6.再来
朝、目覚めるとユキノジョウの姿はなかった。トウキチがひとり筵の上で、小さな体をいっそう縮めて眠っているだけだった。火鉢の炭がまどろむような明滅をくり返していた。まだ僅かに暖かかった。
カキノスケは半身を起こし、家中を見渡した。玄関の側に、杖と〈スコップ〉、それに毛羽だった茣蓙帽子やボロボロの荷袋が置かれていた。すべてカキノスケの荷物だ。どうやら村人たちが回収してくれていたようである。
「かたじけない」
呟いて、ぐるりと肩を回した。血液の淀んでいる感じがする。さすがに、まだ疲れが残っているか。とはいえ、この身は寒窺のそれ。動き出すのにもう不自由はない。
「ううっ、ぶ……っ」
ぶるりと震えるトウキチに、着ていた丹前をかけてやってから、そっと土間に下りた。荷袋から予備の丹前を引っぱり出し羽織った。さらにその上から茣蓙帽子。最後に、よれた帯を結って〈スコップ〉を背負った。
「ッ……」
戸を開けると、とたんに雪が吹き付けてきた。眼前は純白。遠方は薄墨の色。雲を透かして降り注ぐ陽光は、雪の白に跳ねて目を射るようだ。家中の暗褐色が、どれほど目にやさしかったか思い知らされる。カキノスケは目を眇めながら、家々の立ちならぶ通りを歩きだす。
村人の姿はどこにもない。が、村の奥、高台のほうで雪が爆ぜるのが見て取れた。天高く舞いあがり、昇り龍のごとく長く尾を引いて、村を挟みこむ双山の頂上へと重なってゆく。雪国人の血が流れているものでなければ、とてもできない芸当だ。エチゼン国にいた頃の日々が思い出される。カキノスケもああして雪かきをしたものだ。
故郷を懐かしみながらも、足は止めない。ギュッギュと新雪を踏みしめながら歩き続ける。
やがて村の中心あたりまで来たところで、ようやく足を止めた。改めて辺りを見回し人気がないのを確かめた。そして唇に指を押し当てみじかく鳴らした。
ややあって近くの家の戸が開いた。中からのっそりと人影が現れた。その人物はカキノスケと同じく、茣蓙帽子ですっぽりと体を覆い、背には〈スコップ〉を負っていた。ふたりは向かい合った。茣蓙帽子の陰にのぞく隻眼を、カキノスケは認めた。
「大事ないか」
ヒエモンが言った。
「腹は満たせましたので。このとおりッ」
カキノスケは爆ぜる雪を遠目に見ながら肘打ちをくり出した。
ヒエモンは掌でそれを受け止め、口端を歪めた。
「なかなか重い一撃だ。青二才の強がりではなさそうだな」
「ヒエモン殿も大事ないようで」
「面倒をかけた。年はとりたくないものだな」
「それほど過酷な旅だったというだけのことです」
「心遣い痛み入る」
頷くように頭を下げると、ヒエモンの口許から笑みが消えた。
「ところで、村の連中とは話したか」
「有益な情報はあまり。寒窺が六人いるとだけは」
「
「下手に探りを入れて疑われては厄介ですからね」
「まずは村人どもの信用を得ねばならんな」
「しかし何をすれば? 雪かきを手伝うくらいはできますが」
「ひとつ芝居でも打ってみるか」
そう言ってヒエモンは雪山を見上げた。
カキノスケはその横顔を食い入るように見つめた。瞬く間に血の気が失せてゆく。
「あれを、崩すとでも?」
「村人の命を救ってやれば、こちらを見る目つきも変わるかもしれんぞ」
「しかし、そんなことをすれば万が一という事も」
「その時はその時だ」
冷たい眼差しがカキノスケの胸を射抜いた。カキノスケは怖気に震えながら、師を見返した。雪を孕んだ鋭い風が、ふたりの間を吹き抜けた。能面じみたヒエモンの顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「なにを本気にしている。己とて、そこまで冷酷ではない」
「そ、そうですよね」
カキノスケは引きつった笑みを返した。
ヒエモンは、今度は坂を見上げた。
「坂の仕上がりを見るかぎり、あの山も自然に崩れるとは思えんしな。下手なことをすれば却って疑われるだけだ」
疑われる余地さえなければ実行するとでも?
引きつった頬がピクピクと跳ねた。カキノスケは両の頬骨を自ら鷲掴みにして、無理矢理それを押さえこんだ。
「では、一先ずより多くの情報を……」
言いかけて、カキノスケはふいに口を噤んだ。足許を見下ろし、そして気付いた。大地が小刻みに揺れていた。
「すわ、地震か……?」
間もなく、屋根の雪がノミのように跳ね始めた。周囲の家々からパラパラと粉雪が降り注いだ。
やがて衣擦れに似た音が聞こえてきた。それはたちまち、さざめきとなった。どよめきとなった。大地の叫喚と化した。そして、カキノスケたちの頭上を越え、家々の屋根を越え、村を囲う双山をも越えて、ついには天にまで轟き渡るのだった。
反して揺れの方はさほど大きくはならない。震動と静止とを不規則に繰り返していた。あたかも鋼の門を突き破らんとする破城槌の轟きのように。
ただの地震ではなさそうだ。何か異常なことが起こっている。カキノスケはみっともなく狼狽した。救いを求めて、ヒエモンの横顔を見やった。困惑した。
「ほう、これは……」
ヒエモンは、ほくそ笑んでいた。しかも、その手は背中の〈スコップ〉に添えられ、いまにもこの天変地異に戦を挑まんとするかのようであった。
ゴオオオオオオン!
突如、凄まじい衝突音が大気を引き裂いた。ちょうどヒエモンの視線の先で異変が生じた。村と外界とを繋ぐ坂が、雪崩のごとく震えだしたのだ。そればかりか頂上近くに謎の亀裂が生じた。積もった新雪が霧のように舞い、落ちて、舞い、そして。
ゴオオオオオオン!
二度目の轟音とともに爆ぜた。
亀裂が大きく広がった。その間隙に動く何かが見えた。
ヒエモンが〈スコップ〉の帯を解いた。
「お前も構えろ、カキノスケ。ツキがこちらに巡ってきたぞ。奴が己たちを追ってきた」
カキノスケは呆然と坂を見つめていた。何が起きているのか皆目見当がつかなかった。ヒエモンの言葉の意味も解らない。どういう意味か、率直に訊ねようとした。が、ついにそれが声になることはなかった。次の瞬間、雷鳴のごとき破裂音が村中に響き渡ったからだ。
ゴオオオォォォオォオォオオオォォォォオォォン!
とうとう坂の亀裂が内側から弾け、雪の塊が四方八方に飛散した。それが村のあちこちに雪の弾雨となって降りそそいだ。家々の屋根や壁が無残に貫かれてゆく。
「う、うわぁ……ッ!」
雪煙に、木っ端に視界がかすむ。次々と雪の弾が飛来する。巨大な影が、すっぽりと二人を呑み込む。顔を跳ね上げれば、そこに巨大な雪の塊。
「あぶな……ッ!」
寒窺たちは二手に跳んで、危うくそれを躱した。地面に爪を立てザザッと滑りながら、カキノスケは砕けた坂を振り仰いだ。とたんに背筋が凍り付いた。巨大な腕が這いだしてくるのが見えたのだ。銀白の毛皮に覆われた、巨人のかんじきのような腕が。カキノスケは震える指で鼻の傷痕に触れた。
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