学校は、昔から唯一、高人さんから逃れて普通に息ができる場所だった。たとえ通っている学校が同じでも、クラスと部活動が違えば、ほぼ一日中離れて行動することができる。


 私立春篠はるしの学園は名家の令息令嬢、そしてその令息令嬢に従う付き人……外の世界では『ボディーガード』と呼ばれる者達が通う学校。令息令嬢と付き人はそれぞれに応じたカリキュラムが用意されているから、必然的にわたくしと高人さんのクラスも分かれる。


 もっとも高人さんはわたくしの1学年上だから、どうあってもクラスが同じになることはないはずなのだけれど、華宮と藤波が揃って無茶を言えば、恐らく学年くらい無理矢理どうにかしてねじ込んでこられるはずだ。現にこの学校では主に合わせて自分の所属する学年を歪ませている付き人もいる。


「……ふぅ」


 だから、この学校に入学する時、先に入学していた高人さんがきちんと進級していたことに心から安堵した。部活動も華道部へ移籍することなくそのまま合気道部を続けると聞いた時は、安堵から腰が抜けそうになったくらいだった。今年度きちんと卒業するのか、はたまた学校が分かれることを懸念して三年生のままでいるつもりなのかは分からないけれど、とりあえず今年度までは学校にいれば顔を合わせなくて済む。


 ──でも、わたくしが高校を卒業したら、その先は分からない。


 ふとそんな思いが生まれて、わたくしは思わずもうひとつ溜め息をついた。


 ……わたくしは昔から、高人さんが怖かった。


 いつも完璧で、厳しくて、失敗している所も、気を抜いている所も……笑っている顔さえ、見たことがない。凛とした雰囲気はいつでも厳しく張り詰めていて、己の学業も、わたくしのガードも、藤波の家のことも、日々完璧に務め上げている。


 ──高人さんから見たら、わたくしは至らない所ばかりなのでしょうね。


 高人さんのような人が、きっと理想の『当主』なのだろう。あの姿に少しでも自分を近付けたいと、自分なりに頑張ってみたこともある。


 だけど……


「どーしたの? なのは様。そんな溜め息ばっかりついちゃって」

「っ!?」


 その瞬間、いきなり真横から響いた声にわたくしは文字通り飛び上がって驚いた。


 慌てて横を見れば煤竹に似た上品な茶色の髪がフワリと揺れる。


「た、拓人たくとさんっ!? どうしてここに……っ!?」

「やっほー、なのは様。お邪魔してます」


 顔の造形は高人さんと全く同じ。でも纏う雰囲気は対極。


 彼の名前は藤波拓人。


 高人さんの双子の弟で、わたくしの妹、かのこ の付き人だ。華宮と藤波が無茶を言って所属学年を歪ませた付き人とはまさしくこの人のことで、拓人さんはわたくしのひとつ上の学年なのに、かのこ に合わせて今は中等部の三年生に所属している。


 髪の色と眼鏡の有無と表情だけで人はここまで印象が変わるのかと見る人すべてに驚愕をもたらすその人は、わたくしの隣にしゃがみ込んだ態勢でヒラヒラと片手を振っていた。ヘニャリと締まらない表情は高人さんなら絶対に見せないような代物だ。


「今度、中等部の華道部と高等部の華道部で合同展示会があるじゃないですか? その打ち合わせに関する連絡をしに来たんですよ。かのこ様の名代っすね」

「ひっ、一言、入室前に声をかけてくれれば……っ!!」

「ってのは建前でして~」

「はい?」

「本件は、なのは様の状況偵察でしょうね」

「え?」

「お元気がないことを、かのこ様はいたく心配しておられたようですから。だから俺を派遣して、様子を探りたかったんでしょう」


 わたくしが取り落した青楓の枝を拾い上げながら、拓人さんは静かに呟いた。ペースを乱されてばかりのわたくしは、その言葉にとっさに内心を取り繕うことができない。


「どうなさりましたか? また高人が、厳しいことを言いましたか?」


 わたくしと違って、かのこ は拓人さんにベッタリだ。拓人さんも高人さんとは違って、主である かのこ が可愛くて仕方がないらしい。だから かのこ はよほどの事がない限り拓人さんを名代に派遣するようなことはしないし、拓人さんも かのこ の傍を離れようとはしない。


 ──わたくし、そんなに二人を心配させていたのかしら……


 わたくしの傍には常に高人さんがいる。わたくしから高人さんが離れるのは学校にいる間だけだ。かのこ とは家でも顔を合わせるけれど、きっとその時では駄目だと かのこ は思ったのだろう。


 だから『部活動の部長同士の連絡』ということにかこつけて、わざわざ学校にいる間に拓人さんを寄越してくれた。わたくしが高人さんとの関係で悩んでいるならば、一番親身になってくれるのは拓人さんだと思ったから。


「……厳しい、は、厳しい、けれど……」


 二人の優しさに触れて、心の奥底の冷たく縮こまっていた場所が、ふっと柔らかく解けたような気がした。


「高人さんが言うことは、正しいから」

「そうですか? 厳しすぎるのがいつも正しいとは思いませんが」

「いいえ。……将来一族を背負う者として、高人さんは理想の姿だと思います」


 わたくしは小さく首を振りながら活けていた花に向き直る。


 今日は、本来ならば華道部はお休み。だから部室にいるのはわたくしだけだった。華宮に出入りしている顔馴染みの生花店さんが『今度の展示会用にどうでしょうか』とまだ季節には早い青楓を特別に届けてくれたから、今度の展示会の感触を掴みたくて、先生にお願いして部室を開けてもらったのだ。


「わたくしは、高人さんが怖い。……だけど、嫌いでは、ないわ。高人さんみたいに、少しでもなれたらいいなと、どこかでは思っているの。……だけど」


 高さのある器に活けられた青楓。展示会の季節に似つかわしい、初夏の爽やかな風を思わせる花材だと思う。


 でもその姿は、どこか不自然だった。何だかギクシャクしていて、風通しが悪いような……青楓に、無理をさせていると、分かってしまう活け方で。


 ──まるで、不格好なわたくしのよう。


 そう思ったら、自嘲めいた笑みが口元に浮かんだ。


「……高人さんも、日々うんざりしていると思うわ。わたくしなんかの付き人で。……わたくしみたいな至らない人間が、次代の華宮当主で」


 もう少し、しゃんとできたら。


 どんな場面でも委縮することなく、堂々と振る舞えていたら。


 自分の心情に振り回されることなく、凛と美しくいられたら。


 そうしたら、もう少しだけ、高人さんも誇れるような主になれると思う。


 ……思っているのに行動できないから、余計にそんな自分が情けなく思えるのだけれど。


 そんな内心を、今だけと決めて吐露してから、わたくしは静かに息をついた。せっかく気を使ってくれた かのこ と拓人さんにこれ以上の心配はかけたくない。意識を切り替えるために一度瞬きをして、切り替えた心とともに瞼を開く。


「ごめんなさ……」

「よっし、なのは様、気分転換しに行きましょう!」


 だというのにその決意は、またもやマイペースな言葉に崩される。


「い……え? き、気分転換?」

「そーですよ、気分転換! 一直線にそのことばかり考え続けるから気分が滅入るんです。ここはパーッと遊んで気分転換しましょう!」


 拓人さんは明るく言い放つと元気よく立ち上がった。指に挟まれたままの青楓がクルクルと長い指にもてあそばれる。


「明日は土曜日! なのは様は一日お休みでしたよね?」

「え、ええ……」

「ちなみに高人も休みを申請しているのは知ってましたか?」


 わたくしの『休み』は学校のことだけれど、高人さんの『休み』は付き人としての『休み』だ。


 ……聞いていた、ような気がする。確か……


「藤波の家の用事と、聞いていたような……」

「そーなんですよ! 明日、付き人御三家でかたっ苦しい会議があって、高人はそれに出席するためになのは様の傍を離れるんです。その隙と言っちゃなんですが、普段高人がいる時では行けないような場所に出かけてみるっていうのはどうでしょう?」


 その言葉にわたくしは思わず大きく目を見開いた。


 高人さんは、わたくしが学校に行かない日でもわたくしの傍近くに控えていることが多い。付き人だから当然と言えば当然なのだけれど、そのせいでわたくしはどこかに出掛けようと思うと必ず高人さんに話を通さなければならなかった。高人さんから許可が出なければ出掛けることはできないし、許可が出ても高人さんが同伴になる可能性が高い。


 身を守るために必要な措置だとは分かっているし、『華宮令嬢たる御方がそのような場所にお出掛けになるのは』と言われてしまえば強く反発することもできない。だからわたくしは同年代の女の子達が気軽に出掛けていく場所にはとんと縁がなかった。


「で、でも……。そんな勝手が、後で高人さんに知られたら……」


 高人さんの目を気にせず、自分の行きたい場所に、行きたいように行く。それはとても魅力的なことに思える。


 だけど、わたくしにその日外出の予定がないことを念入りに確かめ、新たな予定が入らないように手配をし、前々から細かく調整をして休日を申請したのであろう高人さんのことを思うと、拓人さんの言葉に素直に頷くこともできなかった。高人さんのことだから、わたくしを心配するなんてことはないだろうけれど、冷徹に失望の溜め息をつかれるのは、ちょっと……ううん、かなり、心が痛む。


「大丈夫ですよ。高人が信頼できる付き人を手配して、その上で出掛けることを事前に高人に伝えておきますから」

「え?」

「高人が信頼できる同朋……、そうですね。その日一日だけ、俺が なのは様に従うっていうのはどうでしょう?」

「えっ、……えっ、だって、かのこは……っ!?」

「かのこ様から『一日だけなら拓人を貸してあげる』という伝言を賜わってます」


 青楓を弄ぶ指を止めた拓人さんはパチリと器用にウインクしてみせる。


「『明日一日拓人がいないなら、あたしは一日中寝倒して部屋から出ない予定だから安心して~』と言ってらっしゃいました。多分本気だと思うし、正当に寝倒す理由ができるから、かのこ様的にはウエルカムなんじゃないですかね?」

「えっ、だって明日、かのこ はお稽古の日じゃ……」

「かのこ様、運動神経は鈍くないはずなのに、日舞はてんでダメですからね。俺がいないのと、ついでに仮病なんかも合わせて使って、サボるつもりなんじゃないですかね?」

「それは……、……さすがに、いけないと思うわ」


 かのこがいかにも言いそうなことばかりで、思わずわたくしは額に手を置いて俯いてしまった。


 かのこ の明るくて人懐っこい人柄はとても愛嬌があると思う。わたくしも かのこ のことは大好きだ。でも、それとこれとは話が違うとも思う。


「まぁまぁ、それは冗談として。かのこ様が家から出ないのであれは、かのこ様は代打の付き人でも間に合うでしょう。桐谷きりや竹村たけむらに応援を頼むっていう手もあります」

「でも、それならわたくしの方にその応援を付けるということでも……」

「それだと高人が納得しませんよ」

「それは……」

「自由にお出掛け、したくないですか?」


 その言葉にうっ、と答えに詰まる。


 自由に……出掛けたい。高人さんの目もなく、高人さんのお小言もなく、……高人さんに怯えることも、なく。


「……出掛けたい、です」

「はーい! じゃあ決まりですね」


 拓人さんは軽く決めてしまうと手の中にあった青楓をフワリと花器へ投げ入れた。


「明日9時、玄関前でお待ちしてます。場所や時間を変更したかったら、高人に言付けてもらえれば伝わりますので」


 じゃ、失礼しまーす! と、拓人さんは軽やかに去っていった。鮮やかな去り際に思わず伸ばしかけた手は何も掴めず私の膝の上に戻ってくる。


 私はその手をそっと反対の手で包んで自分が向き合っていた花に視線を向けた。


 拓人さんが投げ入れていった青楓は、酷く自然体で花器の中の納まっていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る