──こういう可能性があるんじゃないかとは思っていたけど、動くのちょっと早すぎじゃない?


「あぁら成金さん、お目覚めでして?」


 体育倉庫、と一言で片付けてしまうには広すぎる倉庫の中、体育マットの上に転がされた私の前に仁王立ちしているのは、入学式の時に因縁をつけてきたあの女子生徒だった。


 そんな彼女の後ろにはいかにもガラが悪そうなガタイのいい男達がひしめていて、なぜかその中には私の仮ガードを務めていたはずである鷹羽まで混じっている。


「……どっかの差し金だろうとは思っていたけど、の差し金だったのね」

「嬉しかったでしょう? この数日、わ・た・し・の・樂にガードしてもらえて」


 隣に立った鷹羽に女子生徒はしなだれかかるように腕を絡めた。そんな女子生徒の様子がまんざらでもない雰囲気で鷹羽も女子生徒の腰を引き寄せる。


「イジメも、その他の危険も、全部事前に排される生活なんて、初めてだったでしょ? ……まぁその代償は、今から払ってもらうんだけどね」

「あんた、私に『現在フリーの』って説明してこなかったっけ?」

「在籍している間はフリーでいるようにって、桂子けいこ様のご命令なんだよね。こーゆー時にこーゆー役目をこなす人間、必要でしょ?」


 ニコリと、相変わらず人好きのする笑顔で鷹羽は私に笑いかけてくる。


 一樹が病院に緊急搬送されて今日で3日目。1週間絶対安静を言いつけられて登校できなくなった一樹の代わりに、私はこの鷹羽をガードとして使っていた。


 鷹羽の仕事ぶりは確かに完璧で、私はかつてないほど快適な学園生活を送っていた。


 終始目を光らせている鷹羽がいてくれたおかげでクラスメイト達が私をイジメる隙はなかったし、授業中以外は鷹羽がずっと傍にいたことが牽制になったのか、そもそも私に近付こうとする人間がいなかった。それでも降りかかる災難はすべて鷹羽が払っていて、思わず私は『本来ボディーガードってこういうものなのか』と感心してしまったくらいだ。


 だけど私は、一樹の自宅療養が終わったら、即刻鷹羽との契約は破棄しようと、この3日間ずっと考えていた。


「あんたの主は、『こーゆー時にこーゆー役目をこなす人間』が常に必要なきな臭い人間、ってわけね」

「ちなみにここにいる全員、桂子様の『こーゆー時にこーゆー役目』を果たすために付けられたボディーガードだよ。……ま、普段は『構成員』って名前でお屋敷に詰めてることの方が多いんだけどね」


 ……だって鷹羽の傍は、快適ではあるかもしれないけど、上手く呼吸ができない。


 息が苦しくて、自分のタイミングで自分の呼吸ができない。まるで『従者のための主』という役割を演じさせられているような気がして……守られるべき主とはこうあるべき、みたいなものを押し付けられているような気がして仕方がなかった。


 ──一樹が傍にいてくれる時は、こんな息苦しさ、感じたことがなかったのに……


「……名家は名家でも、そっちの筋のおうちということね……っ!!」


 もしかしたら鷹羽は、そんな私の不信感や警戒心といったものを感じ取っていたから、私の懐に完全に入り込むよりも一樹が確実に復帰してこれない時期を狙って事を仕掛けたのかもしれない。私も私で鷹羽に対するガードがちょっと緩んでいた。いくらあれだけ完璧に仕事をこなすからって、『昼休みくらい人気の少ない場所で気を張らずにご飯にしたら?』なんて言葉に乗って、鷹羽と二人きりみたいな状況を、自分から作り出しちゃうなんて……っ!!


西園寺さいおんじの名前を知らないなんて。これだから成り上がりは無教養で困るのよ」


 会話が成り立っている間は時間が稼げるかもと思いながら後ろ手に縛られた手を色々いじってみているんだけど……やっぱりダメだ。結束バンドみたいなやつで両手の親指同士を固定されちゃってる。これが一番外しにくいって分かってる辺り、やっぱりこいつらのプロだ……っ!!


「……地元の名家を謳っていながら、実態はただのヤクザっていうおうちってことでしょ? それくらいのこと、私にだって分かるわよっ!!」


 こうなる前、鷹羽に腹に一発入れられた瞬間に何とかスマホの緊急信号だけは発信できたはずだけど、肝心のそのスマホも手元にある感触がない。そもそも緊急信号が送れていたとしても、今の一樹は……


「チッ! ほんっと、クチの減らない女ね」


 何とか自力で抜け出さなきゃと思っていたのに、常の負けん気が抑えきれない反論のせいで、己の優位に浸っていた女子生徒の堪忍袋の緒をぶった切ってしまったらしい。


 表情を歪めた女子生徒は顎をしゃくって従えた男達に指示を出す。背後に控えていた男達は『待ってました』と言わんばかりにニヤつきながら前へ出てきた。


「私にインネン付けた落とし前、あんたの身体で払ってよ」


 集団になってやってくる男達の雰囲気から何をしようとしているのか察した私は、思わずマットの上をジリッと後ずさった。集団の中にはご丁寧にハンディカメラを回している人間までいる。私の視線の動きで私がそのことに気付いたことを悟ったのか、女子生徒は陰湿な笑みを浮かべて私のことを見下ろした。


「こっちの顔が映るようなヘマすんじゃないよ。この女がられてよがってる姿だけキッチリ撮んな」

「お嬢さん、同じオンナたぁ思えねぇような発言だなぁ、オイ」

「本当に、っちまっていいんすか」

「構やしないよ」


 サラリと美しい黒髪を払って、女子生徒は鷹羽によく似た笑みを浮かべた。


「もう二度と私にあんなことできないように……何なら世間様に顔も見せられないように、徹底的に壊しておかなきゃ」


 ──逃げ、なきゃ


 そう思うのに、体はガタガタ震えるだけで全然いうことを聞いてくれない。いつもの強気な自分も全然出てきてくれない。下卑た笑みを浮かべてわざとゆっくり寄ってくる男達の前でこんな姿をさらしてちゃ余計に相手の加虐心を刺激するだけだって分かってるのに、相手を睨み付けることさえ今の私にはできない。


 ──一樹。


 頭が真っ白になる。


 その瞬間零れたのは、いつも頼りにならないと思っているはずの、いつも一番傍にいてくれる彼の名前だった。


 ──助けてよ、一樹。


 何も考えられない頭が、ただただその言葉を繰り返す。


 男達の手が、私の体に伸びる。思わず目をつぶったら、堪えきれない涙がこぼれたのが分かった。


「一樹……っ!!」


 私のかすれた悲鳴は、一体誰に届いたのだろう。


 少なくとも私には、けたたましく響いた破壊音と男達の汚い悲鳴のせいで自分の声は聞こえなかった。


「な……」

「何なんだテメェはっ!!」

「……ここにうちの嬢さんがいんだろ」


 だけど、次いで響いたドスの効いた低い声は、確かに私の耳に届いた。


 聞き慣れないのにどこか懐かしいと感じる声。その声に導かれるように、私は恐る恐る目を開ける。


「いんだろって訊いてんだよ」


 入口を蹴破った足を静かに下ろしてから、その人物は革靴の踵を鳴らしながら中へ入ってきた。


 肩に担ぐように構えているのは抜身の日本刀。身長に対して長すぎる刃を構えたその人物は、色素の薄い瞳に剣呑な表情を乗せて周囲を一瞥する。


「……一樹」


 雨宮のボディーガードを示すお仕着せのスーツに身を包んだ一樹が、そこに立っていた。


 ……そう、間違いなく、一樹、なんだけど………


「ほん、とに……一樹………?」


 立つだけで周囲を圧倒するプレッシャー。


 ピリピリと刺すような殺気。


 私にとっては見飽きたぐらいおなじみのダークスーツ。髪型も、もちろん顔立ちも、何一つとして普段の一樹から変わってはいない。


 だけど私が知っている『可愛い一樹』は、そこにはいなかった。


「瑞葉様」


 それでも私の声に反応した一樹は、視線を滑らせて私を見つけるとニコリといつものように笑った。


 その瞬間、私の知っている『一樹』がそこに生まれる。


「瑞葉様、これは全部夢だよ。新学期の緊張から見ちゃった、つかの間の悪夢だ」


 その笑顔を見た瞬間、私の全身から力が抜けた。今まで必死にこらえていた涙がボロボロと勝手に零れていく。


「だから、少しの間だけ、目をつむって眠っていて。次に目を覚ましたら、瑞葉様を傷つけようとした男達も、因縁を吹っかけてくる女も……」


 涙で視界が歪むのに、距離が離れているのに、なぜか一樹が切なく笑ったのが、分かった。


「可愛くないも、みんな夢の中に消えているから」

「……何ぼさっとしてんのよ」


 その笑みが、ひどく私の胸を騒がせる。


 だけどその意味を考えるよりも、女子生徒が低く舌打ちを放つ方が早かった。


「来たのは使えないガードが一人だけだ。とっとと畳んじまいなっ!!」


 女子生徒の一喝に我に返った男達が一斉に一樹に飛び掛かる。


「一樹……っ!!」


 思わず前に出ようと体が動く。だけど後ろ手に縛られてマットに転がされた私に何かができるわけでもない。


「かず……っ!!」

「ガッ!!」

「ゴッ!!」

「ウガッ!!」


 喉に絡みついた悲鳴が呼吸を奪う。


 だけどそんな私の耳を突いたのは男達のくぐもった悲鳴の方で、一樹一人に寄ってたかって攻撃していたはずである人垣は一瞬で崩れていた。


「…え……?」


 鉄パイプにチェーン、短刀に、銃器を手にしていた人間もいたはず。体付きだって、どいつもこいつも岩みたいに大きい。


 そんな人垣を、あの一樹が、日本刀を片手に悠然と切り抜けていた。


「……うそ」


 面白いくらい簡単に人垣を蹴散らした一樹は、抜身の日本刀を携えたまま真っ直ぐに私へ突っ走ってくる。最初はその特攻を止めようとしていた男達も仲間が一瞬で蹴散らされる様を見てすぐに敗走に転じた。


「ちょっ……ちょっとあんた達……っ!!」


 逃げ遅れた女子生徒が顔色を失ったまま悲鳴のような声を上げる。それを私の前に立ちはだかる最後の壁と判断したのか、一樹は女子生徒に向けて容赦なく刃を振るった。


 その一閃がガキンッという鈍い音とともに止められる。


「っ……!! 随分と綺麗に牙を隠してたもんだね……っ!!」


 女子生徒の前に割り込み、特殊警棒で刃を受け止めていたのは、鷹羽だった。鷹羽にかばわれた女子生徒は、腰が抜けたのかそのままヘナヘナと座り込む。


「もしかして、10年前、雨宮で起きた誘拐事件を解決したのって、君だったりする?」


 感情のない瞳で鷹羽を見上げた一樹は、無言で日本刀を押す腕に力を込めた。


 ……ウソ。あの鷹羽が、力で一樹に押されてる……


「……あんた、俺を病院送りにした時、わざと瑞葉の足を払って階段から落としたな?」


 小さな頼りない体のどこにそんな力があるのか、一樹はさらに力を込めると鷹羽の態勢を押し崩す。たまらず鷹羽が特殊警棒で日本刀を払うと、すかさず切っ先は鷹羽の喉元に向けられた。息を詰めた鷹羽が体を硬直させる前で、一樹の瞳が殺気にきらめく。


「俺をダシに、瑞葉の心を傷付けたな?」


 その言葉に、私は息を呑んだ。


 私の知らない一樹がそこにいたからじゃない。一樹の圧倒的な強さに恐怖したからでもない。


 一樹が、何にここまで怒っているのか、分かったから。


「……事実だとしたら、それが何? 俺は俺の主の命令を実行しただけだ、よっ!!」


 一瞬、一樹の殺気に圧倒されていた鷹羽は、即座に圧を払い落すと一樹の日本刀を払いのける。そのまま一樹の手に向かって振り下ろされた特殊警棒は日本刀を一樹の手から叩き落とす。攻撃が入ったことに安堵したのか、鷹羽の口元に笑みが浮いた。


「俺は、瑞葉に害を成す存在のすべてが許せない」


 だがその笑みがすぐに強張る。


 拳を固めた一樹がスルリと鷹羽の懐に入り込む。鮮やかに鳩尾に一撃を入れた一樹は無駄のない動作で鷹羽を投げ飛ばすと、鷹羽の鳩尾に膝を入れる形で鷹羽にのしかかった。ガハッと鷹羽がむせ込んだ時には、一樹の手が鷹羽の喉にかかっている。


「だから、消えろよ」

「っ……やっぱり君が、『雨宮の狂犬』か……っ!!」


 ──だから、消えろよ。


 ──『雨宮の狂犬』


 その言葉に、フラッシュバックする光景があった。


 あれは、まだ私が小学生だった頃。


 私は一度、組織的な誘拐にあった。


 相手は父の敵対会社に雇われたきな臭い組織で、かなり荒事に慣れていたと思う。


 そんな組織に誘拐された私の元まで単身で乗り込んできて、相手に壊滅的な被害を与えたのが、当時から私のガードに付けられていた一樹だった。


『だから、消えろよ』


 今と同じように、今以上に身の丈に合わない日本刀を振り回して、今と同じセリフを主犯に叩き付けていた。そんな一樹に向かって、恐怖に身を震わせながら組織の人間が叫んでいた言葉が『雨宮の狂犬』だった。主に害を成す存在は、片っ端からかみ殺す、狂気と暴力に満たされた忠犬だと。


 このドスの効いた声に聴き覚えがあるはずだ。成長して声が低く変わっても、声に乗る殺意はあの時と変わらない。


 ──どうして私は、忘れていたんだろう。一樹の本性がだってこと。


「……いいのかい? そんな怖~い本性、さらけ出しちゃって」


 一樹に喉を締め上げられながら、鷹羽が苦しげに声を上げる。


「あのヘドが出るような可愛い子ぶりは、全部その本性を隠すための演技だったんだろ? 主を、怖がらせないために」


 その言葉に、一瞬、確かに一樹が反応した。思わず私もハッと顔を跳ね上げる。


「どうせ10年前のあの時にでも怖がられて、それがあんたのトラウマになっちまったんだろ? ……ほら、主があんたのこと見てんぞ? いーのかよ、こんなことしてて……」


 鷹羽の言葉にスッと一樹が目を細める。


 表面上の変化はたったそれだけだったけど、喉を締め上げる手の力が緩んだのが傍から見ている私にも分かった。


「一樹っ!!」


 実際に絞められている鷹羽がそのことに気付かないはずがない。一樹の動揺に気付いた鷹羽が口元にうっすらと笑みを浮かべる。


 それが目に入った瞬間、私は考えるよりも早く声を上げていた。


「一樹っ!! 私、もう怖くないからっ!!」


 私の言葉にハッと一樹が振り返る。


 その表情の中にすがるような、何かに脅えているような色を見つけた私は、瞳に力を込めて真っ直ぐに一樹を見つめた。


「力に脅えて一樹の心が分からなくなるような子供じゃないからっ!!」


 ──こわいカズキなんてキライッ!!


 10年前のあの時、助けに来てくれた一樹に対して私が上げた第一声がそれだった。


 だって、どうしようもなく怖かったんだ。いつも傍にいてくれる、口調はちょっと荒かったけど私に対してはすごく優しかった、私と歳の違わない一樹が、私をやすやすと力で押さえつけていたたくさんの大人達を、簡単に退けて恐怖させたのが。急に一樹が知らない人になったみたいで、一樹が手にしていた日本刀も、一樹が負った怪我も、頬を染めていた返り血も、何もかもが怖かった。


 ……あの時、私に手を差し伸べようとしていた一樹が、私の言葉にどれだけ傷付いた顔をしていたのか、今なら思い出すことができる。


 だけど未知の恐怖にグチャグチャになってしまった私は高熱を出して寝込み、次に目覚めた時にはそのグチャグチャを丸ごと忘れ去っていた。それに合わせるかのように一樹も私が求めるまま『私を怖がらせない可愛い一樹』を作り出し、今まで合わせてきてくれた。


『瑞葉様、これは全部夢だよ。新学期の緊張から見ちゃった、つかの間の悪夢だ』


 ──トラウマになったのは一樹の方じゃない。私の方。


 一樹はそんな私に『目を閉じていていい』と言ってくれた。


 目を閉じて、見えないフリをしていれば、これは悪夢のまま終わる。怖い一樹は夢の中に消えて、可愛くて頼りがいのない一樹だけが残る。


 でも。


 ……そんな風に甘えて一樹の心を見れない自分なんて、もうイヤだっ!!


「全部、見届けるから。一樹」

「瑞葉……」


 無理矢理浮かべた、だけど力強い笑みは、きっと私の心を一樹に届けてくれたはず。


 その証拠に、反撃に転じた鷹羽を一樹は軽くいなすと今度こそしっかり仕留めた。……首筋に手刀での攻撃だから、命までは仕留めていないと思うんだけども。


 ほっと息をついた私の前で一樹はスッと立ち上がると耳に入れたインカムに指をかけた。『主犯確保。主も一緒に……』とか『残党処理を……』なんて言葉を低く呟いている間に、一樹が蹴破った扉からわらわらとスーツ姿のガード達がなだれ込んでくる。それが見慣れた雨宮のガード達だと気付いた私は、最後まで肩に残っていた力を抜くと、私に半身を向けて立つ一樹のことを見上げた。


「……一樹」


 声を、上げる。


 思っていた以上に緊張していたのか、声は酷くかすれていて聴き取り辛かったと思う。


 それでも、一樹の耳には届いたはずだ。だって、私の方を頑なに見ようとしない一樹の肩が、わずかに跳ねたのが分かったから。


 ……そうだよね。こっちが本性なら、普段どれだけキャラ作ってたんだよって話だし。どんな顔をして、どの口調で私と話せばいいかなんて、分かんないよね。それは、私も一緒だよ、一樹。


 でも……でもね。


 普段素直になれない分まで素直に言っちゃうなら……今は、誰よりも一樹に、私の一番傍にいてもらいたいんだ。


 だから、呼ぶよ。一樹のこと。


 ふわふわ可愛い一樹を守れるような私じゃなくても、みっともなくかすれた声しか上げられない私でも。


「ねぇ、助けてよ、一樹」


 二回目の声は、さっきよりもずっとマシに聞こえた。


『助けてよ』という言葉が効いたのか、一樹は弾かれたように私の方を振り返る。その顔には情けないくらい動揺が浮かんでいて、普段の可愛い一樹でも、今の本性の一樹でもない表情で、私は思わず笑ってしまった。


「結束バンドみたいなので、後ろで親指同士が縛られてるみたいなの。どうにか解いてくれない?」


 私の言葉と笑顔に毒気を抜かれたのか、一樹は取り落した日本刀を拾い上げると恐る恐る私へ近寄った。だけど決して私には触れず、一歩分の距離を残してクルリと後ろへ回る。


「……動かない、でね」


 緊張した声が響くのと同時に、親指にかかっていた拘束がフッと消える。


 やっと自由になった手を胸の前でこすり合わせていると、日本刀が鞘に納まる微かな音が後ろで響いた。そっと背後を振り返ると、一樹は私から視線を逸らしたまま距離を取ろうとする。


「一樹」


 だから私は、強い口調で一樹を引き留めた。ビクリと体を震わせた一樹は、さっきも見せたすがるような、何かに脅えるような表情をもう一度私に向ける。


 ……何よ、さっき言ったじゃない。もう怖いからって目を閉じて、自分に都合のいい夢ばかり見ている子供でいるつもりはないの。


「ん」


 だけどこの心をどう伝えたらいいか分からなかったから、私は短く声を上げながら両腕を広げて一樹の方へ差し伸べた。私の行動が予想外だったのか、一樹はどうしたらいいのか分からないという顔で私のことを見つめ返す。


「腰が抜けちゃってるみたいなの。今日はもう帰る。車まで運んで」


 本当は、無理をすれば自力で歩けないこともないんだろうけども。


 雨宮製薬の一人娘として、本当はそうやって誇り高くあらねばならないんだろうけど。


 でも、一樹は、私が弱みを見せてもいい、唯一の相手だから。


「……失礼します」


 ……でもさすがにこの体格差で抱き上げてもらうのは無理かも、なんて思った瞬間、私の体はいとも簡単にフワリと浮き上がっていた。


 腰と膝裏に一樹の腕が回された、いわゆるお姫様だっこ。こんなに小柄なのに私を支える腕はすごく力強くて、思わず一樹の首に腕を回せば、これ以上安心な場所はないと、体が勝手に安堵の息をつく。


「……無事で、良かった」


 低く呟かれた声に、私の胸の深い場所が掴まれたようにキュッと甘く痛む。その痛みに応えるかのように、私を抱き上げる一樹の腕にも力がこもった。


「……もう、傍を離れたりしねぇから」


 その言葉に私は、言葉では答えなかった。


 ただギュッと、一樹に回した腕に精一杯の力を込めたのだった。





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