10.決戦前夜
囲炉裏に残ったとろ火が、自在鉤にぶら下がった土瓶の底をちろちろと舐めている。カキノスケは雪解け白湯の入った土瓶を手に取り、飲み口の欠けた湯呑みに注いだ。湯気で濁った液体がぬらりと揺れて、次第に、歪んだ鏡の如くカキノスケの相貌を映し出してゆく。
いよいよだぞ、やれるか?
カキノスケは自分自身に問いかける。
光陰矢の如しとはよく言ったものである。決戦の時が、はやくも明日に迫っていた。
擬神座が討たれてから三日が経った。
坂の修繕工事は、先ほど終わりを迎えた。ヒエモンの傷もすでに癒えたという。〈オオゲツヒメ〉から供給される滋味にあふれた食材と、寒窺に元来そなわった再生能力が合わさり、折れた骨もたちまち癒合したというわけである。
「……」
カキノスケは自分自身の問いに応えられぬまま項垂れた。結局、湯呑みには口をつけず、そっと傍らに置いた。
家中にユキノジョウの姿はない。部屋の隅に置かれた火鉢、その熱を背に受けながら横になったトウキチだけがいる。三重にした筵が、微かな上下を繰り返している。耳を澄ませば聞こえてくるのは穏やかな寝息だ。
カキノスケは、ふとリッカとの日々を思い出す。両親が世を去ってからというもの、自分たち兄妹に、あのような穏やかな眠りが訪れることはなくなっていた。幼くして実の母を亡くしているせいか、カキノスケがふたりの死を受け入れるのは早かったが、リッカは違った。毎夜毎夜、妹は泣いた。泣き続けた。体中の水気が抜けて、涸れてしまうのではと不安になるほどだった。
リッカの悲しみが癒えぬのは、自分自身にも責任がある。そうカキノスケは思っている。寒窺の多忙さゆえ、傍にいてやることができぬからだ。自分がもっとリッカに寄り添ってやることができれば、きっと妹を苦しめる悲しみも癒える。そう信じて、此度の旅にでることを決意したのであった。
鬼を連れ帰れば、もっと傍にいてやれるのだ。リッカの心の空白を、埋めてやることができるはずなのだ。
「……許せとは言わぬ」
眠れるトウキチの背中に、カキノスケは囁いた。
リッカのために、この子を利用するしかない。この子は、鬼を御する手綱だ。
そんなことをして許されるのか?
いや、迷ったところで栓なきことだ。リッカを見捨てる選択肢などないのだから。
なのに、小さな背中を見ていると、どうしようもなく心が揺さぶられる。膿んだように胸が疼く。
カキノスケは荒々しい手つきで湯呑みを摑んだ。湯呑みからは未だモクモクと湯気が立ち上っていた。それをぐいっと喉に流し込んだ。痛みが胸もとを駆け抜けた。痛みで顔が歪んだ。しかし、それはすぐに泣き笑いめいた表情へと変わった。痛みが却って自責の念を和らげていた。
「……戻った」
その時、玄関の戸が開き、ひょおひょおと鋭い吹雪が舞い込んできた。
ユキノジョウは、すぐにぴしゃりと戸を閉めた。頭巾をはね上げ、土間に雪を払い落とし、岩のように硬化した手を擦り合わせながら囲炉裏の前までやって来る。
「お疲れでしょう」
カキノスケは雑念をふり払い、労わるような微笑を向けた。ユキノジョウの湯呑みを持ってきて、そこに白湯を注いでゆく。
「それほどでもない」
湯呑みを受けとって、ユキノジョウは小さく頭を振る。その肩からは陽炎が立ち昇っている。寒窺たちが坂の工事に出払っていた間、村の雪かきは、すべて彼が請け負ってきたのだ。
「カキノスケ殿こそ、坂の仕事は骨が折れたのではないか?」
「なんの。俺とて寒窺ですので」
確かに大変な作業ではあった。砕けた雪の塊をひたすら穴にまで運び上げてゆくのだ。当然、塊は重い。それに加えて、寒窺の体温で融けていってしまう。根気と時間との戦いであった。
作業が苦しい分だけ、カキノスケは己の使命を忘れていられた。だが、集中を要するだけに、この三日間が早く過ぎ去っていったのも事実である。
そして今、目の前に〈雪除けの鬼〉がいる。
「しかし……あのような命懸けの仕事、客人であるおぬしにまで押しつけてしまい申し訳ない」
「いえ、命を助けていただいた恩義に報いたまでのことです」
何をいけしゃしゃあと。
またぞろ自分自身を責めながら、カキノスケは平静を装った。
「それなら巨熊退治に手を貸してくれただけで不足ないと思うが」
「巨熊の首を獲ったのは、あくまでユキノジョウ殿ではないですか」
その時、湯呑みを傾けるユキノジョウの手が止まった。
カキノスケはきょとんと相手を見返した。が、すぐに己の失態に気付いた。
しまった。
胸から何かが込み上げて、ゾクゾクと喉を震わせ始めた。カキノスケは、慌てて喉許を手で隠した。
宴のあった夜、村人たちは巨熊が消息を絶ったことを知った。それを彼らは、こう解釈した。獣はかろうじてユキノジョウの一撃に耐え、〈スノーダンプ〉を引きずって村を去っていったのだ、と。
つまり、
ユキノジョウは、湯呑み越しにカキノスケをじっと見つめた。
カキノスケは五臓六腑が凍りつく感覚を味わいながら白湯を啜った。味がしなかった。熱すらも感じない。一口ではとても満足できず、慌てて湯呑みを傾けた。が、すでに中は空。とっさに喉を鳴らし、液体を飲み下す演技をした。
「あ、そうだそうだ! ユキノジョウ殿の分も、鍋を拵えておいたのでした」
我ながら下手な芝居に嫌気がした。まとわりつく視線を払い除けるように、カキノスケは動いた。自在鉤から土瓶をとり外し、残してあった味噌鍋を火にかけた。
汁の底に沈殿したものが生き物のように蠢き膨れあがる。湯気が立ちのぼり、味噌の香りを運ぶ。カキノスケは、それが疑念の種を摘んでくれることを願う。
やがて、ユキノジョウが湯呑みを置いた。
「……助かる。さすがに腹が減った」
カキノスケの肩から力が抜けた。助かったのはこちらの方だ。
しかし一度、芯まで凍えた体は、そう容易くほぐれてはくれない。カキノスケは囲炉裏の前に手をかざす。寒いさむいと呟きながら、ユキノジョウを見ないようにする。
すると突然、ユキノジョウが言った。
「いよいよか」
いきなり頬をぶたれたかのように、カキノスケは顔を上げた。かろうじて目が合う寸前で堪えた。
待て、逸るな。カキノスケは自分自身につよく言い聞かせた。端から疑われていた恐れはある。だとしたら鎌をかけられたのかもしれない。取り乱すな。冷静であれ。
カキノスケは平静を装いながら、恐るおそる視線を上げた。
ところが、互いの視線が交わることはなかった。ユキノジョウが鍋を見下ろしていたからだ。
「いよいよ、とは?」
意を決して、カキノスケは訊ねた。そうするべきでないことは解っていた。余計なことを言えば、墓穴を掘ることになりかねない。
それでも口を開かずにいられなかったのは、ユキノジョウの眼のせいだ。
囲炉裏の火を反射して赤く輝いた、それ。怒りのように激しくはなく、疑念のように淀んでもいない、燃えながら緩やかに凍えていくような、寂寞としたその赤き色彩の訳を知りたいと思ってしまったのだ。
ユキノジョウは瞼を下ろし、考え込むように顎をひいた。
そして吐息。沈黙。ややあって目を開き、今度こそカキノスケを見返した。
「ヒエモン殿の傷が癒えたと聞いた。坂もすっかり元通りになった。そろそろ村を発つ頃合いなのだろう?」
「なるほど。そのことですか」
どうやら杞憂だったようだ。
カキノスケは、うっかり胸に溜まったものを吐き出さぬよう努めながら言った。
「仰るとおり、いつまでも厄介にはなれません。故郷に残してきた者もおりますし。いずれは帰らねば」
「無論、解ってはいるのだがな。また家が広くなると思うと」
みなまで言わず、ユキノジョウはトウキチの背中に目をやった。
「カキノスケ殿には感謝している」
「感謝?」
「巨熊からトウキチを守ってくれただろう」
「守ったなどとはとても。ユキノジョウ殿が駆け付けてくれなければ、俺もトウキチ殿もやられていましたよ」
「そうと解っていたのなら、なおさらだ。命を賭してトウキチを守ってくれた、その姿勢に、称賛と感謝を」
ユキノジョウが頭を下げた。
カキノスケは顔をしかめた。
やめてくれ。
その叫びを、心の中に留めておくだけで精一杯だった。
俺は、あなたが思っているような立派な寒窺ではない。あなたを攫い、雪かきの奴隷とすることが目的の極悪人だ。あなた方の幸福を、自由を、尊厳を奪おうとしている、それが俺の正体なのだ。
カキノスケは手のひらで、きつく口許を押さえた。
するとユキノジョウは追い打ちをかけるかのように、こう言った。
「あの子は、わたしの最後の光なのだ」
「最後の、光……?」
カキノスケは、きりきりと頭をめぐらせ、穏やかに眠るトウキチを見やった。
鬼と子ども。
ヒエモンの語った物語が思い出された。立ちはだかる寒窺たちを斬り捨て、城主の首を刎ね、ついには国宝遺物と子ども一人を連れ去っていった男のことを。
本当にユキノジョウがそうなのか。
カキノスケは未だ確信を持てずにいた。
ところがユキノジョウは、直後、こう続けたのである。
「かつて私は、あの子を守るために多くの命を斬って捨てた」
ごくり。生唾を呑む音が聞こえた。
カキノスケ自身の喉が鳴ったのだった。
向き直ると、そこに、囲炉裏の火を受けたユキノジョウの相貌が浮かんでいた。雪原に投げ捨てられた生首のように、ひどく蒼褪めた顔だった。囲炉裏の火が揺れて、ユキノジョウの背後で闇が蠢く。カキノスケの目には、それが無数の亡霊の
やはり違う。何かが違う。カキノスケは思った。その違いとやらを無性に知りたくなった。互いの視線が交錯した。重々しく、ユキノジョウは言った。
「すこし昔話をさせてくれないか」
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