第18話
やや手前で二人は馬車を下りた。華やかなメリルボーン・ハイストリートの通りを挟んでシメオン・コリンズ写真館が見える。
いざ、出陣――
と、その時、信じられないことが起こった。
ヒューの優雅な黒いドレスのスカートにぶつかって来た何か。同色の黒い毬? いや違う、これは……
「おまえは、新月!?」
「ニャー……」
「嘘だろ?」
どこまで俺に付きまとったら気が済む? ヒューは舌打ちした。やはり、この猫は俺に
幸い、すぐ近くに公園が見えた。柵を巡らせた小道の先にアザレアの植え込みが続いて、更にその向こうにサヤサヤと涼し気な緑の梢が揺れている。この地域のちょっとした憩いの場らしい。
黒いレースの手袋を嵌めた指を伸ばして、ガッシと猫を掴むとヒューは駆け出した。
「あ、ヒュー……?」
「おまえはここで待ってろ、俺は
「それ、僕がやろうか?」
おずおずとエドガーが申し出る。
「君、猫が苦手だろ?」
「いや、いい、おまえじゃ無理だ。俺がやる。俺でなきゃ――」
「ヒュー?」
足に
「これから本番って大事な時に、もう邪魔されるのは御免だ!」
走りながらヒューは思い出した。
考えて見たら、これからって時にこいつは必ず俺の前に出現している。水車小屋……水晶宮……薬屋の地下室……そして、今日のシメオン・コリンズ写真館。ここは
おまえこそ、俺にとって悪魔そのものだ。これ以上、俺のやることを邪魔させるわけにはいかない。できるだけ遠い茂みの中に放り投げてやる!
「――――」
刹那、
待てよ、もっといい方法がある。おまえが嫌がること……
そうさ、俺は充分に付きまとわれて嫌な思いをしたんだ。俺には復讐する権利があると思わないか?
周囲を見回して、足を止める。近くには人影はない。
そっと足元の
「さあ、おいで新月。おまえに俺からいいものをくれてやろう」
そうだ。これで関わるのは最後だ。おまえはもう俺の前に出現できなくなる――
「来いよ、新月」
猫は動かなかった。金色の目でじっと、自分に話しかける人間を見つめている。
静かな声で、優しく、ヒューは呼びかけた。
「どうした? あれほど俺を追っかけ廻して膝に乗りたがったのに、何を躊躇している? おまえ、俺のこと好きなんだろう? だったら、来いよ」
ニヤァ……
「そうだ、もっと近づいて来い」
ニヤー…… …… ……
「ずいぶん時間がかかったね?」
公園の小道に現れたヒューの姿に気づいてエドガーは駆け寄った。
女の子の
(何だろう? このカンジ……)
戻って来たヒューには、何か、欠けた物がある。でも、それが何なのか、わからない。
唾を飲み込み、探るようにゆっくりとエドガーは尋ねた。
「ヒュー、君、よほど遠い処まで行って新月を放したんだね?」
「遠い処か。まぁ、ある意味当たってる」
ヒューはクックと乾いた声で笑った。
「これで二度とあいつは俺の傍にやって来ないだろうさ」
猫にあんな真似をして、流石に気が
あいつ、嫌に、従順だったな。ほとんど抵抗もしなかった。柔らかくてスベスベした毛並み、首に回した指の感触を思い出す――
だが、すばやく心を切り変えた。自分にはやるべき重要なことがある。一匹の猫の不幸など気にかけている暇はない。
「
「あ、それ、シェイクスピアの言葉だね?」
「残念、カエサル・シーザーだよ」
ヒュー・バードは帽子――いつもの
「さあ、俺たちのルビコン川を渡るぞ!」
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