翌日、わたくしは9時少し前に玄関に向かって歩いていた。


 もちろん、傍らに高人さんはいない。毎朝高人さんは朝食が終わって身支度を整えた頃、計ったかのようにキッチリわたくしの部屋に現れるけれど、今朝はその襲撃もなかった。わたくしはそれが何となく信じられなくて、ソロリソロリと周囲を窺うようにして部屋を出てきたのだった。


 ──何だか、信じられない……


 今日は一日、高人さんが傍にいない。怯えることも、苦言を呈されることもない。


 ──……いいの、かしら?


 嬉しさの中に、一抹の不安と……少しだけモヤリとした感情が混じる。


 その正体が分からなくて、わたくしは足を止めるとプルプルと頭を振ってみた。


 ──せっかく かのこ と拓人さんが気を利かせて作ってくれたお休みなんだもの。楽しまなくちゃ損だわ。


「なのは様!」


 そんなことを思った瞬間、耳慣れた声が聞こえてきた。思わずビクリと肩を跳ね上げて顔を向けるけれど、そこにあった姿にすぐにホッと肩から力が抜ける。


「おっはよーございます、なのは様」


 広い三和土たたきに立っていたのは、私服姿の拓人さんだった。世間を知らないわたくしでもお洒落だなと思う服装に身を包んだ拓人さんはフワリと笑ってわたくしに手を振る。


「拓人さん。お待たせ致しました」

「いえいえ。今日は高人に代わって粗相のないように努めるんで、どうぞよろしくお願いします」

「ふふっ、拓人さんでも、そんな真面目なことを言う時があるのですね」

「いやぁ、昨日高人にえらくどやされたものですから」


 拓人さんはおどけるように答えるとわたくしへ片手を差し伸べてくれた。靴を履くわたくしへ手を貸してくれようとしているのだと気付いたわたくしは、頬が熱くなるのを感じながらその手を借りる。


「拓人さんが先に説得しておいてくれたのですね。昨日の夜、高人さんにこのことを話した時、あまりにもすんなり話を聞いてくれたから拍子抜けしてしまったんです」

「何とか説得できて良かったですよ。なのは様にああ言ったはいいがいざ高人から許可が降りませんでしたとかなったら、それこそ洒落になりませんからね」

「それだけ拓人さんは高人さんに信頼されているということですね」


 頬の熱さを隠したくて向けた話題だったけれど、今度は自分の言葉が自分の胸に刺さった。……自分はどれだけ高人さんからの信頼があるのだろうかと考えた瞬間、常日頃から高人さんに向けられる冷たい眼差しを思い出してしまったから。


 その痛みを押し隠したくて、そっと拓人さんから手を離す。そんなわたくしに気付かない拓人さんは笑顔のまま玄関の扉を開いた。


「さて、今日の行き先はもう決められましたか? 車の手配は……」

「あ、待って、拓人さん! 車は使わないんです!」

「はい? 近場でしたか?」

「いいえ。今日わたくしが行きたいのは寺ヶ崎なのですが……」


 その言葉に拓人さんがいぶかしげに眉をひそめる。そういう表情を浮かべると高人さんにそっくりだ。普段は正反対に見える高人さんと拓人さんだけど、こういうところを見ると『双子なんだなぁ』と感じる。


 ……と。そんなことを思っている場合ではなくて。


「同級生達は、寺ヶ崎まで電車で行くのだと聞きました。ここからだとバスと電車を乗り継いでいくことになるということも、昨日調べたので知っています」


 行きたい場所の候補をいくつか考えた時、ふと思ったことがあった。気付いたら、やってみたいと思っていた。


 こんなにワクワクした気持ちを抱くのは、本当に久しぶりで。


 だからわたくしは、いつもは俯けていることが多い顔を上げて、勇気を振り絞って思いを口にする。


「拓人さん、バスと電車の乗り方、知ってらっしゃいますか?」

「え……、はい、まぁ……。自分の用事の時は、華宮の車は使いませんから、それなりに使っていますが……」

「では本日、それをわたくしにも教えていただけないでしょうか?」


 わたくしはキュッと両手で拳を握って、本日最初の要望を口に出した。


「わたくし、『普通の女の子』のように、バスと電車を使って寺ヶ崎まで行ってみたいのです!」




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