7.寒窺たち
「何事だァ!」
「雹にしてもデカすぎるぞ!」
「アアアアアアアア!」
一斉に家々の門戸が開けはなたれた。獣の咆哮におののき、村人たちがまろび出てきたのだ。彼らは坂の惨状を目にすると、泡を食って大型遺物のある高台のほうへと駆け出してゆく。
それに反して、獣へと挑みかかってゆく三つの影があった。彼らの背には、いずれも〈スコップ〉が負われている。夜の雪かきに備え、英気を養っていた
「
「はい!」
カキノスケとヒエモンの二人もまた坂の方角へと爪先を向けた。体のバネを使って地を跳ね、すぐにも三人の寒窺と並走をはじめる。
「助太刀いたします!」
三人の寒窺は驚いたように顔を見合わせたが、あいにく互いの素性を語り合う余裕はなかった。人々の悲鳴に興奮した
「ゴアアアァアアアァアアアアァァアア!」
巨獣の突進を躱しながら、寒窺たちはふたたび村人とよそ者とに分かれた。
カキノスケたちは獣の右側面に回りこんだ。そして、巨獣の肩の黒ずんだ血痕を見出した。
「こいつ、あの時の!」
「やはりな。いよいよ運命じみたものを感じるぞッ」
早速、ヒエモンが仕かけた。古傷めがけて〈スコップ〉を閃かせたのだ。
「グガァ!」
刃は狙い過たず、傷を裂いた。血がしぶいた。一閃と同時、ヒエモンは地を蹴って後ろへ跳んでいた。真っ向から受ければ、確実に負けるからだ。だが、獣のほうは、あの巨体ゆえに小回りが利かない弱点もある。常に側面をとっていれば、あの槍のような爪に引き裂かれる心配はない。
ザザッと雪の飛沫を上げながら、ヒエモンは着地した。巨熊は体を反転させて爪牙を振るったが、むなしく雪を食むばかりであった。獣は血走った目でヒエモンを睨んだ。
注意は確実にヒエモンへと固定された。他の寒窺たちが奇襲をかけるなら今だ。ヒエモンは仲間たちに合図を出そうとした。ところがその瞬間、彼は色を失った。
獣の両前足の筋肉が、突如、盛り上がったのだ。毛皮の内側で何かが爆ぜたように。
それとほぼ同時、寒窺たちが踏みこみ、雪を散らすのが見えた。ヒエモンはさらに後ろへ飛び退きながら声を張り上げた。
「逃げろォ!」
ピシ。巨熊の足許を中心に蜘蛛の巣状の亀裂が生じた。バゴンと地面が陥没し、銀白の巨体が真横に跳んだ。すなわち、ヒエモンの許へと。彼になす術はなかった。
「ぐぁ――!」
次の瞬間、ヒエモンが矢のごとく吹き飛んだ。家屋の壁を突き破り、たちまち戦場から姿を消した。
舞い上がる木っ端や塵芥を尻目に、獣が目を細めた。危うくぶちかましを躱したカキノスケは、頬を引きつらせながらその様を見て取った。こいつ、愉しんでいる。それだけの知恵がある。
「フガアアアァ!」
巨熊は青臭い恐れを嗅ぎとり、すぐさま標的を切り替えた。剝き出しの牙が、カキノスケの眼前に迫った。カキノスケはとっさに〈スコップ〉を縦に構え、閂のように噛ませた。
一瞬の膠着が生じた。ここに機を見た三人の寒窺たちが、同時に得物を振り上げた。巨獣はそれを待っていたかのように、大きく横に首を振るった。カキノスケは呆気なく地面から引き剝がされ、そのまま寒窺たちの横っ腹に次々と叩き付けられた。
「ぬおあッ!」
三人の寒窺たちが弾き飛ばされた。しかしカキノスケだけは耐えていた。全身の皮を剝かれんばかりの激しい遠心力に晒されながらも、固く得物を握り続けていた。先の戦いで思い知らされたからだ。得物を失うことは抗う術を失うことだと。そして今この戦場に、〈スコップ〉を投げ渡してくれる寒窺はいない。
巨獣がいくら頭をふり回しても、カキノスケは屈しなかった。根気と根気の戦いだ。だが、これは徒に体力を消耗するだけの不毛な争いではない。村の寒窺たちが復帰すれば、勝利の望みは必ずやって来る。
ところが、獣はその手には乗らなかった。突然、大きく首を振り抜くと、顎を広げて〈スコップ〉を離したのだ。
刹那、カキノスケの手許から抵抗が消え失せた。地上が急速に遠ざかる。
「うおああぁああぁああぁあぁぁぁああ!」
皮を破って内臓が飛び出してゆくような錯覚が、カキノスケを襲った。空気の層が次々と破られ、聴覚が麻痺する。死神の手に押さえつけられているかのように、頭が動かない。
いや、今はまだ死神の厄介になるつもりはない。頬をぶるぶる震わせながら、彼は肩越しの景色を一瞥した。急接近する屋根が見えた。この勢いのまま突っ込めば命はない。その時、なぜか坂を転げ落ちた際の記憶が去来した。
あの時、なぜ俺たちは生きていられた?
カキノスケは考えた。そして気付いた。
力の分散だと。
答えに辿り着いたなら、その後の行動は早かった。雑巾を絞るようにきつく腰をねじり、体勢を真横に切りかえたのだ。
一瞬、四肢がバラバラになって朽ち果てる己の姿が脳裏を過ぎった。しかし、そうはならなかった。衝突の瞬間、カキノスケは腰の捻りを解き放つことで、屋根の傾斜を上へ上へと転がっていったのである。頂点が近づくにつれて、その勢いは急速に衰えていった。そして、ついに屋根の天辺に達した時、若き寒窺は両足と片手をついた見事な三点着地を決めた。
「「「テイリャアァアアアァアアァ!」」」
その時、ちょうど三人の寒窺が戦線に復帰し、巨獣の背後から襲いかかった。肉を裂く音がバシンバシンとなり響いた。巨獣は怒った。周囲に降りしきる雪がザアっと舞い上がり、三人に殺意が凝集した。巨獣は棹立ちとなって吼えた。
「グルオオオォオオォォオン!」
獣の巨体が片足を支点に前後反転した。強張った巨腕が旋回し、三人を引き裂きにかかる。
「散開ッ!」
しかし先程と同じように、あえなく撃墜される彼らではなかった。寒窺たちは鮮やかな足捌きで後退し、それを躱してみせた。さらに着地の反動をそのまま推進力に転換、ふたたび肉薄。巨獣の前足、後脚、そして腹へとたて続けに〈スコップ〉が突き刺さる。
「ゴア、ァ」
決して深くはない。銀白の毛に、わずかな赤いシミが拡がるばかりだ。それでも足止めには十分である。
カキノスケは屋根の上を駆け出した。そして、勢いそのままに〈スコップ〉を放り、それを橇代わりにして急斜面の屋根を滑りだした。
「……前回の再現と行かせてもらう!」
表面に薄く積もった雪が凄まじい加速を生みだした。風がゴゴッと耳もとで唸った。屋根の際へ達するのと同時に、カキノスケは三角の把手にのせていた足を上げた。そして把手が跳ね上がるのと同時に踏みつけた。
次の瞬間、その身が高く宙を舞った。〈スコップ〉もまた宙に翻った。カキノスケはそれを掬うように摑み取ると、急接近する巨獣の背中に目がけて刃を振り下ろした。
「うおおおぉおおぉぉぉおおおおおおぉぉぉお!」
「ガロオオォォオォォオォオオォォォオオオッゴ!」
獣が大きく仰け反った。噴き出した鮮血が、カキノスケの相貌を赤く染めあげた。
「グガアアアアァアア!」
怒り狂った巨獣は村の中を走りだした。右に左に、目につく家屋すべてに体をぶち当てながら、煩わしい虫けらを払い落とそうとした。
「ングウウッ……ン!」
しかしカキノスケは落ちない。木っ端に打たれ、あるいは肌を裂かれながらも必死にしがみつき続ける。そればかりか〈スコップ〉を捻って肉を抉ってゆく。奥へおくへ。臓物を掻きだし、今度こそ息の根を止めるために……!
「あ、ァ……くそ、あれはッ!」
ところがその時、カキノスケは目前に迫った暖簾の色に気付く。真紅。ユキノジョウの家である。あの中にまだトウキチがいたら――最悪の結末が脳裏を過ぎった。
カキノスケは〈スコップ〉をひき抜き、巨獣の背中から跳び下りていた。口笛を吹いて、巨獣の注意を引き付ける。
「グファアアァ……ッ!」
憤怒に燃えた巨獣は、地面に爪を突きたて、弧を描きながら急制動をかけた。激情が毛皮を逆立たせ真紅の暖簾をも揺らした。
間一髪、家への衝突は免れた形だ。しかしカキノスケは、息の根を止める絶好の機会を逸した。振り出しに戻ってしまった。擬神座の巨影が雪煙を巻き上げながら迫りくる。
「てやァ!」
カキノスケは横に跳び、すれ違いざまに巨獣の前足を斬り付けた。
巨獣はこの動きを読んでいた。前に踏みだす足を、突如、真横に振り抜いたのだ。
「ぬゥ……ガ!」
とっさに〈スコップ〉を戻し盾にしたカキノスケだったが、弾き返せるはずもなかった。ヒエモンと同様に吹っ飛ばされた。民家の壁をぶち抜いて、土間の上を転がった。
「うゥ……!」
釜にしたたか背中を打ち付けて、ようやく止まった。目の前に星が散っていた。頭の中では太鼓が鳴っていた。痛みは、却って意識を繋ぎ止めてくれた。目に垂れてきた血を荒っぽく拭って、カキノスケは立ちあがる。その時、塵芥の向こうに、巨大な獣の影が浮かび上がった。
「させるかァ!」
その横っ腹に、村の寒窺が飛びかかった。獣は唸り声を上げて、寒窺をふり払った。この隙にカキノスケは穴の中から這い出した。
「デイィ!」
「グファ……ア!」
寒窺のひとりが擬神座の肩を斬りつけた。古傷をさらに抉ったか。ついに、その巨体が大きく傾いだ。
「ドゥア!」
さらにその逆の腕を、別の寒窺が斬りつけ血をしぶかせた。下がった首に最後のひとりが飛びかかった。
「ファア……」
巨獣はこれを赤く濡れた腕で妨げた。槍のような爪が斬られて宙を舞った。カキノスケは加勢しようとして、しかし踏みとどまった。まずい。巨獣の足腰の筋肉がメキと音をたてて盛りあがったのだ。
強靭な足腰をもつものは雪を制する。雪かきには足腰の力が不可欠だ。雪を掘り、雪中に巣をつくる能力も、雪かきの一種といえる。すなわち擬神座は最強の足腰をもつ生物である。
いま、その強靭な足腰が、巨獣を猛々しく棹立ちにさせる。背中、腕、首――全身の筋肉が隆起し、獣の輪郭が一回りも大きく膨れあがった。
「にッ、逃げてくださいッ!」
声を限りに、カキノスケは叫んだ。解っていたからだ。以前、取り逃がしたときと同じ、あの強烈な叩きつけが来ると。
「応ッ!」
これまでの共闘で、寒窺たちはカキノスケを信頼していた。彼らは一斉に攻撃の手を止め、散開した。
カキノスケもまた身を翻そうとして――しかし足を止めた。それどころか巨獣の傍らを駆けぬけていった。
真紅の暖簾の下に子どもがいた。恐怖に身をすくめながら、独りきりで立っていた。トウキチだった。カキノスケは小さな体をつよく抱き寄せた。
「トウキチ殿ッ!」
獣相手に無防備な背中がさらされた。吹き荒れる衝撃波を受けるだけでも命の保証はなかった。それでも見捨てられなかった。雪山から突き出た腕が、〈スコップ〉を磨く小さな背中が、あるいは寝顔を見つめる穏やかな眼差しが――この身を衝き動かしていたのだ。呆然とするトウキチに、カキノスケは微笑みかけた。
その時だった。村を挟んだ雪山の一方が鳴動したのは。
……ド、ドッ、ドッドドドドド!
カキノスケは顔をあげ、音のほうに目を向けた。そして、そそり立つ雪の壁に、小さな爆発が次々と生じてゆくのを見た。それは近づいてきていた。凄まじい勢いで近づいてきていた。
「グルオオオォオオォォオオオォォォオオオオォオオォォオオオォ!」
巨獣が咆哮した。雪壁に一際おおきな爆発が生じたのは、それとほぼ同時だった。雪の爆発の中から何かがとび出し、流星のごとく虚空を裂いた。獣の巨躯が大地を打つ直前、それが獣の横っ腹に激突した。雪が放射状に飛沫をあげた。
「ファガ――!」
衝突の勢いで、獣がくの字に折れた。肉が潰れ、骨の砕ける音がした。空気の輪が周囲に弾け、獣の巨体が吹っ飛んだ。それは家の壁を貫き、地面を二度、三度と跳ね、村の境の雪壁にまで深くめり込んだ。
「フゥー……」
カキノスケは信じ難い気持ちで、一部始終を見つめていた。
先程まで巨獣の立っていた場所に、ひとりの男が佇んでいた。はち切れんばかりに膨れた肉体から陽炎が立ち昇っていた。丸く刈り上げられた頭上の歪みは透明な怒髪天のようであった。
「……ユキノジョウ、殿」
呼びかけると、ユキノジョウは残心して、ゆっくりと振り返った。カキノスケたちを認めると、唇の傷痕がやわらかく歪んだ。無事か、と彼は言った。
カキノスケは呆然として答えられなかった。腕の中から嗚咽が聞こえてきた。それでようやく自分たちが生き残ったのを知った。
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