キャクター論/物語論としても⭕

炎上中のVtuberの中の人(美少女)が、大学生である僕のところへやって来てこう言う。
「しばらく泊めてほしいんだけど」


押しかけ系ラブコメのフォーマット。
ははーん、これはあれだ。美少女が抱える問題を解決することで絆が深まっていくパターンだな。ジャンルとして今まさにしゃぶり尽くされようとしている流行りモノ、Vtuberを取りこんではいるけど結局はよくあるラブコメなんでしょ。
そう思う人もいるかもしれない。
だが、ちょっと待って欲しい。

この作品、冒頭からどうも妙なのだ。

語り手の僕は、ゴーストライターをしている。
他者の筆癖、言葉の選び方や語り口調を模倣し文章を綴る。
そこに個はない。依頼主の意図を膾炙させるための媒体でしかない。

現実には存在しないバーチャルな存在のはずのVtuberは、キャクターそのもののとして現実にあらわれその存在によって同一性を主張する。

リアルの存在である語り手が顔を持たず、虚構のキャクターであるはずのヒロインが現実に存在するという転倒。
それだけでも捻じれているが、さらにはヒロインは戸籍を持たず社会的に存在しないということになっているという。

陰謀論めいた安易な物語、炎上のネタとなった記事の内容は、本人によって否定される。
しかし、それを証明する術はなく宙ぶらりんに。


そうした転倒やあるいはメタネタ(第四の壁を破るシーンすらある)によって、キャクター/物語の所在は不明瞭となり、それこそVtuberさながられ実在と非実在の境界が曖昧にしながらもストーリーは展開していく。

全体の流れは読者の想像を大きく逸脱するものではない。
ベターハーフ、あるいは鏡像のような「きみとぼく」の関係性も、物語としての流れもよくあるものだ。

けれど、それはVtuber/キャラクターという存在について突き詰めた結果のように思える。
イマジナリーフレンド、AI/哲学的ゾンビ、分人、投影/投射、群集心理といった要素を飲みこむ流れはVtuberあってこそ。

大枠としてどこかで見たことのあるラブコメめいた展開となっていても、それはVtuberを、そのキャラクター性について掘り下げた先の、見せ方として辿りついたものなのではないだろうか。

いうなれば、それは車輪の再発明ならぬ、ラブコメの再発明。
車輪をわざわざゼロから作り上げるのはけして歓迎されるようなものではないかもしれない。
けれど、小説の、物語の世界においてはそうではない。
たとえ辿りついた答えが旧知のものではあっても、その過程において描かれるのは、まさしく「今」なのだから。

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