12.はらから
ユキノジョウがミフユと出会ったのは、シミタロウの家に通い始めて三度目のこと。いつものように男二人で茶を飲みながら雑談していた時、ふいに奥の襖がスススと微かに音を立てたのである。
見れば、薄く開かれた襖の向こうに女がいた。それがミフユであった。
彼女の肌は、一度も陽の光に触れたことがないかのように白く、瞳は何物も映していないかのように虚ろだった。滑らかに優美な曲線を描いた手足は作り物めいていて、命あるものとは思われぬ儚かさを漂わせていた。
客人に気づいたミフユは、わずかに口角を上げて微笑み、ほんの少しばかり顎を引いてみせた。どうやら会釈をしたらしかった。すぐには声を発しなかったが、それはユキノジョウも同じだった。彼女には、ただそこにいるだけで時を止めてしまうような不思議な魅力があった。やがてミフユは言った。
「お客様がいらしていたのですね。こんばんは」
鈴を転がしたような声。それは外でうなる風の音に紛れて、すぐに消えた。
ユキノジョウは、まだ呆然としていた。会釈を返すので精一杯だった。
その時、視界の隅でシミタロウが立ち上がるのが見えた。まっすぐに彼女のもとへと駆け寄っていった。力ない腰に手をやって華奢な体を支えてやると、虫の鳴くような声に耳を傾けた。うんと頷けば、彼女の小さな手に薬包紙を握らせた。
ミフユはシミタロウを見上げ、またも消え入りそうな微笑を浮かべた。そして奥の部屋へと戻っていった。襖を閉めきる寸前、彼女はもう一度ユキノジョウを見やった。口許がかすかに動いた。声は聞こえなかったが、「ごゆっくり」と、そう言ったように見えた。
ミフユの姿が見えなくなると、シミタロウが囲炉裏の向こう側に座り直した。ユキノジョウは閉じた襖を見つめ続けていた。
「悪い、驚せちまったか?」
「いや、謝られるようなことではないが。あの
「ああ、ミフユってんだ。俺の嫁だ」
「ブ、ァ……ッ!」
ユキノジョウは飲んだ茶を吹きだして咽た。
シミタロウは顔をしかめ、かかった飛沫を袖で拭った。
「あのな、俺だってもう十八だぞ。嫁くらいいても不思議はねぇだろう」
「すまぬ……。これまで人の気配を感じなかったせいか、家の中には誰もいないものと思い込んでいた」
「それだけじゃない気はするがな」
シミタロウは目を細め、非難がましくユキノジョウを見たが、突然、物憂げに息を吐くと、腕を組んで囲炉裏の火を見下ろした。
「ユキノジョウ、お前には話しておくぜ。ミフユはな、ちょっとした病におかされているんだ」
病と口にした瞬間、その肩が小さく震えたのをユキノジョウは見逃さなかった。無理からぬことであった。この狭隘な街の中で、雪にも劣らず恐ろしいものが病だ。一たび伝染病が流行すれば大勢の人間が命を落とすことになる。だからこそ、病に臥せった者たちは、見つかり次第、ただちに処刑される。その一画が炎に焼かれることもある。
恐るおそる顔を上げたシミタロウの視線を、ユキノジョウは動じることなく受け止めた。
「病とは?」
「生まれつき肺腑が弱いんだ。移ったりするもんじゃねぇんだがな。信じてくれるか?」
問われるまでもない。どうして疑うことなどできるだろう。シミタロウは同胞だ。家族以上につよく結びついた相手なのだ。
ユキノジョウは深く頷いてみせながら、何故この家だけが、周囲の家々から離れた場所にあるのかを、ようやく理解した。理解しつつも、彼は訊ねた。
「ここらの者は、おぬしらの事情を理解してはおらぬのか?」
「病というだけでダメなのさ。無理もねぇんだよ。万が一、病が流行ったりしたら、この一帯は火の海になるんだから」
「だが、移らぬ病なのだろう? ずっと、ここで暮らしてきたのだろう?」
「でも今更、後に退けねぇんだろうよ」
「後に退けない?」
「態度を改めりゃ、自分が間違ってたって認めることになるだろ」
「くだらん!」
ユキノジョウは一息に茶を飲み干し、荒っぽく鼻息を吹き出した。
シミタロウには何不自由ない人生を生きて欲しかった。ミフユに関してもだ。彼女とは先ほど初めて対面したばかりで、まともに会話すらしていないが、早くもそう願っていた。あの大人しい女性が、シミタロウの選んだ女性が、このような理不尽に苦しむのは納得がいかない。
だからといって、何ができるわけでもない。友のためにできることと言えば、励まし以外には何もない。ありがとよ、とシミタロウは笑う。それが切なかった。ユキノジョウは項垂れながら言った。
「このような事しか言えぬ私を許して欲しい」
シミタロウはユキノジョウを一瞥し、やんわりと首を振った。空の湯呑みに茶を注ぐと、今度はじっとユキノジョウを見つめた。
「それ以上に望むものなんかあるかよ。俺たちは同胞だ。そうだろ?」
シミタロウは湯気の立ちのぼる湯呑みを掲げた。ユキノジョウは強張った頬を緩ませ、自分の湯呑みに茶を注ぎ足した。滲み出るような熱を指先に感じながら、彼もまた湯呑みを掲げた。
「無論だ」
二人は同時に茶を啜った。そして同時に舌を出して熱さを訴えた。互いに互いを指さして笑った。シミタロウとなら喜びも悲しみも分かち合えた。知りもしない遠い過去に、確かに自分たちは繋がっているのだ。
同胞はひとりではなかった。シミタロウの両親も、ミフユも、ユキノジョウの力を恐れなかった。それどころか彼の境遇に同情の意を示し、ほとんど家族のように扱ってくれた。夕餉を共にし、同じ床で眠らせてもらうことまであった。対して、血の繋がった両親は、幾日も行方の知れぬ我が子のことなど気にもかけなかった。
ユキノジョウは、それでよかった。
シミタロウたちとの関係さえ続けば、それ以上に望むものは何もなかった。
彼の願いどおり、長らく交流は続いた。
ついにユキノジョウが家族と縁を切ってからも。
シミタロウの両親が亡くなってからも。
ミフユがトウキチを身籠ってからも。
しかし、永遠につづくものはない。
シミタロウたちとの交流が始まって二十年の後、唐突に終わりはやって来た。シミタロウが死んだのだ。
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