2.擬神座
「如何にも、
冷静にヒエモンは問うた。
カキノスケはぎこちなく
「ならば忠告しておくぞ。まともに打ち合うな。腕ごと捥がれたくなければな」
一見、熊の動きは緩慢に見える。しかしその実、巨大な脚が踏みだす一歩は、
カキノスケは込み上げる震えを抑えながら、〈スコップ〉を正眼に構える。茣蓙帽子の中に雪片が迷いこみ、人肌の熱に融ける。
「……あれほどの獣、ふたりで狩れるのですか?」
「お前、国に置いてきたものは?」
唐突にヒエモンは問うた。
カキノスケはヒエモンを一瞥する。質問に答えぬのは、そういうことなのか。邪推せずにはおれない。一方で、師の言葉が脳裏にリッカの姿を呼び起こす。吐き出した息が燃えるような熱を孕む。
「……妹がひとり」
「
カキノスケは微かに眉を上げた。ヒエモンが自身のことについて語るのを初めて聞いた。
「こんなところでおっ
「無論です」
「ならば足掻け」
ヒエモンがキュッと得物の柄を握った。刃が光り、寒窺の横顔を照らす。決然と見開かれた
と同時、巨熊が雪を巻きあげ駆け出した。
「あれの
次の瞬間、寒窺たちは二手に跳んだ。足許が爆ぜて雪の粉塵を舞いあげた。
「グロォアァ!」
そこに獣の巨腕が叩きつけられた。
立ち込めた雪霧が、いっそう大きく膨れ上がる。そこから突如カキノスケが飛び出す。雪の尾をひきながら、獣の側面に回りこむ。
カキノスケはもう一人の自分自身を自覚する。獣に恐れる自分とは別の、寒窺としての自分だ。獣の大ぶりのあとの隙を冷静に観察する自分だ。そして、そこに鋭い一太刀を浴びせてやろうという自分であった。
寒窺の腕の筋肉がおこり、熱を発して四囲の雪を融かした。渾身の斬撃が、獣の脇腹に閃く。
「ギア、ァ!」
〈スコップ〉の刃が肉を食む。銀白の毛皮が赤く染まる。
たちまちカキノスケは目を見開く。
思いの外、刃の入りが浅かった。
頑丈な毛皮と張り詰めた筋肉は、刃を押し返し始める。
「グオオ、ウ……」
獣の血走った目が、カキノスケを睥睨する。ぐわりと巨腕がもち上がる。
巨大な影がすっぽりとカキノスケを覆う。その巨大さに刹那、カキノスケは寒窺としての己を見失った。呆然。
「ボサっとするな、カキノスケェ!」
その時、ヒエモンの叫びが麻痺した思考を殴りつけた。跳び上がったヒエモンが、巨腕を真上から叩きつけるのが見えた。
カキノスケは、我に返って斜めに跳んだ。直後、槍のような爪が足許を薙ぎ払った。雪面を綿のように散らしながら。
先程まで自分の立っていた場所が、無残に破壊されるのを見て取って、
カキノスケは強いて巨獣を睨み返した。眼前に巨獣の肩がある。ここだ。身をよじり〈スコップ〉を突き入れる。
ビシッ。鮮血が散った。深くはないが、手応えはあった。
カキノスケは柄を支えに懸垂の要領で跳び上がった。逆立った毛皮を摑み、獣の背へと這い上がる。
「グロオオオオアアアアァ!」
無論、気高き獣がそれを許すはずがない。苛立たしげに咆哮し、耳に入ったハエを追っ払おうとでもするように、遮二無二あたまを掻きむしる。
カキノスケは払い落とされまいと、ぐらつく足場を器用に跳びまわる。身を屈め、反らし、紙一重で獣の爪を躱してゆく。
「ぐ、ッ!」
爪先が鼻の頭をかすめ血をしぶく。真っ赤の血肉の中に、白い骨が覗く。
かすっただけで、これか……ッ!
カキノスケは獣の肩に残した〈スコップ〉を見やった。
あれさえ取り戻すことができれば、支えが得られる。肉も裂ける。だが、問題はその方法だ。獣の攻撃を避けながら、どうやってあそこまで辿り着く?〈スコップ〉までの距離は遠い。あまりにも。エチゼン国から歩みを進めてきた、その道程よりも。
「こっちだ、カキノスケェ!」
その時、またしてもヒエモンの叫びが谺した。雪の飛沫を上げながら、ヒエモンが獣の真横に並走していた。
「受け取れいッ!」
ヒエモンは宙に躍りあがると、全身の力を総動員して己の得物を投げた。
カキノスケは不安定な姿勢から、それを摑みとった。〈スコップ〉を手にした瞬間、力が漲った。雪国人の血が奮い立ち、肩の上に陽炎が立ち昇る。カキノスケは銀白の毛皮に、全体重をかけて〈スコップ〉を突き入れた。
「グ、ォオオオオオオオオオオオオン!」
絶叫とともに巨獣の体が仰け反った。
至近でミチミチと肉の裂ける音がした。
やれる。カキノスケは確信した。
「おわ、ァ……!」
しかしその時、足許が斜めに大きく傾いだ。カキノスケは慌てて〈スコップ〉にしがみついた。目の前に白き毛皮の壁、あるいは崖がそびえたつ。宙に浮いた足許に、丸い尾が見えた。巨獣が棹立ちになっていた。
「まずい、逃げろッ!」
ヒエモンが叫んだのと同時、毛皮の内側で筋肉が脈打った。それが、とたんにボゴと音をたてて盛り上がった。たちまち天地が反転した。
カキノスケの目には雪原が降ってきたように見えた。無論、錯覚だ。巨獣のほうが倒れ込んだのだ。白き巌と化したかの如く。渾身の力で。
「――!」
次の瞬間、音が消えた。否、無音に錯覚するほどの甲高い衝突音が鳴り響いたのだ。
白き大地に放射状の亀裂が生じ、一拍の遅れを伴ってあべこべに崩壊した。衝撃波が吹き荒ぶ。雪の瓦礫を巻きこみながら。周囲のありとあらゆるものを破壊の波に呑みこんでゆく……。
「ハッ……!」
カキノスケは瞼をこじ開けた。いつの間にか目を瞑っていた。
いや、本当にそれだけか?
視線の先に厚い雲があった。そこに陽光が滲んでいた。擬神座の背中はなかった。
意識を失っていたのか? 一体どれだけの間?
「う、あぁ、ッぐ……!」
麻痺した感覚が突如、息を吹き返した。燃えた鉄のように肋骨が痛む。関節という関節が軋む。四肢がバラバラになったかのようだ。激痛のあまり目の前が白んだ。カキノスケは、丹田に力を込めながら、かろうじて意識を繋ぎ止めた。
そうして次第に状況を把握しはじめる。臓腑が遠のくようなこの感覚。自分は今、宙に浮いている。飛ばされている。矢のような勢いで。
肩越しに迫りくる雪面が窺える。放物線を描いて落下している。このまま雪面に突っ込めば、本当に四肢が散り散りになるだろう。カキノスケは死を予感した。その時、どこかで雪のはじけ飛ぶ音が轟いた。
「カキノスケェッ!」
カキノスケは音の方向を見やった。やはりヒエモンだった。まるで泳ぐように、猛烈な勢いで、雪面を駆けていた。それを目にした途端、失くしかけた希望が、ムクムクと湧き上がってきた。
足掻け、足掻け、足掻け!
カキノスケはとっさに腰を捻った。いきおいを殺そうと試みたのだ。体が錐揉み回転をはじめた。一瞬、ほんの一瞬ヒエモンと目が合った。確かに、交わった。カキノスケは、彼にすべてを託した。
「ヒエモン殿、ォ!」
ヒエモンは応えてくれた。カキノスケの横っ腹へ飛びかかるようにして、その身を受け止めたのだ。ふたりは雪面を抉りにえぐりながら転がった。上下が分からなくなるほど、ひたすらに。
やがて、カキノスケは吐いた。空っぽの体から。ヒエモンは、その顎を摑んで無理やり横に向けた。雪の中、吐瀉物がしみ込んでゆくのが見えた。それで自分たちの動きが止まっているのに気付いた。
「まったく危ないところだった。無事だな?」
「な、なんとか……」
寒窺たちは肩を貸し合いながら、よろよろと立ちあがった。
カキノスケは口許を拭って辺りを見回した。巨獣の姿はもうなかった。先の衝撃で吹き飛ばされたのか、二本の〈スコップ〉だけが、人の足のように雪面から飛び出しているのが見て取れた。
「潜られたな。得物を失わずに済んだのは幸いか」
束の間、カキノスケの胸を安堵が満たした。しかし彼は、すぐにも胃の腑を炙る切なさを自覚した。獣に殺されることこそなかったが、飢えを満たすこともまたできなかったのだ。
「申し訳ございません、ヒエモン殿。あの時、一思いに首を斬り落とせていれば……」
「飢えて死ぬことはなかったと? フン、お前はいちいち物事を悲観的に捉えるきらいがあるな。まだ望みは潰えていないというのに」
「え?」
「視野は常に広くもっておくことだ。先の
ヒエモンはそう言って、ほくそ笑んだ。その片目は、〈スコップ〉のさらに向こうを見据えていた。
カキノスケは、その視線を追った。そして、雪の帳の中、薄らと浮かぶ影を見出した。わずかな曲線を描いた地平線に、こんもりと盛り上がる――それは、ふたつの山影であった。
「ま、まさか、あれは……」
カキノスケは声を震わせた。幻を見ている気分だった。
そのまさかだ、とヒエモンは言った。興奮に目を見開きながら、こう続けた。
「雪を除けたあとに相違ない。いるぞ、雪国人の末裔が」
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