肆
『寺ヶ崎』というのは、この辺りで一番繁華な町のこと。
海辺に近くて、遊園地やショッピングモール、大きなプールが隣接している複合アミューズメントパークと呼ばれるものであるらしい。ショッピングモールは街に模されて造られていて、その様子はさながら遊園地の中に町があるようなのだとか。
……ということがどうでも良くなるくらい、寺ヶ崎に到着したわたくしは疲れ切っていた。
「お疲れさまでした、なのは様。正直、どこで無理矢理車に切り替えさせようかと、ヒヤヒヤしていましたよ」
「……最後までお付き合いいただいて、ありがとう、ござい……ました………」
駅にほど近いカフェテラスでクッタリと座り込んでしまったわたくしの前に、飲み物を調達してきてくれた拓人さんが戻ってきた。目の前に差し出された飲み物に口をつければ、キリッと冷えたレモンティーが喉を潤してくれる。
「知りませんでした……。満員電車って、あんなに大変な乗り物だったのですね……」
「まだ今日は空いていたくらいですよ。日曜日の朝ともなれば、寺ヶ崎目当ての乗客でもっとすし詰めです」
「えっ!?」
信じられない言葉に思わず顔を跳ね上げれば、拓人さんはケロッとした顔をしていた。誇張や冗談の類ではなく、驚くこともない事実であるようだ。
そのことにわたくしはちょっと顔が熱くなる。わたくしは、本当に世間を知らないのだと、痛感してしまった。
「でも、『電車は混む乗り物だ』と分かっていらっしゃった なのは様は、正直言って偉いと思いますよ? 今日の服装も、動きやすさを考えてのことなのでしょう?」
そんなわたくしに気付いたのか、拓人さんは柔らかな声で言葉をかけてくれた。
知らず知らずレモンティーに向けてしまっていた視線を拓人さんに向け直せば、拓人さんは声と同じくらい柔らかな表情を向けてくれている。
「なのは様のそういう服装、初めてお目にかかりましたから」
「あ……」
気付いてくれていたのだと、今度は別の意味で頬が熱くなった。
「かのこ に、借りたのです」
今日のわたくしの服装は、私服では初めてのパンツスタイルだった。足元はかかとのないペタンコの靴で、これも私生活では初めて履く。
制服を除けば、わたくしが持っている服は膝下丈のワンピースか着物くらいしかない。どう考えても寺ヶ崎に出向くには不向きだとさすがにわたくしも分かっていたから、服装に関しては昨日の内に かのこ に相談を持ちかけていた。わたくしと違って世間の流行にも聡い かのこ は快くわたくしの相談に乗ってくれて、服や鞄、靴まで気前よく貸してくれた。背格好が似ていて本当に助かったと、かのこ には本当に感謝している。
……している、けれど。
「あ、あの……おかしくは、ありませんか………?」
かのこ を信じてこの格好をしてきたけれど、足のラインが出てしまうパンツスタイルはどうしても落ち着かない。
だって、こんな『イマドキの普通の女の子』な格好なんて、初めてなんだもの。自分に似合っているのかなんて分からないし、その上お洒落な拓人さんの隣にいていいのかなんて、もっと分からない。
動きやすいことは動きやすいけれど、でも、もっと他に何かあったんじゃ……
「おかしくなんて、ありませんよ」
頬の熱が頭にまで登って、ジワリと目元が潤む。
だけどその熱は、すぐに温かな声に散らされた。
「よく、似合っておいでです」
視線を上げれば、柔らかく微笑む拓人さんがいる。
だけど、なぜか、……なぜか………
──……あ、れ? どうして………
眼鏡のない目元。
髪の色は違うけれど、瞳の色は同じクロモジの実みたいな黒。
春の草花がほころぶような柔らかな表情なんて見たこともないはずなのに、どうしてだか、目の前の拓人さんが高人さんに重なって仕方がない。
──どうして。わたくしは、高人さんが、怖くて、息苦しくて……仕方がない、はずなのに……
高人さんが傍にいない時間は、わたくしにとって
なのに、なのに……
──どうしてわたくしはこんなに、高人さんのことを、思い抱いているのでしょうか……?
「それに、そういう格好ならば、パッと見ただけではただの女子高生ですから。良からぬ輩に目を付けられることもないでしょう。目的通り、好きな場所に好きなだけに行けますよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
かろうじてか細い声でお礼を伝えてレモンティーに口をつける。
ニコリと笑顔で言葉を受けた拓人さんは少し気遣わし気に眉をひそめた。
「しばらくここで休憩されますか? 遊園地に入るなら、休憩されている間にチケットの手配をしてまいりますが……」
「あ、だっ、大丈夫です! それに、遊園地には入らないつもりで……!!」
その言葉に意識を引き戻されたわたくしは慌てて口を開いた。
「お買い物を、したいのです」
「お買い物、ですか?」
「はい。かのこ と、
寺ヶ崎の遊園地の話は同級生達に聞かないわけじゃないけれど、まだわたくしにはハードルが高すぎる。
だから今日はショッピングエリアを散策しながらお買い物をしたいと思っていた。遊園地のエリアに入るには別にチケットが必要だけれど、ショッピングエリアだけならば特に入場券は必要ないし、ゆったり『普通』を体感するには適していると思う。
「俺にも、ですか?」
その考えを伝えようとしたら、驚いたように拓人さんが呟いていた。きょとっと開かれた目が丸くなっている。普段実年齢よりも大人びて見える拓人さんがそんな表情をすると、一気に雰囲気が幼くなった。
そんな拓人さんに、わたくしは思わず笑み崩れる。
「はい。たくさんご迷惑お掛けしましたし、きっと今日一日、これからも掛け通しになると思いますから。何か欲しい物がありましたら、ぜひ教えてください」
わたくしは『普通の買い物』というものをしたことがなかった。幼い頃から必要な物があれば周囲が手配してくれたし、欲しい物は『買う』のではなく『望む』ものだった。
だから今日は、普通に『買い物』というものをしてみたいと思っていた。使う機会もないのに折に触れてお父様はお小遣いをくださるから、個人所有の現金はいくらか持っているし、いざとなれば家族カードというクレジットカードの持ち合わせもある。……どちらも使い方は分からないから、拓人さんに教えてもらわないといけないのだけれど。
そんな決意とともに気合を入れる。
そんなわたくしの前で拓人さんはなぜか口元を片手で覆って明後日の方へ顔をそらした。
「? 拓人さん?」
「あ、いえ、これは……」
「?」
疑問に思って声をかけても、もにょもにょとよく聞き取れない声しか上がらない。思わず小首を傾げると、拓人さんは軽く咳払いをして席から立ち上がった。
「そろそろ参りましょうか。気分も良くなられたようですし」
そしてごく自然にわたくしの方へ手を差し伸べる。
そんな拓人さんの頬がかすかに赤くなっているような気がして、わたくしは思わず顔をほころばせてしまった。
「はい。引き続き、宜しくお願い致します」
その言葉と共に手を預けると、拓人さんはまた一層、彼岸花のように顔を赤くしたのだった。
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