そんな生活が始まって数ヶ月。あたしの頭痛の種はずっと消えないままだ。比喩表現じゃなくて、本当にずっと頭が痛い。


 ──頭痛薬も鎮痛剤も効かない頭痛って、ほんとなんなの?


 ついにあたしの頭さえあたしの言うことを聞いてくれなくなったのかと思いながら、あたしは購買で買ったサンドイッチの袋を開けた。本当は食欲なんてないけど、食べなきゃ薬は飲めない。胃が荒れちゃって余計に気分が悪くなるから。


 本当はご飯なんて食べてる場合じゃないって分かってる。昼休みの間にパパの会社で午前中に起きたことを把握して、雛罌粟ひなげしと電話して、少しでも書類を片付けておかないといけないのに。


 学校が終わった後のあたしには、モデル業の仕事も降ってくる。中々会社に顔を出せず、仕事の処理速度も遅いあたしに役員さん達だけではなく、一般の社員さん達も不満を募らせていることは分かっていた。


 ──モデルの方も、これ以上は仕事減らせないって言われちゃってるしな……


 パンの袋を摘んだ指先が荒れていた。目元にはうっすらクマができていることも知っている。肌も荒れ気味だって分かっていた。


 こんなの、モデル失格だ。この間の撮影の時にこっぴどくスタイリストさんにも叱られた。


 良くないって分かってる。でも、じゃあどうすればいいのかも分からない。


 無理だって言ってるのに、誰も話を聞いてくれない。放り出してしまったら、たくさんの人に迷惑がかかる。協力してって言葉も無視された。


 頑張ったら頑張っただけ報われる、なんて、嘘っぱちだ。


 それが本当であるならば、あたしの頑張りは『頑張ってない』って判定されてることになってしまう。


「……っ」


 ジワリと目元に熱が集まったような気がしたあたしは、キッと手の中のサンドイッチを睨み付けると大きく口を開いた。


 仮にもモデルがすることじゃないって分かってるけど、こうでもしなけりゃやってらんない……っ!


「カヤちーん! こんなトコいたー!」


 ……って思った瞬間、一番遭遇したくない人間に見つかってしまった。


「ワォ! こんな所で、何かワイルド!」


 屋上へ続くドアの前。誰も来ない踊り場に座り込んで、今まさに大口でサンドイッチに食らいつこうとしているあたし。


 どう考えても天下の『KaYAya☆カヤヤ』がさらしていい姿じゃないのに、それをよりにもよって深海ふかみに目撃されちゃうなんて……!


「てか、昼メシそれだけ? 腹すかない?」

「ほっといてよっ! 食欲ないんだから……っ!!」

「ええぇ〜、マジぃ? だいじょぶ?」

「ちょっ……!! 近付いてこないでよ余計に調子が……っ!!」


 全力で拒絶しているのに、やっぱり深海も話を聞かない。


 ズカズカと近付いてくる深海に対してあたしができることは、鍵が閉まっていて開くことがないドアに体を必死に寄せて、少しでも深海から体を遠ざけることだけだ。それだってあっという間に意味のないことにされてしまう。


「ほい」


 あたしの目の前まで足を進めてきた深海を視界に入れたくなくて、あたしはギュッと目を閉じる。


 その瞬間、なぜだかフワリと全身を温かい物に包まれた。


「……え?」


 意味が分からず目を開けると、いつの間にか私の肩にはブランケットがかけられていた。訳が分からず視線を床に這わせれば、いつの間にかそこには座布団みたいなクッションが置かれている。


「体冷やすと食欲もなくなるから、まずは体を外から保温」


 いつも通り軽やかな口調のまま、でもチャラついてはいない言葉で、深海は何でもないことみたいに説明をしつつ、敷かれた座布団の前にドカッと腰を降ろすとあぐらを組んだ。


 ちょっ、ここ、ホコリだらけだから、あたしだって直には座らずしゃがみ込んでただけだったんですけど……


「んで、今度は体の中から温める」


 そんなこと一切気にしていない深海は、今度は体の影から小さなトートバッグみたいな鞄を取り出した。その中からスープジャーを取り出した深海は、キュキュッといい音をさせながらパカリと蓋を開く。


 その瞬間フワリと、お味噌とお出汁だしのいいにおいが広がった。


「ほい」

「え?」

「食べてみ? 体の中からあったまるから」

「は? 何であんたが……っ!」


『差し出してくる物を食べなきゃいけないのよ!』と続くはずだった言葉は、途中で力なく途切れてしまった。


 キュルルッと、お腹が鳴ったから。ここ最近、空腹なんて全然感じなくて、今だって胃が荒れる気持ち悪さしかなかったはずのお腹が、フワリと広がった優しい香りに現金にも空腹を主張している。


「っっっ……!!」


 苛立ちと恥ずかしさに顔が熱くなる。深海に聞かれていたら、絶対いつもみたいにうるさくからかわれる……っ!!


 あたしは反射的にキッと深海を睨み付ける。だけど深海はさっきから変わらずスープジャーを差し出しているだけだった。あたしの視線に『ん?』と首を傾げるだけで、からかいの言葉は何も飛んでこない。


 ──もしかして、聞こえなかった?


 その反応に毒気を抜かれてしまったあたしは、無意識のうちにスープジャーへ手を伸ばしていた。そんなあたしの手の中から器用にサンドイッチを抜き取った深海は、その代わりと言わんばかりにあたしの手にスープジャーを乗せてくれる。体を深海の方へ乗り出したせいで、自然と目の前に敷かれた座布団の上に正座する形になっていた。


「あっついから、気を付けてね」


 あたしの手がきちんとスープジャーの重さを支えられたことを確認してから深海の手は離れていった。次いで差し出された反対側の手からお箸を渡されたあたしは、手に伝わる熱さに驚きながらそっとスープジャーの中をのぞき込む。


「豚汁?」

「そ。生姜と豚肉とたっぷりお野菜。ダシを効かせて減塩対策もバッチリ!」


『どうぞ召し上がれ?』という言葉よりも先に、あたしは吸い寄せられるようにスープジャーに口をつけていた。


 その瞬間、熱とともに優しい味が口一杯に広がる。


「……美味しい」


 あたしは料理に詳しくないけど、それでもお出汁が効いた中に、豚肉と野菜の旨みが溶け出ているのが分かった。そこにピリリと生姜の辛さが加わって、体の奥からブワリと熱が広がってくる。


 私は考えるよりも早く箸を構えると具材を口に運んでいた。


 芯まで熱が通って甘くなった人参。噛み締めるよりも早くホロリと崩れていく大根。ゴボウと豚肉は独特の食感がそれぞれ残っていて、里芋は食べやすいようにカットされていてもねっとりと歯にまとわりつく。それがまた、ビックリするくらい美味しい。


 ──美味しい……美味しい……


 こんな風に何かを『美味しい』なんて思ったの、いつぶりだろう? 最近は帰るのが遅くて、家政婦さんが作ってくれてる夕飯も冷めきったやつをレンチンして食べてたから……


「カーヤちん」


 広がる熱と美味しさに、さっきやり過ごしたはずの涙がまた込み上げてくるのが分かった。


 それを押えるのに必死になってたから、なのだろう。


 普段ならば無視できた声に、あたしは無意識のうちに顔を上げていた。


 そんなあたしの口の中に、何かがムニッと突っ込まれる。反射的にそれを拒絶しないで噛み締めてしまったのは、きっと豚汁を食べてる途中だったからだ。断じて胃袋を掴まれたからなんかじゃない。


「こっちも食べてみ?」


 言われずともモゴモゴと突っ込まれた物を噛み締めてからハッと我に返る。その時には口に突っ込まれた物が綺麗に巻かれた卵焼きで、その出処が深海の手の中にあるお弁当だということに理解が追いついていた。


「卵焼きって、お弁当の定番って感じっしょ? 栄養価も高いし、彩りにもなるよね」


 左手でお弁当箱を抱えて右手に構えた箸をカチカチと鳴らした深海は心底嬉しそうに笑っていた。何か……あたしが、必死に食べてるのが、嬉しい……みたいな、顔。


「ど? 食べれそ?」


 チャラ男が浮かべるいつになく優しい笑みに見惚れていたあたしは、深海の言葉にもう一度ハッと我に返った。


 そんなあたしの内心がどこまで分かっているのか、深海は箸の先をカチカチ鳴らし続けながら自分勝手に言葉を続ける。


「てか、カヤちんはこれ食べるしか選択肢ないんだけどねぇ!」

「はぁっ!? あたしのサンドイッチは……!?」

「ゴッメーン! 俺、気分がサンドイッチだったからうっかりかじっちゃった!」

「バッ!? なっ、何勝手に……っ!!」

「食欲なかったってことはさー、カヤちんも別にサンドイッチが食いたくて買ったわけじゃなかったんっしょ? だったらこっちの弁当でもいいじゃんね?」


 封を開けただけで一口も食べてなかったわけだから、交換しただけって言われたら、確かに全然問題はないわけだけど!


 で、でもでも! 何を勝手に……っ!!


「弁当箱とスープジャー回収してきたいからさぁー、カヤちんが食べ終わるまで俺もここにいるねっ! 一緒にランチってことで!」

「はぁっ!? あたし、食べながら仕事しようって……っ!!」

「『ながら食べ』なんて行儀が悪ぅ。いーけないんだっ、いけないんだっ!」

「うっ、うるっさいのよ、あんたっ!」


 気付いた時にはあたしが座る座布団の前に小さな折りたたみラックがテーブル代わりに置かれていて、その上に彩りも豊かなお弁当が乗せられていた。その美味しさを知ってしまったあたしは、考えるよりも早くお弁当へ箸を伸ばしてしまう。


 確かに、購買で買った安物のサンドイッチよりも、こっちのお弁当の方が断然美味しいけど……っ!


「ぜーんぶキッチリ食べてよね。俺、見張ってるから」


 あたしからせしめたサンドイッチを見せつけるようにかじりながら、深海はチャラッチャラに笑う。


 その笑い方が! 信頼できないっつってんのよっ!!


 あたしは緑も鮮やかに茹で上げられたブロッコリーを噛み締めながら深海を睨み付ける。


 こんなヤツが傍にいるから頭痛が治まらない……って、言えれば良かったんだけども。


 ──え? あれ?


 お弁当箱が半分空いた時には、あれだけ毎日あたしを苦しめていた頭痛が綺麗に消えていた。


 それが深海によってもたらされたお弁当のお陰だと信じたくないあたしは、昼休み中ずっと深海を睨み付けていた。

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