13.雪よりも白く
千の刃が肺の中を乱舞していた。一呼吸ごとに刃は研がれ鋭さを増し、肺を駆け上がって次第に喉まで斬りつけ始めた。くるぶしの高さまで積もった雪に足をとられながら、ユキノジョウは走っていた。
先ほどまで〈斬伐組〉の親方の顔を莫迦みたいに見返していたのが嘘のようだ。シミタロウの死を聞かされ、半身が見えない穴の底へ落ちてゆくようなあの感覚も、今は懐かしく思われた。
手を繋いだ親子とすれ違う。そこにミフユとトウキチの姿が重なる。胸が潰れたように痛む。
シミタロウなしで、ふたりは生きてゆけない。
ミフユの体調は年々わるくなっていて、近頃は家事も満足にできない。息子のトウキチは今年で三つになったばかりだ。ユキノジョウのような怪物でない限り、雪国人の力に目覚めるまで、あと数年はかかることだろう。
ならば、誰がふたりを支える?
決まっている。自分だ。
それがユキノジョウの導き出した結論で、いま彼が走っている理由だった。
飛ぶように通りを跳ねて、細道を曲がり、やがて城壁の迫ったあの一画へと辿り着いた。城壁が落とす影の中、孤立した家を彼は見上げた。風がうなり家が軋んだ。一抹の逡巡が胸を過ぎった。シミタロウになにもしてやれなかった自分が、果たしてふたりの力になってやれるだろうか、と。
しかし子どものすすり泣く声を聞けば、つまらぬ迷いなど消えてなくなった。ユキノジョウは傾いだ引き戸に手をかけた。
「ミフユ殿、トウキチ殿……」
弱々しく光を放つ囲炉裏の傍に、いた。片や雪のように青ざめた母親と、片や真っ赤な顔で泣きじゃくる子どもが。
ミフユは囲炉裏の熱で、あるいは息子の熱で、融けて消えてしまいそうに見えた。トウキチもまた、己の発する悲しみの炎で、燃え尽きてしまいそうだった。
ユキノジョウはたまらず親子のもとに駆け寄り、後ろからふたりを抱きしめた。シミタロウが生きていれば、きっとそうしたように。
「……わたしが二人をお守りする」
ふたりは何も答えなかった。ミフユはじっと打ち寄せる喪失の波に耐え、トウキチはとめどなく溢れる涙をぬぐい続けていた。
無理からぬことだ、とユキノジョウは思った。すぐでなくていい。いつかでいい。けれど、いずれは二人が顔を上げられるようにと、ユキノジョウは親子を抱き寄せた。
やがてミフユの背が震え出した。家の軋み音に、弱々しい嗚咽が混じった。
ユキノジョウもまた声もなく泣いた。
悲しみと罪悪感とが胸の内にせめぎ合っていた。シミタロウが命を落としたことについては、自分にも責任がある、とユキノジョウは思っていた。シミタロウがつねづね嘆いていたのを知っていたからだ。
『金の生る木はないもんか。ミフユの薬は年々高くなるし、坊主だって育てていかなきゃならねぇ。生きるってのは難儀なもんだぜ』
シミタロウがひとりで壁の外へ出てゆくようになったのも知っていた。天架杉の根を採取し、金に換えるためだった。
忠告はした。危険だからやめておけと、何度も。
だが、力づくで引き止めたわけではない。今となっては、もっと熱心に説得すべきだったのではないかと思えてならない。
雪中深くで、シミタロウは息絶えていたという。
天架杉の根を採ろうとして失敗したのだ。掘り進めてゆくうちに雪が崩れ、生き埋めになったのだ。
「シミタロウ……」
シミタロウのことを想うと、ますます胸が締め付けられた。
独り、雪の中に埋もれて、どんなに淋しかっただろう。辛かっただろう。
ユキノジョウに、それを知る由はない。ただ、大切なものを守りきれなかった不甲斐なさだけは、少しだけ分かるような気がした。
「うぅ、うああ、あああぁぁああああぁぁあああ……!」
トウキチがまた声を上げて泣き出した。ユキノジョウの腰に小さな腕が回された。ミフユもトウキチとユキノジョウを抱き寄せた。
遠く、雷鳴が鳴り響いた。
――
残された妻子を守るために、ユキノジョウが最も頭を悩ませたのは雪かきの問題だった。
ふつう城下の除雪は〈灰捌組〉に任せられている。ところが、ミフユたちの家に〈灰捌組〉の寒窺はやって来ない。ミフユの病、あるいはそれを恐れる者たちからの風評を恐れているからだ。
シミタロウがあのような無謀な賭けに出なければならなかった理由のひとつに、それがあった。単に妻子を養うだけならば、〈斬伐組〉の仕事を続けながら慎ましく暮らしてゆくことができただろう。しかし彼が家を空ける間、雪から家族を守るためには、寒窺の袖に忍ばせる多額の賄賂が不可欠だったのだ。
「うるせぇな! こっちは忙しいんだよ!」
それもただ金を渡せばよいというものでない事を、ユキノジョウは理解し始めていた。雪かきに忙殺された寒窺たちは気性が荒く、取りつく島もない。足を止めてくれる者もいるにはいるが、いざ要件を伝えると、金を払うと言っても嫌な顔をして去ってゆく。
皮肉にも、それはユキノジョウへの恐れに起因するものではなかった。いまや彼を恐れる者のほうが稀だった。〈斬伐組〉に所属し、一日のほとんどを城壁の外で過ごすようになったからだ。せっせと
雪かき代行者を見つけるのに三日を費やした。が、それは善良な男だった。ひたすら寒窺に声をかけ続けるユキノジョウを見て、あちらの方から声をかけてきてくれたのだ。糸のように細い目をした如何にも穏和そうな男で、事情を話すと、金も受け取らず二つ返事で了解してくれた。
ユキノジョウは糸目の寒窺に深々あたまを下げると、足取り軽く〈斬伐組〉の仕事に向かった。枝の刈りとりが終わり、皆が引き揚げても彼だけは壁の外に残った。そして、天架杉の幹を覆った雪を掘りだし始めた。あたかも朽ち果てた友の亡骸を探すように。あるいは彼の体に同胞の魂が乗り移ったかのように。
ようやく根を掘り出した時には、日はもう沈んでいた。赤い雷光を孕んだ雲の色を反射して、地表は薄紫に染まっていた。風が冷たかった。血が凝って感じられた。篝火に照った城壁の赤が、果てしなく遠く感じられた。
だが、あの場所にミフユとトウキチがいる。今やあの二人は、ユキノジョウの篝火だった。帰り支度をしながら雪の降り止まぬ空を見上げた。消えたいとは、もう望めなかった。望まなかった。
重い体と木の根を引きずって戻った。それを金に換えるのもまた容易ではなかった。ユキノジョウが家に戻ったのは、夜も更けた頃であった。わずかに膨れた巾着がチャリチャリと音を立てていた。
それが不意に途絶えた。ユキノジョウは家の前で足を止めた。
「……なんだ、これは」
否、家のあったはずの場所で、足を止めたのだ。
彼の目の前に家と呼べるようなものはなかった。堆く積もった雪山があった。中から屋根の残骸が飛び出していた。辺りに散らばっているのは木っ端。それらも降りしきる雪の中に埋もれようとしていた。
「なんだ、これは」
ユキノジョウは同じ言葉をくり返し、覚束ない足取りで雪山へと歩み寄った。やがて早足になった。ついに駆け足になった。
「ミフユ殿……! トウキチ殿……!」
雪山の前でうずくまる。強張った手を突き入れ、雪を掻きだしてゆく。
しばらくの間、〈スコップ〉の存在さえ忘れていた。ハッとして〈スコップ〉の縛めを解いた。雪の表面に刃を突き入れると、それだけで雪山に無数の亀裂が生じた。彼は長らく封じてきた己の力を解放した。嵐のような〈スコップ〉捌きで雪山を崩し、家の残骸をとり払った。間もなく、雪の中に埋もれた女を見つけた。
「ミフユ殿ォ……!」
ユキノジョウは力強く、しかし繊細な手つきで雪を掻きだした。埋もれた姿が露わになってゆく。白い肌。間違いない、ミフユの肌だ。だが、これは、あまりにも。まるで透けて見える。氷の彫刻のように。
「起きてくれ! 起きてくれ、ミフユ殿!」
ユキノジョウは傍らに〈スコップ〉を突き刺し、ミフユの頬を叩いた。しかし反応はない。瞼もぴったりと閉じたままだ。薄く開いた唇が、こんこんと咳をすることもない。
一片の雪が舞い落ちて、ミフユの目尻を撫でた。ユキノジョウは震える指でそれを払おうとした。が、彼の熱はたちまち雪を融かし、ミフユの目尻に滴をつくった。それが音もなく流れ落ちていった。
「ミフユ殿……なぜだ……」
ユキノジョウは冷たくなったミフユを抱き寄せ、背中を震わせた。
すると、そこにザクザクと雪を踏む音が近づいてきた。
ユキノジョウはそれに構わず、〈スコップ〉を手に取った。まだトウキチが見つかっていない、見つけてやらなければ、と雪に刃を突き立てた。その時だった。
「……おじさん」
舌足らずな幼い声がして、ユキノジョウはぴくりと肩を震わせた。ゆっくりと振りかえり目を剝いた。
そこにトウキチが立っていた。ひとりではなかった。糸目の寒窺と手を繋いでいた。ガクガクと震え、大粒の涙を流していた。
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