3.谷底の村

 ふたつの雪山に挟まれた谷間には、崖のように落ち込んだ急坂が設けられていた。カキノスケとヒエモンは、そこで危うく足を止めた。そおっと首を伸ばして深い谷底を見下ろせば、急傾斜の屋根が点々と散らばっているのが見えた。さほど雪は積もっていない。雪かきが行き届いている。人影こそ見出せないが、住人の息遣いが感じられた。


「……間違いない、村だな」

「ここに〈雪除けの鬼〉がいるのでしょうか」

「確かなことは言えぬが、斯様な時代よ。人が根付ける土地などそう多くはあるまい」 


 答えながら、ヒエモンは遠くに目を凝らしていた。カキノスケもまた村の奥へ向けて、順に視線を走らせてゆく。すると、村の地面が奥へ行くにつれて高さを増しているのがわかる。最奥の山々が合流した地点などは、おそらく今じぶんたちが立っている場所とほとんど同じ高さだろう。そこに大きくひらけた広場がある。ヒエモンが見ているのは、そこに屹立した巨大な箱型建造物に違いない。鬼の双角のごとき煙突、そこからは極彩色の煙が吐きだされている。


「大型遺物ですね」

「相違なかろう」


 地上が雪に閉ざされる以前、古代人によって建てられた技術の結晶である。

 カキノスケたちの国にも、あのような大型遺物がある。食糧もろくに自給できないこの時代、人々が生きてゆけるのは、あれのおかげだ。如何なる絡繰りか、大型遺物は自動的に食糧を生みだすのである。


 カキノスケは、おそらく師も抱いたであろう確信を得た。大型遺物の存在こそ人の営みがあることの何よりの証左である。


「下りてみましょう」

「うむ。鬼の所在がどうであれ、まずは腹の熱を鎮めねばな」


 ふたりは坂を下り始めた。

 しかしカキノスケは、すぐに足許を見やって立ち尽くしてしまう。


 なんだ、この坂は……?


 まったく足が沈まないのである。試しに強く踏みつけてみても、足形ひとつ付かない。鋼のような感触が返ってくるばかりだった。ただ踏み固められただけでは、こうはならない。尋常の業ではない。驚きを通り越して慄然とさせられる。


 これほどの仕事をやってのける寒窺サムライがいるのか……?


 カキノスケは思わずヒエモンの横顔に目をやった。やはり、ここに〈雪除けの鬼〉がいるのではないのか。これだけのことを平然とやってのける雪かき力の持ち主は、鬼以外にあり得ないのではないのかと。


 しかしヒエモンからの返答はない。こちらを振り向くことさえも。

 カキノスケは訝しんだ。ヒエモンは気付いていないのだろうか。いや、あり得ない。この坂は明らかに異常だ。寒窺でなくとも気付くはずだ。では、何故?


「ヒ、ヒエモン殿……?」


 ふいに肌が粟立った。カキノスケは見た。

 ヒエモンのくっきりと浮き出た頬骨を。生きているはずの片目までもが焦点を失くして虚ろであることを。

 ヒエモンの手から杖がこぼれ落ちた。カンと甲高い音をたてて坂の上を跳ねた。


 莫迦な……。


 カキノスケは己の感覚を疑った。ヒエモンは無敵の師範のはずだ。エチゼン国において、彼の右に出るものはいない。自分よりも先に膝を付くことなどあり得ない。そう思い込んでいた。


 しかし骨を失くしたようにヒエモンの体が傾ぐと、彼もまた疲弊し飢える存在であることを認めないわけにはいかなかった。


 カキノスケはとっさに地を蹴り、師の体を受け止めた。だが、カキノスケ自身もまた、長い旅路と擬神座との戦いによって力を使い果たしかけていた。その場に踏み止まることができず、坂の上を滑った。足裏が雪面から離れた。宙に浮いた。


「ま、まず……ッ!」


 足許にあったはずの坂が眼下に見えた。

 慌てて坂道に杖を突き立てる。細かな氷の破片が散る。しかし杖は弾き返されていた。圧縮された雪は鋼よりも硬かった。表面に張った氷の膜のほかには何も穿つことができなかったのだ。


 胃の腑が縮み上がった。

 カキノスケはヒエモンを強くひき寄せ、歯を食いしばった。


「んぐうううぁ、あ!」


 次の瞬間、ふたりの寒窺は坂に叩き付けられた。骨にまで衝撃が響いた。視界が雪とは異なる白いもので焼けた。


 だが、それは最初の一打に過ぎない。

 視野が翻るたび、雪の槌がカキノスケたちを襲う。何度もなんども坂の上に跳ね、肺から空気が搾りだされてゆく。目の奥にまで、きつい鉄の臭いが充満する。意識が遠のきはじめる。白き闇のなかへと呑みこまれてゆく。


 それでもカキノスケは抗い続けた。強いて想像したのだ。

 顔も名すらも知らぬヒエモンの姪の姿を。リッカの萎れた背中を。


 足掻け、とヒエモンは言った。

 そうだ。足掻いてやる。死ぬわけにはいかない。ヒエモン殿も死なせるわけには。生きねば、生きねば――俺たちには守るべき者たちがいるのだから……!


「ガハッ!」


 自分自身の苦鳴の声がとおく聞こえた。感覚はほぼ消え失せていた。目を開けているのか、閉じているのか。それさえも分からなかった。ただ果てしない純白だけがあった。願いむなしく、もはや黄泉にまで落ちてしまったような気がした。


 ……ギュッ、ギュ。


 そこに微かな物音が聞こえてきた。耳鳴りの中でくぐもって、その正体は判然としなかった。ただ不思議と耳に心地よい感じがした。〈スコップ〉を磨く、澄んだ音が思い出された。


 嗚呼……。


 カキノスケは妹の名を呼ぼうとした。しかし声にはならなかった。ついに意識の糸が断たれたのだ。

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