雪除けの鬼

笹野にゃん吉

1.天牢雪獄

 雪が降っている。昼も夜もなく。荒々しい疾風とともに。

 吹雪の紗幕の向こうには、どこまでも雪原が広がっている。均されたように平坦で、際限なく嵩を増してゆく白き無間むげん。地平の色だけが青みを帯びて灰色である。


 その、どことも知れぬ雪原の只中で、ふたつの人影が歩みを進めていた。底の広がった杖を突き、かんじきを身に着けていようとも膝まで埋まる足をよいしょよいしょと引き抜きながら。頭から爪先まで真っ白だ。茣蓙をきつく編んだ外套――茣蓙帽子に絶えず雪が吹きつけて、その網目にまで雪が入り込んでいるのである。頭巾の下だけが黒かった。雪の照り返しを受け続けた肌は褐色に焼けていた。


 先を歩いているのは中年の男だ。左の眉から右の口端にかけて無惨な傷痕が刻まれている。灰色に濁った左目は彼方を見据えている。あたかも吹雪の向こう側が透けて見えているかのよう。足取りには迷いがない。


 反して、もう一方の男の足取りは重い。隻眼の男に食らい付くようにして、なんとか前進を続けてはいるが、その年若い顔には濃い疲労の色が浮かんでいる。彼の名はカキノスケという。カキノスケは心身ともに疲れ果てていた。


 かれこれ五日ばかり雪中の行進が続いている。彼が生まれる何百年も前から雪は降り続けている。地平線は灰色のままで、わずかに湾曲した線も、どれだけ前進しようと変化はない。目的地など見えてはこない。そもそも自分がどこにいるのかさえ分からない。


 走馬灯のようだ。目の前の背中を見失いかけた時、カキノスケは、ふとそう思った。永遠を廻る、代わり映えのない景色の中に閉じ込められてしまった馬だ……。


 言い知れぬ不安に衝き動かされ、カキノスケは来た道をふり返る。だが、それは不安をいや増すばかりの行為でしかなかった。五日も歩き続けていれば、故郷の姿など垣間見ることもできない。街の大門はおろか主君の待つ天守さえ、すでに地平線の彼方へ消え去っている。ふたり分の足跡と杖の穿った穴だけが点々と残されている。それも降りしきる雪が、間もなく、かき消してしまうだろう。


「おい、カキノスケ」


 その時、しわがれた声に名を呼ばれ、カキノスケは我に返った。ハッとして前に向きなおれば、いつの間にか隻眼の男が目と鼻の先にいる。生きているほうの目を眇めながら、カキノスケを睨みつけている。ヒエモン。それが彼の名だ。主君の命をうけ共に城をでてきた寒窺サムライであり、カキノスケの武術の師でもある男。


「前を見ていろ。ふり返るだけ体力の無駄だ」


 ヒエモンは寒さで切れた唇を舐めると、背負った武具をかつぎ直した。太く長い柄の先に方形の刃がついたそれは――〈スコップ〉である。


 遥か昔、大海さえも雪の底に沈んでしまう以前には、剝き出しの大地があったという。〈スコップ〉は、その頃から雪国人ゆきぐにびとが使用していた神聖な武具で、今もそこここで出土される雪かき遺物のひとつだ。現在では寒窺の象徴として、民から畏れられている。


 カキノスケは自らの〈スコップ〉を肩越しに一瞥すると、白い息を吹き流しながら茣蓙帽子の雪をはらった。


「あとどれほど歩けば、奴の許へたどり着けるのでしょう……」

「知ったことか。つべこべ言わず歩け。それとも他にできることがあるのか? 〈雪除けの鬼〉を連れて帰らねば、エチゼン国の明日はないのだぞ」

「無論、承知しております。我々がこうしている間にも、雪の重みで民家が潰れているでしょう。屋根の雪下ろしで足を滑らせ落命する者がいるでしょう。腰を痛め歩くことすらままならなくなった者など、それは大勢……」


 それが近年のエチゼン国の現状だ。

 本来であれば、市井の民が雪かきに奔走することなどあってはならない。彼らの足腰の貧弱で、過酷な雪かきに耐えられようにはできていないからだ。雪かきは寒窺に委ねられるべきなのである。足腰屈強な雪国人の血をひく寒窺が。


 しかしその寒窺が高齢化し、後継に恵まれないからこそ、エチゼン国は窮地に立たされている。貴重な人材である二人が、このような茫漠とした雪原を彷徨っているのも、元を辿ればそれが理由であった。


「……リッカ」


 カキノスケは故国に残してきた妹を想った。旅立ちの前日、床に入ることなく〈スコップ〉を磨いてくれていた背中が、まぶたの裏に蘇る。囲炉裏に残ったあえかな明かり。足許にまで延びた長い影。沈黙――。


 早く戻らねば。


 カキノスケは焦燥に駆られた。リッカの身を案じずにはおれなかった。

 妹とは言っても、カキノスケとリッカとでは母が異なるのだ。つまり彼女は、雪国人の血を引いていないのである。寒窺の肉体をもたぬ以上、雪かきはできない。旅にでる条件として、我が家の雪かきは他の寒窺に任されてることとなっているが、このままカキノスケが帰らなければ、約束はいつまで効力をもつのか。


 もう鬼など連れ帰らなくともよいのではないか。エチゼン国の未来を救うなど、自分には無理だったのではないか。


 これまで幾度もふり払ってきた後悔が、またぞろ鎌首をもたげた。この旅が成功すれば、カキノスケたちは英雄になるだろう。だが、カキノスケは英雄になりたいのではない。妹に降りかかる災難を撥ね退けられれば、それでよいのだ。リッカの本物の兄となることが彼の望みであった。


「ならば、今から国に取って返すとでも言うつもりか。寒窺ふたりが戻ったところで民を救うことなどできるはずもなかろう。なればこそ、己たちは……」


 その心中を見透かしたかのように、ヒエモンが言った。しかし皆までは言わなかった。己の非力を認めたくないのかもしれなかった。しかめつらしい顔が、なおさら険しく歪んでいた。

 長い間、ヒエモンは口を噤んでいた。身を翻し、歩き始めることもなく、降りしきる雪片と雪片のあわいに、ぼんやりと何かを見ているようだった。カキノスケは声をかけるべきか迷っていた。すると突然、ヒエモンが微かな唸り声をあげた。死んだはずの眼に黒い焔が燃え上がった。


「……奴さえいなければ、あの卑しい盗人が、あのような狼藉をはたらかなければ、エチゼン国は、は、今も……ッ!」


 ヒエモンの背中からドロドロと蒸気が立ち昇った。ただならぬ気迫が辺りに充ち満ちた。カキノスケは思わず生唾を呑んだ。見てはならぬものを見てしまったような気がしたのだ。


「とにかく」


 幸い、ヒエモンはすぐに生真面目な師範の顔にもどった。そして、不出来な弟子に諭し聞かせるように続けた。


「我が国には〈スコップ〉が少ない。雪の嵩は日に日に増えてゆく一方だ。寒窺の老いも著しく、もはや一刻の猶予もない。だからこそ〈雪除けの鬼〉だ。奴さえ連れ帰れば、城下の雪などたちまち消え去る」


 ヒエモンの言葉には力強い響きがあった。一瞬、カキノスケの胸に希望の灯がともる。伝説の寒窺――〈雪除けの鬼〉がたった一振りで屋根雪を吹き払うさまを想像したのだ。

 しかし、吹き付ける雪の冷たさは、すぐにもカキノスケを我に帰らせた。ヒエモンの肩越しに見えるのは、どこまでも白い雪原であって、鬼どころか人影ひとつ見当たらない。


「しかしヒエモン殿、その鬼の許へ如何様にして辿り着くのです……?」


 カキノスケは力なく腰に手をやった。そこに提げられた袋はすっかり萎んでいた。


「食糧はとうに底をつき、あとは餓狼のごとく果てるのみ。民を救うことままならず、待つものの許へ帰ることもまた……」

「くだらん。辞世の句のつもりか」


 ヒエモンはぴしゃりと言った。こめかみにくっきりと青筋を浮かび上がらせながら。

 殴られる。カキノスケは思った。だが身構えない。ぼんやりと足許を見下ろしただけだ。殴りたければ殴ればいい。捨て鉢な心境であった。


「……」


 しかし待てども待てども、ヒエモンの拳固が飛んでくることはない。叱責さえもない。カキノスケは怪訝に思って顔を上げる。そして愕然と目を見開く。ヒエモンの唇が獰猛な笑みの形に歪んでいる。


「食糧なら手に入るやもしれぬぞ」


 ヒエモンが前方にあごをしゃくった。〈スコップ〉の帯をほどく音がシュッと鳴り響いた。


 その時、カキノスケは師の殺気に――否、前方から突き刺さる殺気に気付いた。たちまち雑念が消え失せ、雪原の向こうに視野が定まった。灰の地平に丸く盛り上がった銀白の背中が見えた。かんじきのように大きく平べったい脚で、のっしのっしとこちらに近付いて来る、あれは――。


「か、擬神座カマクラモドキ……ッ!」


 天牢雪獄の死神。

 目につくもの全てに襲い掛かる、恐るべき巨熊おおぐまであった。

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