、いつか共に抱き寄せたミフユの熱はもう感じられなかった。亡骸の冷たい感触ばかりが、いつまでも皮膚の下に残っていた。


 ガタッ。


 その時、部屋の隅から物音がした。見れば、そこに巨大な深紅の遺物が置かれていた。血濡れの巨熊の腕の如きそれは、噂に聞く伝説の雪かき遺物〈スノーダンプ〉であった。ユキノジョウは〈スノーダンプ〉に歩み寄った。そして、山のように重いそれを軽々と退かした。


「……ゥ」


 そこに膝を折って少年が蹲っていた。少年は震えながら、しかし挑戦的にユキノジョウを見上げた。


「貴様……何者だ。なにゆえ、父上を殺した」


 ユキノジョウは冷たい目で少年を見下ろし、〈スコップ〉を振り上げた。彼はいまや自分が何のためにここにいるのか理解できずにいた。視界を埋め尽くした黒い炎は、いつの間にか消えていた。代わりに灰の色だけがあった。果てなくこの世を埋めつくす雪の色にも似た灰色が。


「の、呪われろ、この鬼めが……ッ!」


〈スコップ〉が振り下ろされた。と同時に、トウキチが呻き声を上げた。ユキノジョウの肩がわずかに震えた。


 少年の直垂が裂けた。その黒髪がはらりと落ちた。少年は息を止め、目を見開いていた。〈スコップ〉の刃は床板にめり込んでいた。ユキノジョウは、己の行いが信じられぬように少年を見つめた。沈黙が部屋の中を満たした。


 やがて、ユキノジョウはよろめきながら後退った。しかめた顔に、真新しい血が伝った。それは目尻から頬へ、頬から顎へ流れ、床へと落ちていった。ユキノジョウは抜け殻のように踵を返した。少年は我に返り、その背中を睨みつけた。


「どこへ行く! 逃げるのか、鬼ィ!」


 少年は地を蹴って立ち上がり、傍らの〈スノーダンプ〉を摑んだ。その一瞬、雪国人の血が沸騰し、少年に非凡な力が生まれた。並の寒窺では持ち上げるのもやっとのそれを、鬼へと向けて投げつけたのだ。


「ッ!」


 しかし、その刃は届かなかった。

 衝突の寸前、ユキノジョウは飛び来った遺物を掬い上げるように蹴り上げていた。


〈スノーダンプ〉は真上に弾かれ、天井を突き破り、黒々と湿った空の姿をあらわにした。ユキノジョウは蒼褪めた少年を一瞥したが、ついに何を告げることなく、天井の穴から外界へと躍り出た。そこに〈スノーダンプ〉が落ちてきた。


「あんなもの……」


 不要だ。この国にまつわる代物など。

 しかし〈スコップ〉を手にしたのと反対の腕には、トウキチが抱かれていた。

 この子を守り抜かなければならない。そのためには力が要るだろう。城壁の外に、どれほど過酷な現実が待ち受けているか知れない。


 ユキノジョウは素早く〈スコップ〉を背に負うと、〈スノーダンプ〉を摑んだ。着地と同時に瓦が砕けて方々に散った。積もった粉雪が舞い上がった。


 天守を後にする前に一度だけ、その遥かな高みから街を見下ろした。己が生まれ育ち、かけがえのない友と出会った場所を。だが、ここからでは形あるものなど何も見えなかった。篝火の明かりに濡れた屋根は模糊として、どれも白く小さなことしか判らなかった。


 嗚呼。もはや未練はない。

 ユキノジョウは悟った。


 その時、腕の中でまたトウキチが呻き声を上げた。

 ユキノジョウは宙に舞った。

 そして茫洋たる闇の中に融けて消えた。

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