9.それぞれの鬼
祝宴開始数刻前。
村人たちは互いの安否を確かめ合い、寒窺たちは倒壊した家々や穴の穿たれた坂の修繕計画について話し合っていた。
カキノスケはといえば、巨熊に吹っ飛ばされたヒエモンを捜していた。家屋に開いた大穴を潜ると、不意に肩を摑まれた。
「声を出すな」
身構えたカキノスケに、何者かが囁いた。振り返れば、そこにヒエモンがいた。ヒエモンは瓦礫に血の混じった唾を吐き、脇腹を押さえた。
カキノスケは胸を撫でおろし、すぐにも声を返そうとする。しかしヒエモンの剣呑な目つきが、それを許さなかった。師は裏口のほうへと顎をしゃくってみせる。裏口とは言っても、この家にあらかじめ設けられたものではなく、家を一直線に貫いた、それもまたヒエモンが衝突した際に開いた穴である。
家々の裏手にでると、ヒエモンは壁に寄りかかって長い息を吐いた。カキノスケは相手が話し出すのを待った。こちらから口を開けば、今度こそ拳が飛んでくるかもしれなかった。やがて、風の唸りが高まりだした。それを待っていたかのように、ヒエモンは言った。
「……お前は、七年前の事件を覚えているか?」
「七年前の、事件? 先代の親方様が殺されたという、あの?」
「そうだ」
盗人が天守に押し入り、国宝遺物を盗み出すばかりか、城主まで殺害したという悍ましい事件である。
当時、カキノスケは今のトウキチと同じくらいの年齢だったが、あの恐ろしい夜のことは、はっきりと記憶に残っていた。けたたましく鳴り響く鐘の音、寒窺たちの怒号、慌しく行き交う足音などが、ひっきりなしに壁や床をふるわせていた。リッカと固く抱き合いながら、断末魔の声が近づいて来るのも聞いた。血の嵐が自分たちを無視して去っていったことには心底ホッとしたが、翌日、城主の死を知った時には改めて血の気が失せたものである。
「あの盗人というのが、鬼なのだ」
突然、ヒエモンが言った。
カキノスケは目を瞠った。すぐには信じられなかった。そのような重要なことを、同じエチゼン国で暮らしてきた自分が知らぬはずはないだろう、と。
その疑問を見透かしたかのように、ヒエモンは続けた。
「あれは我が国においては呪い、災い、あるいは魍魎の類とされている。少なくとも民草の間ではな」
「確かに、子どもが叱られる際には、そんなことをすると盗人が来るなどと聞くようになりました」
「そもそも、あれと〈雪除けの鬼〉が同一人物だと知る者のほうが稀なのだ。かつて国を混乱に陥れた極悪人を連れ帰ってくるなどと知れたら、それこそ国が荒れるからな」
カキノスケは身震いする。今更ながら、己が身に負わされた責任の重さに慄然とさせられた。ヒエモンは目を眇めた。
「よもや、手を引くなどとは言うまいな」
カキノスケは反射的にかぶりを振った。
ヒエモンは片頬に微笑を浮かべた。が、それも束の間、次の瞬間には物憂い顔つきになっていた。ヒエモンが胸の前で腕を組んだ。それは何かを考え込むというより、内なる恐れを奥へおくへと封じ込めているように見えた。やがて、ヒエモンは言った。
「……あれは正しく最強の寒窺だ」
それからヒエモンは語り始めた。
〈雪除けの鬼〉という寒窺について。
それは平凡な家に生まれた。母はただの女で、父の方が寒窺だった。だが、その父も、うだつの上がらない凡庸な寒窺だったという。何故、そのような両親の間に、後に〈雪除けの鬼〉と呼ばれる子が生まれたのかは、今もってしても謎のままだという。
その男が初めて〈スコップ〉を手にしたのは三歳の時だ。両親はたいそう感激し、我が子を神童ともてはやした。成人を迎える頃には、〈スコップ〉をたった一振りするだけで、雪に埋もれた家を裸にしたという。
にもかかわらず、男が所属していたのは、城下の雪かきを担当する〈
「先代の親方様は気の小さいお方だったのだ。あれについて、悪い噂はいくらも聞かれたが、どこまでが真であったのかは知らぬ。〈斬伐組〉への左遷を告げた寒窺は、その時のことをこう語っている。あれは悪態ひとつ吐かず素直に人事を受け入れた、と。ところがだ」
ある日、男は豹変した。まるで鬼にでも憑かれたかの如く、怒り狂いながら城内にまで踏み込んできたのだ。男は誰の声にも耳を貸さなかった。人質の子ども一人を脇に抱えながら、次々と寒窺を斬り捨てていったという。
「情けないことに、若衆の師範を務めていた寒窺どもは、その修羅のごとき暴威に恐れをなして城を去っていった。そればかりか、弟子たちを刺客として送り出したというのだから呆れた話だ」
結果、若年の寒窺たちの多くが血の海の中に没した。そして修羅と化した男は、天守に奉られた国宝遺物〈スノーダンプ〉を盗み出し、エチゼン国を後にしたのである。
ヒエモンは苦々しく結ぶと、潰れた片目にそっと手を当てた。その手が小刻みに震えているのが、カキノスケにははっきりと分かった。
「己も城に残った一人だ。この傷は、そのとき刻まれた。弟とその妻などは、あれに
手の震えは、次第に全身へと伝っていった。師のそのような姿を目の当たりにして、カキノスケも戦慄していた。
カキノスケにとって、最強の寒窺とはヒエモンのことだった。彼に膝を付かせた寒窺など見たことがない。しんと冷えた道場の床を舐めさせられた回数など思い出せないほどだ。首筋に突きつけられた竹スコップの感触は、もはや皮下にまで染みついている。
その寒窺が、いま恐れに震えている。鬼とは、それほどの存在なのか。いったい何者――いや。
考えだした途端、カキノスケは思考を断った。それ以上、考えたくなかった。己の中の何かが、激しい拒絶反応を示していた。
しかし、真相はもはや目前にある。
ヒエモンが通りの方へ顎をしゃくった。
カキノスケはおずおずと通りを見やった。そこには未だ村の修繕計画について話し合う寒窺の一団の姿があった。
押し殺した声でヒエモンは言った。
「
憎々しげに見開かれた片眼が、ユキノジョウを睨んでいた。
カキノスケは
莫迦な……。
いや、解っていた。だからこそ、考えたくなかったのだ。それでも認めざるを得ない。たった一撃で巨熊を討ちとってみせたあの業前が、鬼のそれでなかったとしたら何だというのだ。
カキノスケは、今度こそ確信した。
それでも一つだけ腑に落ちない点があった。
今しがたヒエモンが語った男と、ユキノジョウの印象がどうしても重なってくれないのだ。盗人は血も涙もない悪鬼ではなかったのか。穏やかな風体を装い、機を見て女子供をも容赦なく斬り捨てる、そういう男では?
カキノスケの知るユキノジョウは違う。そんな男ではない。トウキチの寝顔を穏やかに見つめる、あれは父親の姿そのものだった。
「間違い、ないのですか?」
「巨熊を討った際、〈スノーダンプ〉を使っていたのが何よりの証左よ」
「〈スノーダンプ〉を?」
決着の瞬間を、カキノスケは認識できていなかった。巨熊を討ったあの時、ユキノジョウは〈スノーダンプ〉を使っていたのか?
カキノスケは巨熊の亡骸を振り仰いだ。しかし、そこに〈スノーダンプ〉はない。それどころか、銀白の毛皮を血に染めた獣の死骸さえもなかった。カキノスケは眉をひそめ、師を見やった。ヒエモンはゆっくりとかぶりを振った。
「あそこにはもうない。隠したからな」
「隠した?」
「あれの手に〈スノーダンプ〉があっては、こちらに勝機はない。己が手にしてようやく、勝利の秤をこちらに傾かせることができる」
ヒエモンの目がギラギラと妖しい輝きを放つ。あたかも鮮血の粘りに輝く刃のごとく。カキノスケは僅かに後退る。踵が雪の表面をえぐる。彼の目には、ヒエモンこそが鬼に憑かれた化け物のように思えた。
だが……。
カキノスケの胸の内にも鬼は棲んでいる。
ユキノジョウの力が欲しかった。巨熊を倒した、あの力が。
あの力さえあれば、エチゼン国は――リッカは救われる。
心が疼いた。カキノスケは胸を鷲掴みにして、自責の念に耐えた。
ヒエモンは弟子の醜態を一瞥したが、ついに何も言わなかった。カキノスケの相貌から、徐々に表情が剝がれ落ちてゆくのを見て取ったからである。
「……仕かけるのは何時になさいますか?」
「すぐに、と言いたいところだが、そうもゆかぬな」
ヒエモンは鳩尾のあたりに手をやると、忌々しげに唸り声を漏らした。
「先の一撃で肋を何本かやられた。坂を転げ落ちた傷も、まだ癒えておらぬ。なにより」
潰れた白い眼玉が、村と外とを繋ぐ崩れた坂へと向けられた。坂の麓には巨大な氷塊が幾つも転がっていた。その周囲には、綻びから雪崩れ込んだ雪がうずたかく積もっていた。加えて、
「あれが直らんことにはどうしようもない。事を起こすのはそれからになるな」
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