17.雪除けの鬼
カキノスケが戦線離脱し、ヒエモンは舌打ちした。しかし高台に現れた少年の姿を目にした瞬間、彼はすべてを理解し、口許に酷薄な笑みを浮かべた。すぐさま狙いを切り替え、トウキチへと襲いかかる。
「させるかァ!」
一方、ユキノジョウは当身の反動を推進力に変換し、トウキチの前に立ちはだかった。二振りの雪かき遺物が、真正面からぶつかり合う。
「ぐぬ、ゥ……!」
無論、利は〈スノーダンプ〉の方にある。〈スコップ〉が押し返されてゆく。鬼と恐れられる男であろうとも、圧倒的な質量差は如何ともし難かった。ユキノジョウはじりじりと後退しながら、その肩越しにトウキチを見やった。
「逃げろ、トウキチ……!」
「どちらも逃がすものか。小僧、貴様も共に来るのだ。鬼を
ヒエモンは〈スノーダンプ〉をさらに押し込んだ。〈スコップ〉が軋み、地面に亀裂がはしった。トウキチは慄然と震えた。しかし逃げなかった。涙の雫をこぼしながら、彼は声を張り上げた。
「やめろって言ってんだろ! こんなことして何になんだよ!」
この世に、もうトウキチの両親はいない。父は不幸の末に命を落とし、母は人の悪意に殺された。その頃の記憶はおぼろげにしかない。それでも両親を亡くした漠然とした悲しみだけは憶えている。あんな思いは二度とごめんだ。なのに、運命というやつは、いつも人の心など斟酌しない。
「放っておいてくれよ! オレたちはただ、ただ……ッ」
「聞けぬな」
悲痛な少年の叫びを、ヒエモンはにべもなく切って捨てた。ぐんと〈スノーダンプ〉を押しこみ、鬼に膝をつかせた。
互いの得物が火花を散らし、ギャリギャリと耳障りな音をたてた。とうとうトウキチが泣き出した。争いの音をかき消そうとでもするように、慟哭した。ユキノジョウの奥歯が砕けた。彼は決然と言った。
「……わたしは行かぬ」
項垂れたトウキチが顔を上げた。
ヒエモンは煩わしげに鼻のシワを深くした。
「託されたから……いや」
ユキノジョウは叫んだ。
「はらからだからだ! 無二の同胞だからだ! わたしはここで、この子とともに、生きてゆくッ!」
「なに……ィ!?」
メキと〈スノーダンプ〉が音をたて、一瞬おし返された。力が熱となって吹き荒び、降りしきる雪を蒸発せしめた。辺りに水蒸気がたゆたった。
「ぬ、ッ、ぐぅア!」
しかし、ユキノジョウの隆起した筋肉は今や赤紫に染まっていた。額に浮きでた青筋などは、パンと音をたてて血をしぶいた。すでに限界であった。
ヒエモンはそれを見てとり、動揺に勝利の手応えを上書きした。そして今度こそ〈スコップ〉をへし折らんと、半歩踏みこんだ。トウキチが絶叫した。
「やめてくれエエエエエ!」
無論、ヒエモンはそれを歯牙にもかけない。張りつめた力を前に押しだし、今度こそ打ち負かした――はずだった。
「は?」
ところがその瞬間、膝をついたのはヒエモンのほうだった。背中から血がしぶき、〈スノーダンプ〉は宙を舞っていた。一拍おくれて広場の壁、村を囲った雪山の一端に、飛来した〈スコップ〉が突き刺さった。
ヒエモンは愕然と目を剝きながら、それが飛来してきた方角へきりきりと首をめぐらせた。
「なッ、お前、なぜなのだ、カキノスケ……ェ」
視線の先に、カキノスケがいた。ちょうど投擲姿勢を解いたところだった。かれは蒼褪めた顔を俯けると、ふらついた足取りで歩き出した。やがてヒエモンの前に立って、恐るおそる見下ろした。そして、なにかを悟ったかのように、あるいは何も理解していないかのように首を振った。
「……申し訳ございません、ヒエモン殿」
「なにを、している、カキノスケ」
「勇気が、なかったのです。あれ以上、人を傷つける勇気が」
「ふざけるなァ!」
ヒエモンは激昂した。唇がめくれ上がり、どこからかせり上がってきた血が飛んだ。
「つねづね意志の弱い奴だとは思っていた。だが、まさか土壇場で……この己に刃を向けるなど、あり得ぬ。あってはならぬ。いまさら、鬼に恐れをなしたというのか」
「はい……恐ろしゅうございました」
「この腰抜けが、ァ……!」
カキノスケは詰られるばかりであった。反駁の言葉はいっさい口にせず、ただ項垂れ、怯えに怯えた眼差しで、ヒエモンを見下ろしていた。それがますますヒエモンを苛立たせた。怒りのあまり続く言葉が出てこない。すると、おずおずとした調子で、カキノスケが口を開いた。
「……ヒエモン殿。違ったのです。ユキノジョウ殿では、なかった」
「何がだ」
「鬼ですよ。〈雪除けの鬼〉は、俺たちの方だったのです」
ヒエモンは凝然と弟子を見返した。一瞬、カキノスケが何を言っているのか理解できなかった。次の瞬間、怒りが爆発した。
「この、阿呆がッ!」
「そうです! 俺たちは阿呆です!」
カキノスケは吼え返してきた。ヒエモンは、相手の気迫に気圧され、思わず押し黙ってしまった。鬼に恐れをなした莫迦弟子に、よもやこのような真似ができようとは思ってもみなかったのだ。
カキノスケは震える拳を、ゆっくりと胸の前にあてがった。嚙みしめた唇から血が流れていた。呻くような声がした。
「……一方の幸福のために、もう一方を不幸にするなど間違っている。本当はもっと前からわかっていた。なのに俺は目を逸らし続け、挙句の果てに、ここまで来てしまった。しかしトウキチ殿の叫びで、ようやく気付かされました」
カキノスケは泣きじゃくるトウキチを一瞥し、ヒエモンの前に屈みこんだ。そして、その胸にそっと手をあてた。
「ヒエモン殿は感じぬのですか?」
「……」
ヒエモンは黙したまま、カキノスケを見返した。
すすり泣きが聞こえてくると、ふたりはユキノジョウたちに目をやった。カキノスケがトウキチに申し訳なさそうな目を向けた一方で、ヒエモンの視線はユキノジョウに注がれた。鬼の目が潤んでいた。慈しみに細められていた。数多の命を屠ってきた手が、少年の背中をさすっていた。
ヒエモンは我知らず、そこに自分と姪の姿を重ねた。初めてあの子を抱きしめた時のことを思い出した。
彼女を引き取ることに決まった時、面倒なことになったと思ったのだ。子どもの扱いも、女への配慮もヒエモンは知らない。馴染みがあるのは〈スコップ〉だけだ。ヒエモンは根っからの寒窺であって、それ以外の何者でもなかった。
いざ同じ屋根の下で暮らすことになると、やはり子どもというのは煩わしいものだった。こちらの顔色ばかり窺い、そのくせ夜になるとすすり泣く。小さくて、弱いくせに、やせ我慢ばかりする。両親を殺されたばかりだというのに、礼儀正しく振る舞い、家のことは自分がやるなどと言う。どうしてもっと――あの子と相対していると胸の中が騒がしくてならなかった。
ところがある日、事件が起きた。
野暮用であの子が家を出た、ちょうどその時、屋根雪が滑り落ちてきたのである。
その時、とっさに体が動いた。ヒエモンは地を蹴っていた。一度も呼んだのことのない彼女の名を叫びながら。
両腕をいっぱいに拡げ、小さな娘に覆い被さった。ダダダダと鈍い音がした。背中に激痛が走った。膝が折れそうになった。歯を食いしばって耐えた。
やがて打ちつける雪が途絶えると、ヒエモンは血走った片眼で、己の影の中にすっぽり収まった小さな体を見下ろした。彼女が呆然と自分を見上げているのが分かると、心底ホッとした。
彼女の方も、それで助かったと理解したようだった。黒目がちな、まん丸な目が、見る見るうちに潤んでいった。かと思うと、火がついたように泣きだして、突然ヒエモンの太腿にしがみ付いてきた。
子どもの体は寒窺にも劣らぬほど
あれは、父親だ。
トウキチをあやすユキノジョウを見ながら、ヒエモンは思った。
あの時、あの瞬間、自分たちが血の通った人の親子となれたように、いまこの目に映っているのもまた人の親子以外の何者でもないと。
「……きれいごとで守れるものなど、たかが知れている」
「そうかもしれません。ですが、そのきれいごとで、あのふたりは救えたと思います」
ユキノジョウがトウキチを抱き上げた。
ヒエモンは親子から目を背け、雪のうえに胡坐をかいて座った。
「くだらん。国に残してきた者たちはどうなる?」
「これまでどおり力を尽くしてゆくしか……」
「つくづく愚かな奴だ、お前は。それではどうにもならぬから、斯様な地まで来たのではないか」
カキノスケは目を伏せた。この愚かな弟子がなにを思っているかは大方察しがついた。こいつは、まだまだ青いのだ。しかしこれ以上、責め立てる気力も失せていた。ふたりはしばらくの間、聞こえもしない雪の降る音に耳を傾けていた。
「……ならば、村の遺物を持って行くといい」
そこにユキノジョウが声をかけてきた。
思いもよらぬ提案に、カキノスケとヒエモンは顔を見合わせた。
「そんな、俺たちはあなた方を連れ去ろうとした。ここで首を刎ねられても文句は言えぬ身」
「何を言うか。カキノスケ殿は争いを止めてくれた。それに、わたしは復讐など望まない。ただ静かで穏やかな暮らしを送りたいだけなのだ」
「己たちを生かして穏やかな暮らしなど訪れるものか」
ふたりのやり取りに、ヒエモンは意地悪く水を差した。
「己たちが国に戻ったところで、新たな寒窺が送られてくるだけだ。己たちを生かす利などどこにもない」
「それでも信じたい」
ユキノジョウはきっぱりと言った。
ヒエモンは啞然として二の句を告げなくなった。
刃を向けた己たちを信じたいだと?
「私は過ちを犯した。あの時は何も信じられなかった。すべての者が敵に見えた。だが、かつては知っていたはずなのだ。この灰の色に翳った世にも眩い光があることを。私は今度こそ、それを信じ抜きたい」
ユキノジョウの目が、まっすぐにヒエモンを捉えた。
ヒエモンは挑むようにユキノジョウを見返した。
「……ハッ」
エチゼン国からの刺客は、嘲るように唇をひん曲げ、雪の上にどさりと寝転んだ。
「まったく甘い。どいつもこいつも阿呆ばかり」
ひらひらと舞い落ちる雪が見えた。ヒエモンはそっと目を瞑った。潰れたほうのまなじりに雪が沁みた。融けて頬を流れていった。
「……嗚呼、今日は一段と冷えるな」
「ええ、傷に沁みるようです」
隣でギュッと雪の潰れる音がした。カキノスケもその場に身を投げ出したようだった。
雪国人の末裔たちは、長い間そうしていた。
ゆっくりと朝がやって来て、やがて空に切れ目が生じた。
数十年ぶりの陽光が地上に降り注いだ。
束の間、雪が止んだ。
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