私が父の強い勧めで入学したのは、名家や事業家の令息令嬢……つまりお金持ちのお坊ちゃん・お嬢ちゃん達が通う学校、私立春篠はるしの学園。


 他の有名学校と春篠学園の一番の違いは、令息令嬢のボディーガードについてる人間が通う専用のクラスがあるということだ。


『ボディーガードが学校?』なんて思うかもしれないけど、複数のガードを子供につけれるような裕福な家は、どんなシチュエーションでもより自然にガードを固められるように、そして我が子の長い人生をともに歩んでくれる友に育ってくれるようにと、即戦力にならなくても歳の近い人間をガードにつけることが結構ある。令息令嬢達が学生の頃にちょうど自身も学生であるガード達が少なからずいるってこと。


 ガード達はどうしても生活の流れが守るべき令息令嬢中心になってしまう。だけど彼らだって、彼らの人生を歩く主人公だ。彼らの人生まで主達のものであるわけじゃない。


 そんな彼らの人生をより豊かに、より良質なものとするために、彼らに十分な教養とボディーガードとして必要なスキルを叩き込もうという思想の下に創設されたのが『ボディーガード専科』……通称『Gクラス』と呼ばれるクラスだ。


 だからこの学園には、守られるべき主達と、守るべきガード達、二種類の人間が存在している。


 ──と言っても、制服が一緒だし、パッと見ただけじゃどこのクラス所属かなんて、よく分からないのよねぇ……


 非常階段の踊り場の手すりに肘をあずけてグランドを眺めていた私は、紙パックのリンゴジュースをすすりながらそんなことを考えていた。


 どうやら今グランドを使っているのは、一年生のGクラスの面々らしい。ピョコピョコと揺れる栗色のあの頭は、間違いなく一樹だからすぐに分かる。遠目に見ると女の子にしか見えない小さくて華奢な体で、歳のわりにガタイがいい男達と一緒に長距離走を走っているせいなのか、一樹は集団から離れた一番後ろを必死にヨレヨレと走っていた。


 ──一樹、イジメられてないよね? ……多分何も泣き言言ってなかったし、大丈夫だとは思うんだけど……


 身長約155センチ。『ショタ男子』という言葉がピッタリな可愛い顔立ち。全体的に色素は薄めで、白い肌に栗色の髪と瞳。ふわっふわの柔らかい髪をしていて、性格も同じく柔らかい。気弱で、緊張しいで、二人でいるとどっちがどっちを守っているのか分からなくなる時がある。


 頼りない、としか言いようがないのに、父は昔からどんな時でも私のガードには一樹を推した。何度換えてくれと言っても『歳が近いガードは一樹しかいないから』と聞いてなんてもらえなかった。歳の近さだけで一樹を推すなら、もっと頼りがいのある歳の近いガードを雇えばいいだけなのに。おかげで頼りない一樹を守るために、私自身がこんなにたくましく成長してしまった。


「……バレてない、よね?」


 ──私がクラスメイト達に、イジメられてること。


 小さく呟いて、そっとスカートの裾を揺らす。体育の授業で脱いでいた間に切り裂かれていたスカートは、次の授業をすっぽかして繕ったおかげですっかり元の姿を取り戻していた。『縁あって自分の所に来てくれた品物は、たとえ量販店で売っているありふれた物であっても大事に扱いなさい』って、徹底的に繕い物を始めとしたお裁縫を叩き込んでくれたおばあちゃんに感謝しなきゃ、だね。


「……イジメ、ねぇ………。こんな有名私立校でもあるんだなぁ……」


 普通校に通っていた中学時代にも、イジメられたことはあった。ちょっと有名な家に生まれれば、誰にでもあることだと思う。


 だからこの学校に入ってからずっと続いている軽いイジメも、全然気にすることはなかった。それが普通だと思ったから。


 この程度のことなんて、平然と顔を上げ続けていれば、その内相手の方が反応がないことに飽きてイジメるのをやめてしまう。中学の時だってそうだった。イジメの波が過ぎれば、友達だって普通にできる。中学を卒業する頃には友達に囲まれて楽しい学生生活を送っていた私が言うんだから間違いない。


 だから、ここでだって、私は平気。


 こんな小さなことで一樹の手を煩わせる必要なんか……あの一樹の、お人好しで、ふわふわ柔らかく笑う顔を、陰らせる必要なんて、ない。


「……私の幼馴染でさえ、なかったら」


 気弱で、優しくて、緊張しいで、『ボディーガード』って言葉から漂う荒っぽい雰囲気にはおおよそ似つかない一樹。


 ほんっと、ボディーガード、向いてないと思う。それなのに私のせいで、問答無用でGクラスに入学するハメになって。……きっとこれからだって一樹の人生は、『雨宮瑞葉』に縛られ続けるのだろう。


 ……私さえ、いなければ。


「一樹の代わりになる、ボディーガードがいれば……」


 一樹の人生を、一樹のものだけにしてあげられるのに……


「自分のボディーガードに、不満があるみたいだね?」

「っ!?」


 不意に、すぐ耳元から声が響いた。


 思わず拳に握った腕を後ろにフルスイングしながら声の主から距離を取ろうともがく。


 だけどその瞬間、ふわっと足元が浮いて、体が宙に投げ出されていた。


「───っ!!」

「おっと」


 振り返った瞬間に背中が手すりから乗り出して落ちかけたのだと分かった時には、すぐ真後ろに立っていた男に……いきなり声をかけてきた張本人に、手首を取られて踊り場の中へ引き戻されていた。トンッと引き寄せられた胸板は制服の上からでも分厚いとよく分かる。何か武道を納めた……それこそ『ボディーガード』と呼ぶのにふさわしい体つきって、きっとこんな感じだと思う。


「ははっ! いきなり裏拳かましてくるなんて、さっすが雨宮のお嬢さんだ。思っていた以上だよ!」

「は……はぁ?」

「おっと、自己紹介がまだだったね」


 調子よく自分のペースで話し始めた男は、私の手を取ったままニコリと親しみやすく笑った。


 その時になってようやく私は、相手が私よりも背が高い、精悍な顔立ちの男だったのだと認識する。この学校の制服を着ているから、多分彼もここの生徒なのだろう。


「俺は鷹羽たかばがく。2年に在籍してる現在フリーのボディーガード。守っちゃいたい主さん募集中!」

「は? ……フリーの、ボディーガード?」

「そ! この学校には、まだ主さんを持たないガード候補生や、主さんと一緒に入学したものの、在籍中に主さんが他のガードに浮気しちゃってクビを切られたガードがあぶれてるんだ。ここは、そんなガード達の、いわば就活戦線でもあるんだよ」

「就活……」

「ここで主に見出されて生涯に及ぶ主従の誓いを立てるガードもいるし、ここの成績や在学中の実績で世界の富豪に引き抜かれていくガードもいる。……ま、捨てられていくやつらも、それ以上にいるわけだけどね」

「……それで? あんたはその軽すぎる口のせいで主に捨てられたクチじゃないの?」

「わーぉ、辛辣ぅ。でもキライじゃなぁ~い」


 掴まれたままの腕を振り払ってやると、男……鷹羽はヒラヒラと両手を振っておどけてみせた。全然、私の言葉にへこんだ様子はない。


 それでも私はキッと鷹羽を睨み付けた。


 逃げる素振りも、弱気な所も見せちゃいけない。私が弱さを見せていい相手なんて、どこにもいない。弱さは、見せた瞬間から付け込まれて傷になるんだから。


「何が目的? 営業なら間に合ってるわ。私、ボディーガードは必要以上に付けられて、逆に困ってるくらいなの」

「確かに、雨宮製薬の一人娘だもんねー。不自由なんてしてないかー」


 そう口ではうそぶきながらも、鷹羽は全く引く様子を見せてこない。


 何が目的かと思いながらも、私はスカートに忍ばせたスマホをいつでも起動させれるように手を回す。


 私に渡されているスマホは、緊急時にアクションひとつで一樹に繋がる。このまま鷹羽がしつこく迫ってきて一人で切り抜けられないなら、仕方がないし呼んだ所でどうにかなるかも分からないけど、一樹を呼ぶしか私には手段が……


「だからさ、学校にいる間だけ、俺のこと使ってみない?」


 そう考えていたはずなのに、鷹羽の言葉にピクリと私の手が動きを止めた。


 止めて、しまった。


「お嬢さん、自分のガードに不満があるんでしょ? お試しでさ、気分転換に一時的に俺を使ってみない?」

「……は? いきなり素性も分からないような人間を、学校にいる時限定とはいえガードに使うなんて……」

「いいと思うんだけどなー。専任のガードの方も、ちょっと息抜きできるしぃ?」


 ──ダメだ、これ以上、コイツの言葉を聞いちゃいけない。スキを見せちゃいけない。


 そう自分に必死に言い聞かせるのに、瞳に込めた力が勝手に緩んでしまう。


 私の反応に手ごたえを感じたのか、鷹羽は人好きのする笑みをさらに深めた。


「同じガードだから言えるんだけど……俺達の自由時間って、すっごく貴重なんだ。俺はお試しで使ってもらえる。相手はちょっとだけ自由な時間がもらえる。お互いWIN・WINな関係になれると思うんだけどな」


 ……ボディーガードなんて、性格的に向いてない一樹。


 私の幼馴染だったばっかりに、向かない役割を振られてしまった一樹。


 そんな一樹を、自由にしてあげられる?


『雨宮瑞葉』という存在から、一時いっときとはいえ、解放してあげられる?


「これね、俺の去年の成績」


 いつの間にかうつむいてしまっていた私の視界に、ペラリと紙が差し出された。反射的に受け取ると、そこには『A』『A+』という文字ばかりがズラリと並んでいる。


「ね? お嬢さんを守るのに、実力的にも不足はないでしょ? ……あんな頼りない子よりも、確実にお嬢さん……瑞葉ちゃんを、守れるよ?」


 その言葉に私は思わず顔を跳ね上げた。


 その瞬間、スッと鷹羽の顔から表情が消える。


「主の危機を守ることもできず、主がイジメられてこんな目に遭ってることにさえ気付けないガードなんて……、傍に置いてる意味、ある?」


 ──鷹羽の言っていることは正しい。何なら、常日頃、私も思っている。


 だけど。


「……帰ってちょうだい」


 私は手渡された成績表を鷹羽の胸に叩き付けると、強く鷹羽を睨み付けた。


「一樹のことを……私の一番傍にいてくれる人のことを悪く言う人間は、傍に置きたくない」


 瞳にも、胸板を叩いた手にもかなり力を込めたのに、鷹羽は少しも下がらなかった。表情がかき消えた瞳には冷たささえ感じる。


 その瞳に、なぜか背筋がゾッと粟立った。同時に脳裏に、なぜかあの栗毛のふわふわした頭がよぎる。


 ──どうしてこういう時に傍にいてくれないのよ一樹……っ!!


「瑞葉様っ!!」


 勝手な八つ当たりだって、分かっていた。


 それなのに、なぜか私の心の声が聞こえたかのように、『当たり前』のようにその声は響いた。


「瑞葉様っ、こんな所で何してるの? まだ授業中じゃ……」

「一樹……、どうして、ここが………」

「グランドから見えてたから。一人だった時は大丈夫かと思ってたんだけど、見覚えのない男が現れたから、様子だけでもうかがっときたくて……」


 非常階段を下から駆け上がってきた一樹は、軽く肩を弾ませながらひとつ下の踊り場で足を止めていた。長距離走であれだけヘロヘロになっていたくせに、3階まで階段を駆け上がってきてくれたらしい。


 普段全然役に立たないくせに、『こういう時はこうあって当たり前』みたいな顔をする一樹に、なぜかジワリと涙腺が緩んだ気がした。


「もう、話は終わったわ」

「あ。……じゃあ僕、お邪魔だった?」

「……ううん」


 しゅん、と小さくなる一樹に、苦笑がこぼれる。あまりにもその姿が、普段通りの一樹だったから。


 鷹羽の感情のない瞳に射すくめられてから全身を凍り付かせていた寒気は、一樹が来てくれたと分かった瞬間にどこかへ消えていた。


「もう、昼休みだからさ。たまには一緒に、お弁当食べようよ。今日、お母さんがお弁当作ってくれたんだけど、量が多くて。良かったら一樹も……」

「待ってよ」


 鷹羽を無視して非常階段を降りようとしたら、手を取られて無理矢理足を止められた。


「話はまだ……」

「しつこいっ!!」


 私はその手を再び振り払う。今度は確実に振り払えるように全力を込めた。


「その話は……っ!!」


 だけど、それがいけなかった。


っ!!」


 フワリと足が階段から離れる。いつになく鋭い一樹の声が響いたと思った時には、体中に衝撃が走っていた。温かくて強い力に抱き込まれたまま何回か体を叩き付けられ、一際強い衝撃とともに落下が止まる。


 ……何が、起きたの? 体、ガクガクして止まらない……


「みず、は……」


 ギュッと固く目を閉じていた私は、すぐ耳元から聞こえた声に弾かれたように目を開けた。


 だけ私の視界は真っ暗なまま。


 一樹が私の頭と体を抱き込んで、己の体を使って衝撃から庇ってくれたのだと分かったのは、耳元で私以外の心臓の音が酷く鮮明に聞こえたからだった。


「大丈、夫……?」


 ハッと我に返って体を起こすと、腕は勝手に解けた。


 目を瞬かせればすぐ目の前には錆びたフェンスに体を預ける一樹。私達は、ひとつ下の踊り場に、もつれるようにして転がっていた。


「か、ずき……」


 出てきた声は、みっともないくらい震えていた。それなのに一樹は、ほっとしたようにいつも通りの柔らかい笑みを浮かべる。そんな一樹の頭から、パタリ、ポタリ、と真っ赤な雫が滴った。


「良か、……った」


 そのままふっと一樹の意識が遠のく。グラリと揺れた体が倒れて、ジワリジワリと深紅の水溜りが一樹から広がっていく。


「かずき、かず、き……一樹っ!! ………イヤァァァァァアアアアアアアアッ!!」


 ……階段から落ちた私を、とっさに駆け込んできた一樹が身を挺して庇ってくれた。


 私がそれを理解したのは、一樹が病院に緊急搬送された後、現場を見ていた鷹羽に声をかけられてからだった。





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