4.恩人

 薪の爆ぜる音で目が覚めた。目端に橙色の光が沁みる。目尻に痛み。切れている。何故?


 カキノスケは目許に力を込める。まぶたが重い。全身にわだかまる倦怠感。もうひと眠りしてしまいたくなる。だが、何か忘れているような気がする。重要な、なにか。


 強いて目をひらく。赤と茶色。次第に焦点が合ってくる。目の前に竹編みの板が見て取れた。天井ではない。中空に留まったそれは、傍らから立ち昇る煙や、飛び散った火花を受け止めている。


 囲炉裏の、火棚か?


 カキノスケは光のほうに首を傾ける。予想どおり、そこは囲炉裏だ。自在鉤には土鍋が吊るされている。その底を舐める、真っ赤な炎。


 ここはどこだ? 俺はたしか村にたどり着いて、それで……。


 炎の奥に記憶の手がかりを探した。しかし疲れと眠気がはり付いた頭の中は模糊として覚束ない。村を目にした覚えはあるが、その後どうなったのか……。うんうん唸っていると、そこに軽やかな足音が近づいてきた。


「お、目が覚めたんだな」


 振り向くと、子どもがいた。十かそこらの男子だった。前歯が一本ぬけている。野菜類が山のように盛られたまな板を抱えている。目が合うと、子どもはにっこり笑った。土鍋に食材を放り込みながら言った。


「痛いところはないかい? いちおう医者には診せたけど、どこか悪いようならまた呼んでくるぜ」

「えぇっと……痛みのようなものは、ない。まだ寝惚けているのかもしれぬが」


 カキノスケは体のあちこちに触れながら答えた。

 

「へぇ、兄ちゃん、丈夫なんだなぁ。もしかして寒窺かい?」

「如何にも。カキノスケと申す」

「やっぱりそうかぁ。オレはトウキチってんだ。よろしくな」


 トウキチ、そう名乗った子どもは歯抜けの隙間を舐めながら笑った。

 カキノスケは曖昧にうなずき返してから、辺りを見回した。


「ところで、ここは……」

「覚えてないのかい。兄ちゃん、坂から転げ落ちてきたんだぜ?」


 ふいに額の奥がズキンと痛んだ。言われてみれば、そのような気がしてくる。


「ということは、ここは谷底の……」

「そうそう。雪が玉になって転がってくることならしょっちゅうだけど、人が転がってきたのは初めてだよ。村中、大慌てだったんだぜ」


 トウキチは身振り手振りを交えながら、おどけた調子で語った。

 カキノスケは頭を下げるために起き上がろうとした。が、思うように力が入らず、仕方なく横になったまま軽く顎をひいた。


「かたじけない」

「気にしないでくれよ。助けたのオレじゃないし」


 トウキチは鍋の具材を箸でつついた。ボコボコと音がする。


「オレはユキノジョウっておっさんと一緒に暮らしてんだ。助けたのは、そのおっさんのほうだよ」

「それでも礼を言わせて欲しい。こうして休ませてもらっているのだから」

「そういうことなら、いくらでも。感謝されるのは気分がいいしなぁ」


 トウキチは大口をあけて笑った。屈託のない表情に、思わずカキノスケも笑みをこぼした。その時、ふいに記憶の蓋が開いた。たちまちカキノスケは蒼褪め、あたふたと家中を見回した。その様子を見て、トウキチが大きな目でぱちくりと瞬いた。


「急にどうしたんだい。真っ蒼な顔して」

「ヒエモン殿……もう一人の男はどうなった? 共に旅をしてきた仲間なのだが」

「ああ、あのおっちゃんなら心配ねぇよ。よその家で預かってくれてるからさ」

「そうか……」


 カキノスケはほっと胸を撫でおろした。その拍子に腹が鳴った。子どもは土鍋に蓋をしてニィと笑った。


「そう長くはかからねぇから、もうちょっと待ってておくれよ」

「かたじけない……」

「ハハッ、だから気にしないでくれってば。オレたち食うもんには困ってないし、たらふく食うといいさ」


 カキノスケはふと極彩色の煙を吐きだす異様な建物を思い出した。


「村の奥に大層な建物があったな。食料に困っていないというのは、あれのおかげか?」

「そう。あれは食糧とか布とか木材とか……なんでも作れるんだ」

「布に木材まで?」

「兄ちゃんの住んでるところでは布や木材はとれないのかい?」


 カキノスケは首肯した。エチゼン国の大型遺物が作り出せるのは、もっぱら食糧だ。飢えとは無縁であっても、資材は常に枯渇している。


「じゃあ、服とか家とか……どうしてるんだ?」

「毛皮は達磨兎ダルマウサギから。糸は玉蜘蛛タマグモなどから採る」

「ウサギなら知ってるぜ! でっけぇんだろ? 雪の塊投げてくるって聞いたぜ」

「当たると寒窺でも最悪死ぬ。クモのほうは小さくて無害だ」

「他にも生き物で何か拵えたりするのか?」

樏鱏カンジキエイの皮で履物を作ることがあるな」

「あ、雪の中を泳いでるってやつだ! 見てみてぇなぁ」 


 こちらの言葉に、トウキチはいちいち目を輝かせる。無邪気な子ども相手だと、ついついカキノスケ自身も話すのが楽しくなってきた。


「木材は天架杉デカスギから採るぞ。雪を掘ってな、建材になる枝を探すんだ。昔は根まで掘り進める猛者もいたらしいが、生き埋めになる者が絶えんので今はめっきりいなくなった」

「大変なんだなぁ……」

 

 自らが生き埋めになる様でも想像したのか、トウキチは身を震わせた。それと呼応するように、鍋の蓋がカタカタと音をたて始めた。一転、トウキチの表情が綻び、パンと手を打ち鳴らす音がひびき渡った。


「おっ、煮えてきたぜ」


 蓋をとると、むっと湯気が立ち昇った。ぐつぐつと鍋の煮える音が大きくなる。我知らずカキノスケは香りを吸いこんだ。滋養に満ちた食材のそれが、たちまち空っぽの胃の腑にまで沁みわたる。ごくり。喉が鳴った。自由の利かぬ身がひどくもどかしく感じられた。


「待ちなよ。ちゃんと食わせてやるから」


 トウキチは呆れた様子で笑いながら、鍋の中身をよそってくれた。黄金色の汁には椎茸や春菊、豆腐に白身魚までもが浸かっていた。カキノスケは身を起こそうとするが、やはり身動みじろぎ程度が精一杯だった。


「……すまぬが、起こしてはくれないか」

「おう、任せな!」


 トウキチは嫌な顔一つせず請け負ってくれた。袖をまくると首の下に腕をさし入れ、いっぱいに鼻の穴を膨らませた。


「いくぜ、うぅ、うぅぅぅんっむ!」


 しかし脱力した人の身は存外重い。子どもからしてみれば猶更である。後頭部がわずかに床を離れただけで、トウキチの顔は真っ赤になった。無論、長くはもたず、間もなく力尽きた。ゴンと床を打つ音が、カキノスケの頭の中に谺した。


「ウッ……ン!」

「に、兄ちゃん、ごめんよ……っ!」


 カキノスケが痛みに目を剝くと、トウキチはわかりやすく狼狽した。涙目になってあちこちをパタパタと触り始めた。カキノスケは強いて笑いかけた。


「安心、しろ」


 うまく笑えただろうか。弱った体に、いまの衝撃はなかなか応えた。腹に込めた力が抜けてゆき、口の端から涎が垂れる。焦点がぼやける。ぐりぐりと視線が上向いてゆく。トウキチはますます狼狽した。


「トウキチ、まさかとどめを刺すつもりではあるまいな?」


 その時、骨身にまで沁みるような野太い声が、昇天しかけたカキノスケの魂を揺さぶり現世に引き止めた。力強い足音がドカドカと近づいてきた。首の後ろに熱い腕が回されたかと思うと、目線がひょいと持ち上がった。

 壁にもたせかけられたカキノスケは、涎を啜ってその人物を見た。頭髪をきれいに刈り上げた四十がらみの男だった。裂傷の痕を刻んだ唇が小さく動いた。


「目が覚めたのだな」


 言うと男は、トウキチに向きなおって厳めしく両目をつり上げた。トウキチが肩を強張らせて俯いた。カキノスケはとっさに中空にある男の拳を握った。


「ど、どうか叱らないでやってください。この子に悪気はなかったのです」

「しかし」

「このとおり俺は無事ですから」


 必死の説得に、男は鼻から息を吐きだし、拳を下ろした。どうやら矛を収めたようだった。とはいえ、トウキチを見つめる目には、まだ非難の色が窺えた。カキノスケは固唾を呑んで成り行きを見守った。外でひょおひょおと風が吹いていた。


「……」


 やがて男は立ちあがると、トウキチの小さな肩にその手を置いた。おずおずと見上げる瞳に、彼は言葉なく頷いた。カキノスケは胸を撫で下ろし、ふっと目を細めた。子の過ちを受け止める男の横顔に、いまは亡き父の面影が重なって見えた。

 カキノスケの視線に気付いて、男は面映ゆそうな苦笑を浮かべた。


「さて、飯にするか。トウキチ、お客人を助けてやってくれ」

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