11.出逢い
幼い時分から、ユキノジョウは怪物としての片鱗を示していた。物心ついたばかりの頃、雪かきから戻った父親の手から、ひょいと〈スコップ〉を奪ってみせたのである。
寒窺ならば誰もが軽々と扱っている〈スコップ〉は、しかし雪国人のために拵えられた遺物だと考えられている。非常に重く、常人では持ち上げることもできない代物なのだ。それをユキノジョウは枯れ枝で遊ぶかのように、ブンブンと振るってみせたのである。
ユキノジョウの両親は、そんな息子の姿に啞然としながら、この子は将来立派な
ところが、我が子を誇らしく思う気持ちは、次第に恐怖へと変わってゆく。ユキノジョウが際限なく成長を続けたからだ。
食事の際には決まって湯呑みや椀が砕け散った。薪割りを任せれば、衝撃で周囲の建物が傾いだ。雪かきの手伝いを買って出た時には、雪ばかりか屋根まで払い飛ばしてしまった。挙句の果てに、彼は雪崩をひき起きた。雪捨て山の近くをとおりかかっただけで、山が崩れ出してしまったのだ。
故にこそ、ユキノジョウの少年期は、力を抑え込むことに費やされた。しかし彼の力は、鍋蓋の隙間から吹きこぼれる泡にも似て、何かの拍子に表出した。そして人々を恐れさせた。友人などできるはずもなかった。孤独だった。
やがて弟が生まれると、ますます孤立していった。両親のよそよそしい態度が、あからさまな拒絶に変わったからだ。
それでも彼は、たったひとつだけ希望を残していた。
寒窺になることである。寒窺の世とは、すなわち力の世界だからだ。周囲を怯えさせてきたこの力が誇りになる。憧憬の対象にすらなるかもしれない。ユキノジョウはそう信じていた。
その時は目前に迫っていた。エチゼン国における壮丁年齢は十五歳。弟が生まれた時、彼はすでに十三歳だった。残り二年。長く短いその時を、彼は夢の中で過ごした。
そして二年後。
ユキノジョウは十五回目の誕辰を迎え、以て寒窺となり、己の甘さを呪うことになる。
「せ、拙者に教えられることは……もうない」
教育係の寒窺たちは、口々に同じことを言って、ユキノジョウの前から去っていったのだ。
端から恐れられていたのではない。最初はだれもが嬉々としてユキノジョウを育てようとした。才気あふれる若者の存在こそ国の未来であったから。
ところが、圧倒的な膂力、水を吸う綿のように次々と新たな技を習得する様を見せつけられるうち、彼らの目は怪物を見るそれへと変わっていった。
果ては城主までもが、化け物じみた力を恐れ、彼を城から遠ざけようとした。城下の雪かきを担当する〈
〈斬伐組〉は曰くつきの寒窺を集めた掃きだめだ。気性の荒い者もいれば、塞ぎこんで始終口を噤んでいる者もいる。そこでも当然のようにユキノジョウは孤立した。
あたかも彼は、雪雲の中にひらめく稲妻、あるいは人の形をとった雷の刃のようであった。触れたものすべてを斬り刻み、触れることなくとも見る者の目を焼いてしまう。誰もがそう信じこんでいた。ユキノジョウ自身でさえも。
「……本物の雷が、この身を焼いてくれればよいのにな」
ある日、一仕事を終えたユキノジョウは、すぐには帰らず、枝の落とされた天架杉の横で、紫色の雲を見上げていた。雲の中では、
「――!」
そこに何か聞こえてきた。ユキノジョウは我に返り、音の方角へと目をやった。風鳴りか獣の遠吠えだろうくらいにしか思わなかった。雪の帳の向こうに、朱色の城壁が微かに窺えた。ここには人の目も声もない。ゆえに偏見もない。穏やかだ。ユキノジョウが雷雲に向き直ろうとしたその時、また聞こえた。今度はよりはっきりと。
「おーい!」
声だった。人の声だった。ユキノジョウは白い紗幕に目を凝らし、城壁についたシミのような人影を見出した。それは跳ねるように雪原を駆けながら、忙しなく手を振っていた。すぐにもしもやけに染まった赤い指先が見えてくる。ものすごい速さだ。寒窺だ。だが何故? ユキノジョウは眉をひそめた。
「シミタロウ殿……なぜここに?」
寒窺の正体は、〈斬伐組〉の仲間シミタロウであった。
年の頃は近いが、ろくに話したことはない。そもそも話し相手などいたことがない。
こんな所まで何をしに来たのか。ユキノジョウは怪訝に相手を見つめ続けた。
シミタロウは膝に手を乗せ、あらい息をしている。白いものが膨れては消え、膨れては消え、その顔をくり返し煙らせていた。
「なぜって……街に引き返してみたら一人足りないんだもんよ。心配で迎えに来たんじゃねぇか」
「心配? なぜ?」
心底、不可解だった。シミタロウが非難するような目を向けてくるのだから、なおさら解らない。ユキノジョウはたじろいだ。すかさずシミタロウが詰め寄ってくる。
「お前な、さっきからなぜなぜってうるせぇんだよ。こんな吹雪の中だぞ? おまけに雷まで落っこちてきそうな、この空! 心配しないほうがどうかしてるだろ」
ユキノジョウはポカンと相手を見返した。シミタロウはますます苛立たしげに顔をしかめたが、やがて呆れたように吐息を吐いた。
「とにかく戻るぜ。こうも吹雪いてちゃ腹ん中まで凍えちまう。こんな日は、さっさと帰って火鉢と睨めっこするに限る」
赤い手をごしごし擦りながら、シミタロウが歩きだす。ユキノジョウは雪雲を一瞥してから、おずおずとその後に続く。
おしゃべりな男なのかと思っていたが、道中、話しかけられることは一度もなかった。寒い。疲れた。早く火鉢にあたりてぇ。独り言ならいくらでも言っていた。
エチゼン国の大門を潜ると、ユキノジョウは自宅の方角に歩きだした。すると突然、腕を摑まれた。振り返れば、シミタロウだ。何故かムスッとした顔つきをしている。目が合うと、あからさまに逸らした。そして、ユキノジョウの家とは真逆の方角に顎をしゃくった。
「ちょっと寄ってけよ。茶のひとつくらい出してやる」
何を言われたのか解らず突っ立っていると、強引に腕を引かれた。ユキノジョウは戸惑いながらもシミタロウの後に続いた。どうせ家に帰ったところで居場所はなかった。
雪かきに勤しむ寒窺たちが、怪物とその手を引く若者を、畏怖と好奇の眼差しで見つめていた。二人はそれを避けるかのように、通りを何度も曲がり、やがて城壁がすぐ傍にまで迫った薄暗い一画に出た。
通りの両脇には双子のような家々がひしめき合っていた。他の区域と大した違いはない作りだ。しかし一点だけ明らかに不自然なところがある。通りのどん詰まりに一軒、古びた家がぽつねんと佇んでいるのである。シミタロウは、それを指差して言った。あれが俺の家だ、と。
心なしかシミタロウの歩調が速まったように感じられた。何らかの事情があるということは、世間に疎いユキノジョウにも察しがついた。だが、何も言わなかった。己の素性を知られたくない者の心理だけは、よく知っていたからだ。
孤立した屋根の上では、老夫婦がせっせと雪かき作業に勤しんでいた。シミタロウはふたりに軽く声をかけ、さっさと家の中に入っていった。
ユキノジョウも老夫婦に会釈をした。すると、いまさら不安が込み上げてきた。シミタロウの背中が、うんと遠ざかった気がした。
流されるまま、ここまで来てしまった。だが、待て。俺は怪物だぞ。あの二人は、俺を知っているかもしれない。悲鳴を上げられたらどうする? 逃げるべきか? 逃げて、どこへ行けばいいのだ?
突然、ユキノジョウは棒を呑んだように固まってしまった。老夫婦は、奇妙な客人をじっと見下ろした。そして、ふっと表情を綻ばせた。
皆が寝静まった後、囲炉裏の前で炎を見つめる時にも似た安らぎが胸を過ぎった。
「おい、なに突っ立ってんだ。早くこっちに来いよ。凍えちまうぜ」
シミタロウが囲炉裏の前から手招きをした。
ユキノジョウは我に返り、慌てて敷居を跨いだ。シミタロウが適当に座れと言うから、履物を脱いでおずおずと框を上がった。シミタロウは窯の近くに置かれた小棚の前で、なにやらガサゴソとやり始めた。
ユキノジョウは着物を整えてから囲炉裏の前に腰を下ろした。囲炉裏には、すでに火が灯っていた。暖かかった。火棚からは
あったあったと声を上げると、シミタロウはいったん外に出てから、すぐにまた戻ってきた。そうして自在鉤に雪の詰まった急須を吊るした。雪解け水が温まってくると、床に投げ出した木の筒を手にとった。中には茶葉が詰まっていた。それを無造作に急須の中へ突っこむのを見て、ユキノジョウは少々面食らった。湯呑みの中が茶葉まみれになるのが容易に想像できた。
大胆な振る舞いから一転、シミタロウは口を噤んだ。ちょうど帰り際と同じだ。一言も発しようとしない。ようやく口を開いたのは、互いの湯呑みが茶で満たされた後だった。濃緑の液体の中には、やはり無数の茶葉が浮いていた。
「……俺もな、あんたが怖いと思ってたんだ」
湯呑みを傾けた手を止め、ユキノジョウは顔を上げた。干物の傍らから上目遣いに、シミタロウがこちらを見ていた。
「そうか」
ユキノジョウには、それしか言えなかった。シミタロウは、ますます申し訳なさそうな顔をした。
「すまん。だから、声をかけられなくて」
「皆、そうだ」
それなのに、今は面と向かって茶を飲んでいる。おかしな感じだ。尻の辺りがムズムズしてくる。ユキノジョウは訊ねた。
「恐ろしかったのなら、なぜ私を迎えに来たのだ?」
一口、茶を啜った。案の定、渋い茶だった。苦味が、胸をなぞって落ちていった。
シミタロウは囲炉裏の火を見下ろした。なかなか答えは返ってこない。時間がゆっくりと流れていた。これが普通の会話の間なのかどうか、ユキノジョウにはよくわからなかった。
やがて、シミタロウが突然おおきく湯呑みを傾けた。まだ、モクモクと湯気が立ち上り続けているそれをだ。ユキノジョウは慌てて腰を浮かした。
「おい、火傷するぞ!」
案の定、シミタロウは喉を押さえ苦悶の表情を浮かべた。ユキノジョウはどうしていいか解らず、背中を擦ってやった。シミタロウが咳き込みながらも、大丈夫、大丈夫と繰り返すので、ユキノジョウはその場に膝を折り、相手が落ち着くのを待った。
「すまん。心配かけたな」
表情は引きつらせたまま、シミタロウが顔を上げた。ユキノジョウはすっかり呆れて、当たり前だと言った。すると、シミタロウは可笑しそうに笑うのだった。
「何が可笑しいのだ」
「いやぁ、当たり前なんだなと思って」
「何がだ」
「俺のことを心配すんのがさ」
ユキノジョウは呆然となって、目の前の男を見返した。その時はじめて、互いの距離の近さに気付いた。シミタロウは目を背けようとせず、また逃げようともしなかった。
「ところで、最初の質問だが、迎えに行った時にも言っただろ」
「なるほど。俺を心配したというわけだな」
「そう」
シミタロウは呆れたように笑った。今ごろ解ったのかよ、そう顔に書いてあった。今度はゆっくり湯呑みを傾けてから、苦虫を嚙み潰したような顔つきで俯いた。茶が苦いせいではなさそうだった。呻くような声で、でもなと言った、それで解った。
「他の連中は違った。〈斬伐組〉の連中な。あんたがいない事に気づいても誰ひとり迎えに行こうって奴はいなかった。俺も迷ったけどさ。でも、吹雪いてるし、雷だって鳴ってるじゃねぇか。放っておいたらどうなるか……考えたらゾッとして、気づいたら、まあ壁の外さ」
シミタロウは首を横に振った。余計なこと言っちまったな、と。
確かに余計なことかもしれなかった。苦しみは慣れても苦しみなのだ。他のものに変わってはくれない。自分が放っておかれたことについては、おろしたての服に濁った水が滲みていくような不快感を覚えた。
だがシミタロウは、自分を迎えに来てくれた。
ユキノジョウは、相手の肩にそっと手を置いた。
「俺は、シミタロウ殿のことは、まだよく解らぬ。だが、外は凍えるように寒く、シミタロウ殿の淹れてくれたこの茶は沁みるように温かい。それは解った」
励ましと感謝のつもりだった。が、シミタロウには伝わらなかったのか、彼は首を傾げてぽかんとしていた。それが突然、弾けるような哄笑に変わった。
「な、なぜ笑う!」
「アッハハ! だ、だってよッ……! 急にこっ恥ずかしいこと言い出すもんだからさ!」
ユキノジョウは、たまらずシミタロウの肩を小突いた。眉をひそめ唇を尖らせながら。一時、孤独な怪物は、年相応な少年の顔をした。
シミタロウは、それを見て急に笑い止んだ。そして、空の湯呑みを手に取って掲げた。ユキノジョウの目を見ると、その頬が微かに朱色を帯びた。
「……あのよ、また茶でも飲みに来いよ」
ユキノジョウはパッと目を輝かせた。全身の産毛がそそり立つのを感じた。背筋を駆け上がる喜びを、どう言葉にすべきか迷った。
それはきっとシミタロウも同じで。
ふたりはしばらくの間、口を開かなかった。
沈黙が親愛の証となった。静寂はふたりの熱を高めていった。それも沸点に達すると、穏やかに下降を始めた。とろ火の風呂に浸かっているような心地よい時間が流れた。シミタロウが言った。
「昔、死んだばあちゃんが言ってた。俺たちはみんな〝はらから〟なんだってよ」
「はらから?」
「そう、はらから。顔の違う連中も、声の違う連中も、雪国人の末裔も、そうでない奴らも、親の親、そのまた親……って辿っていったら、いつかどこかで交わってたりする。だから、俺たちはみんな兄弟みたいなもんなんだってさ」
はらから。
ユキノジョウはその言葉を舌のうえで反芻した。みんな兄弟。俺のような怪物でさえも。そう思うと頬が緩んだ。
「知らない誰かを心配したりするのも、もしかしたら俺たちがどこかで交わってるからかもしれねぇよな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます