ダンッ!! という鋭い音に、わたくしは思わず目を瞠った。


 音の大きさにではない。割って入った人の身のこなしが、あまりにも見慣れたものだったから。


 拓人さんが納めている武道は空手で、高人さんが納めている武道は合気道。二人とも幼い頃から『武道』と呼ばれる類は一通りやってみて、一番自分に合った武道を選んだという話は聞いている。


 かのこ と二人、高人さんと拓人さんが鍛錬に励むところをひっそりと見学しに行ったことがあるけれど、やっぱり納める道の違いがあるからか、二人の動きは違ったものなのだとわたくしが見ても分かった。『生け花が得意なわたくしと、フラワーアレンジメントが得意な かのこ に似ているのかもしれないわね』と かのこ に話したら、きっとそうだと かのこ も手を叩いて同意してくれたことを覚えている。


 相手の勢いを利用して、必要最小限の動きで男を軽々と投げ飛ばした彼の動きは、合気道の動きだった。常にわたくしの傍にいる付き人は、よりシャープで最大効率を求めた動きを武道でも徹底しているように思える。


「なのは様……っ!!」


 それなのに、わたくしの方を振り返った彼には、氷に似た表情はどこにもなくて。ただ真っ直ぐにわたくしを案じていた表情は、倒れず踏み止まったわたくしの姿を見るとあからさまにホッと安堵したものに変わる。


 ──なんで。なんで、そんな、いつもと違う……


 彼のものとは思えない表情。でも、拓人さんは、こんな顔をわたくしには向けない。


 こういう表情をわたくしに向けてくれるのは、昔から決まって高人さんだった。


 ──……そう、昔、から。


 昔から、厳しい表情をしていることが多くて、最近はそういう表情しか向けてくれなくて。そんな表情以外、もう忘れてしまったと……、それ以外の表情なんて向けてくれたことなんてないのだと、思い込んでしまっていたけれど……


 でも、こんな風に、わたくしの安全に安堵する時があるのだと知っているから。わたくしが心の底から欲する望みを汲んでくれると知っているから。


 そして……


「なのは様、お怪我は……」


 わたくしの無事を確認した彼が、ふんわりと、すごく柔らかな笑みを浮かべる。春の日差しを柔らかく紡いだような、ネコヤナギの花穂のような笑みを。


 ──あ。


 その表情に触れた瞬間、脳裏によみがえった記憶があった。


 お父様の隣に並んで座った、初春の応接間。


 大輪の牡丹が飾られた床の間と、緊張した面持ちで座っていた彼。


 わたくしも緊張していたけれど、だけど、これからを任せる彼と仲良くなりたくて、勇気を振り絞って、手にした物を差し出した。


『これから、宜しくお願い致します、


 彼が何かを言うよりも早く唇を開いたわたくしに、彼は驚いたように目を瞠った。


 そして、わたくしが差し出した物を受け取ってくれて、それで……──


『……ありがとう、ございます………』


 笑って、くれたのだ。


 ネコヤナギみたいに、ふんわりと。


 ……そう、わたくしは、彼がそういう風に笑ってくれる人だと知っているから。


 だから、嫌いになんか、なれなくて。怖くても、逃げ出したくなっても、……また、いつか、あんな風に、笑いかけてほしくて。


 だから、だから、わたくしは……──


「……高人さん?」


 無意識の内に唇が動いていた。声は出ていなかったはずなのに、まるでその声が聞こえたかのように彼の表情が強張る。


 そこでやっとわたくしははっと我に返った。


 ──高人さん、の、はず、だけど……。だったらどうして高人さんはわざわざ拓人さんの格好を? どうしてわたくしを止めなかったの? わざわざ拓人さんのように振る舞って……。昨日、このことを提案してきたのは間違いなく拓人さんだった。……え? ならば、どうして……


 混乱してしまって言葉が出ない。彼も、わたくしの声なき呟きに動きを止めてしまった。


 どうにか、どうにかしてこの場を動かさないと……


 そう思った瞬間、彼の後ろでユラリと影が動く。その影が振り上げた手の中にギラリと光る物があるのを見たわたくしは、全てをかなぐり捨てて絶叫していた。


っ!!」


 わたくしの叫びに我に返った高人さんが体を反転させる。だけど、僅かに間に合わない。影が振りかざした刃が高人さんの左胸に向かって振り下ろされる。


「────────────ッ!!」


 今度こそわたくしは声にならない悲鳴を上げた。目の前で起きたことの衝撃が受け止めきれず、一瞬意識が遠くなる。


「──ッ!!」


 そのまま気絶しないで済んだのは、次いで響いた無音の気合に周囲の空気が叱咤されたからだった。


 唐突に現れた男の腕を取ってねじり上げた高人さんは、男が取り落したナイフを蹴って遠ざける。そのままさらに腕を絞るとゴキンッという鈍い音が響いて男の肩が不自然な角度に歪んだ。汚い悲鳴を上げる男の膝裏に高人さんが蹴りを入れれば、男は抵抗できないまま石畳に崩れ落ちる。先に投げ飛ばされていた男の上に折り重なって倒れた男は、低い声でうめき声をあげているものの、もう抵抗はできないようだった。


「どなたか、警察と警備に連絡を!」


 あっさり襲撃者を地に沈めたは冷静な声で周囲に呼び掛けた。悲鳴を上げかけていた周囲はその一言で緊張を緩める。ざわざわと不穏な揺らめきは消えないけれど、パニックが起きそうだった緊張はすぐに霧散した。


「たっ……高人さん……っ!!」


 わたくしも震える足を叱咤して、高人さんへ近付く。


 そんなわたくしの前で、不意に高人さんがかがみ込んだ。長い指が伸ばされる先へ視線を向けると、見覚えのある小物が落ちている。


 ──パスケース……?


 石畳の上に落ちていたパスケースは、無残に切り裂かれてはいるものの、中に入っていたICカードが盾になったのか、真っ二つになるまでには至らなかったようだった。だけどもう、普段使いとして持ち歩くことは難しそうな破損具合だ。


 そんなパスケースを優しく取り上げた高人さんは、軽くはたいて埃を払うと次いで自分の左胸に視線を落とした。ソフトジャケットの左胸にあったポケットの生地が破れていることを確認した高人さんは小さく嘆息を零したようだった。


 ──パスケースが入っていたポケットにナイフが当たったから、高人さんは助かったの……?


 必死に動かそうとしていた足を止めてポカンと高人さんを見上げる。そんな高人さんが手の中でパスケースを裏返した瞬間、今度こそわたくしは息を止めた。


 あれは。わたくしの見間違いなんかじゃなければ……


「すみませーん! 通してくださーいっ!!」


 無意識の内に伸びていた手は、不意に割り込んできた声に阻まれた。


 はっ、と声の方を見遣れば、制服を着込んだ警備員さんが人垣を縫ってこちらへ近付こうとしている所だった。その光景を見た高人さんはサッとパスケースをジャケットの内ポケットに入れるとわたくしと距離を詰めて傍らに寄り添うようにして立つ。


「申し訳ありません。引ったくり犯と大立ち回りをしたっていうのは……」

「私です」


 汗だくになってわたくし達の前に立つ警備員さんに答えた高人さんは、もうすっかり普段の高人さんになっていた。自分より一回りは年上だろう大人を相手に一歩も引くことなく受け答えをする高人さんは、いくら拓人さんの格好をしていてももう拓人さんとして見ることはできない。


「なるほど、経緯は分かりました。……できればそちらのお嬢さんにも、静かな場所で落ち着いてお話を伺いたいのですが。……そのぉ……被害者という立場ですし……」


 わたくしが一言も発することなく一通りの説明は終わってしまった。


 一瞬これでもう終わりかと安堵の息をつきかけたのだけれど、そんなにすんなりとは終わらせてくれないものらしい。


 確かに被害者はわたくしだ。警備員さんの発言は理に適っている。


 チラッと高人さんを見上げると、高人さんは絶対零度の視線で警備員さんを威嚇していたようだけれど、わたくしの視線に気付いて一瞬気遣わしげな表情がクロモジの瞳に浮いた。


 ──この瞳の前では、少しでも『華宮次期当主』にふさわしい姿でいたい。


 自然と、背筋が伸びたような気がした。


 だからわたくしは、毅然とした態度で高人さんに己の意志を告げる。


「お話をしてきますので、高人さんはどこかで休んで待っていてください」

「なのは様、それならば私も……」

「いいえ、一人で参ります。一緒だと、頼ってしまって、自分の言葉で話せないような気がしますから」


 思い切って告げると、高人さんは驚きに目を瞠ったようだった。だけどすぐにその瞳に苦しそうな色がよぎり、最後にはいつも通りの冷たい瞳がわたくしに向けられる。


 その瞳を緩く閉じて、高人さんは完璧な礼を見せた。


「行ってらっしゃいませ、なのは様」


 その声に軽く頷いて応えて、わたくしは警備員さんの誘導に従ったのだった。




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