第16話
「まぁ、ヒュー、どうしたの? 私、なにか忘れ物でもしたかしら?」
ヒューが訪ねたのは高級住宅街メイフェア地区にあるサマセット邸。姉アンジーの奉公先だ。勿論正門ではなく、裏口の方。使用人用の戸口に立って姉を呼び出して、言った。
「お願いがある。前に姉さんが見せてくれたお嬢様たちのポートレートをもう一度見せてほしいんだ。外へ持ち出したりはしない、今ここで見るだけだから、奥様に頼んで借り出してくれないかな?」
「いいけど……」
すぐに姉は持って来てくれた。ヒューは受け取って丹念に眺めた。
まず、表紙をそっと撫でる。それから中を開いて、写真が貼ってある頁を凝視する。
とはいえ、さほど長い時間ではなかった。そっと閉じると姉に返した。
「ありがとう。奥様にも御礼を言っておいてくれ。じゃ」
「え? これでもういいの?」
首を傾げる姉を残してさっさと大豪邸を後にした。
「これだけ? もういいの?」
後を追いながらアンジーと同じセリフを吐くエドガーだった。
「次に行くところがある。汽車に乗るぞ」
今は未だ日中だから、二人はローラースケートで街中を走ることができないのだ。
ヒューに急き立てられるまま一番近い駅から汽車で向かったのは、ロンドンの南の郊外、水晶宮だ。
クリスタルパレス駅――その名からわかるように水晶宮移築完成とともに出来た駅――で下車する。
駅前に広がる敷地が全て水晶宮とその公園だ。二人はすぐに見慣れた姿を発見した。夏用の特注インバネスコートとディアストーカー姿のキース・ビー警部補。
一昨日の宣言通り、ニュー・スコットランドヤードの新星は十数名の警官とともに銀行家の娘、ライアン姉妹が最後に目撃されたその地で、行き交う人を捕まえては徹底的な聞き込みを展開していた。
「先日は不正確な情報を提供して申し訳ありませんでした」
まずは神妙な様子で謝罪するヒューを警部補は笑顔で迎えた。
「気にするなと言ったろ。〝無駄足〟は警官に付き物――まさに良き相棒ってヤツさ。僕だってどれほどやらかしたことか。それより、こんな処までどうした? しかも君たちのその顔……」
警部補はメッセンジャーボーイたちの痣のある顔を繁々と見つめる。
「ああ、これは、チョットした実験をやって……」
言葉を濁すヒュー。代わってエドガーが大真面目に声を張り上げた。
「悪魔祓いの実演体験です。大成功でした。悪魔は退散しました」
「馬鹿、くだらないことを言うな」
「何だよ、アンジーにそう言ったのは君だろ」
「ほほう?」
警部補は何か感じるところがあったらしく、それ以上は追及しなかった。
「それはともかく、僕は心を入替えました。遊び半分じゃなくて今度こそ真剣にこの事件に取り組みたいと思っています。それで――」
真直ぐに警部補を見てヒューは言う。
「もう一度、銀行家の姉妹の写真を見たいんです。テレグラフ・エージェンシー社の仲間――全メッセンジャーボーイに失踪中の人探しという名目で、姉妹の顔立ちや特徴を伝えたいと思います」
「そりゃ、ありがたい。大いに助かるよ。おい――」
警部補は傍らに付き従っていた制服警官を振り返って肩に下げたバッグからポートレートを取り出させた。
「この水晶宮で姉妹の目撃情報があったのはまぎれもない事実だからな。それで、この界隈を行く人たちに写真を見てもらってるんだよ。更に新しい情報を得ることができるかもしれないからね」
既に一度、警部補のオフィスで見ているそのポートレートをヒューは前回以上に熱心に見つめた。
姉に頼んで見せてもらったサマセット家のそれと同様、すぐに開かず、まず冊子の扉表紙と裏表紙にそっと触れる。それから開いて中の写真を眺める。
刹那、ヒューの灰色の瞳が輝いたのをエドガーは見逃さなかった。キース・ビー警部補の声が重なる。
「君も気づいたかい? よく見ると、向かって左、姉のエセルの左の目尻に
「なるほど、そうですね」
ヒューは相槌を打って、丁重にポートレートを警部補に返した。
「警部補、もし先の失踪者の写真もお持ちなら、そちらも見せていただけますか?」
キース・ビー警部補は全て携帯していた。先刻の警官が同じショルダーバッグからそれらも取り出す。
ポートレート版が2冊、名刺版が8枚。名刺版は一人ずつ、ポートレートの一冊は友人二人組で撮ったもの、もう一冊は
銀行家の姉妹と合わせて合計15人の行方不明の娘たち。その花のような微笑、全てを閲覧し終えるとヒューはカツンと両踵を合わせた。
「無理を聞いてくださってありがとうございました。では、僕らは失礼します。一日も早く事件が解決するよう祈っています」
「うむ、君たちも気をつけて帰りたまえ」
「もういい加減、話してくれよ。君が、事件解決のための〝何か〟を見つけたこと、僕はわかってるんだぞ」
エドガーがそう訊いたのはロンドン市中に帰る汽車の中だった。
子供じみていると笑われるかもしれないが、エドガーはいつでも汽車に乗ると興奮を抑えられなくて鼓動が早くなる。とはいえ、今の高揚感――お尻がムズムズするこの感じは、飛び去って行く車窓の風景のせいじゃない。いわんや三等客車の固い座席のせいでもない。
「そうだな、おまえはやっぱり俺の〈
いきなりヒューは言った。
「俺には娘たちを拉致した犯人の姿が見えかけている」
「え?」
「それもこれもおまえの鉄拳と――何より、罵倒のおかげさ。おまえの言葉に俺はハッとして目が醒めた」
「言葉?」
いつものことながら言った当人が何のことかさっぱりわからない。眉間に皺を寄せるエドガー。
「ほら、あれ、『エルダーフラワーの木の皮を燃やせば悪魔が見える。だからそれをやれ、臆病者にはピッタリだ』……まさにその通りなのさ。重要な鍵は皮なんだ」
ヒューは言い直した。
「悪魔を見る――犯人を割り出す鍵はポートレートの皮、つまり、装丁さ」
「そうてい?」
鸚鵡返しに呟くエドガーにヒューは頷くと、
「憶えてるだろ? 俺たちは自分たちのポートレートに精いっぱい奮発して二番目に上等な〈布張り〉を選んだ。一番安いのは〈紙製〉で、最高級は〈本革〉だ。アンジーが見せてくれたお屋敷のお嬢様のそれは本革だった。そのことは最初に見た時点で気づいてたけど、念の為さっき確認した。続いて、警部補に会って銀行家の娘のも見せてもらったが、やっぱり、ライアン姉妹のポートレートの装丁も本革だった」
「でも、それって当然のことだろ?」
唇を尖らせてエドガーが反論する。
「裕福な家なら皆、最高級の品、本革を選ぶに決まってる。だから、僕にはそのことがそれほど重要な鍵とは思えないけどな?」
ヒューは言いようのない笑い方をした。
「悪い。言葉が足らなかった。本革は本革でもこの場合、俺が問題にしてるのは〈子羊の革〉かどうかだ」
益々わからない。首を傾げるエドガーにヒューは丁寧に説明してくれた。
「子羊革はスペイン語でベルガミーノ、最近では一般的にモロッコ革と呼ばれてる。およそ本の装丁――外観全体を覆うのをフルバウンドと言うが、例えばイタリアの古書――聖書や祈祷書は皆、子羊革だ。子羊の革は木目や皺がはっきり出て色も鮮やかに染めることができる。一方我がイギリスではフルバウンドは子牛革が主流なんだよ。まぁこれはお国柄、嗜好の違いかもしれないけど、我が国の聖書や祈祷書はどれも子牛革で色も渋い茶色か暗い赤だ」
ちらりとエドガーを見る。
「ところで、姉貴のお屋敷のお嬢さんのも、今回行方不明になった銀行家の姉妹のポートレートも子羊革だった。他の失踪者のポートレートは一冊が紙製、革製の方は子牛革だった――」
ヒューは低く口笛を吹いた。
「子羊革か。凄くお洒落だと思わないか? 現在ロンドンの写真館のどのぐらいがポートレートの装丁に子羊革を採用してるかわからないけど、これはひょっとして特定要因になるかもしれないと俺は考えたのさ」
汽車が緩やかにカーブして
「もちろん、これだけでは断定はできないけれど追及してみても損はないだろう? ちなみに、そこも確認したよ。サマセット家のそれも銀行家の姉妹のそれも、子羊革のポートレートに刻まれた写真館の名は一緒だった。
パチンとヒューは指を鳴らす。
「次の駅で降りるぞ。その写真館、シメオン・コリンズ写真館はメリルボーン・ハイストリートにあるんだ。ちょっと偵察してみよう」
「凄い! もう住所まで把握してるのか?」
エドガーの質問をヒューは鼻で笑った。
「何言ってる。シメオン・コリンズ写真館は、今、ロンドンで一番人気のある有名な写真館だぞ。何処にあるかぐらい誰でも知ってるさ。特にメッセンジャーボーイなら必須だよ」
やっぱり、ヒューはこうでなくっちゃ! 軽々と謎を解き、博学で、自信に充ち溢れていて、常に行き先を決定するヒュー・バード。
「ん、何か言ったか?」
「いや、何にも」
「こいつ、しらばっくれるなよ。どうせ俺のことを毒づいたんだろ」
ヒューはクシャクシャとエドガーの髪を搔き毟った。汽車の床に吹っ飛んだ帽子を拾い上げながら、今度こそ声に出してエドガーは言った。
「横暴で威張りん坊、ほらな、君はこうでなくっちゃ!」
いいぞ。僕らの日常がまた戻って来た……!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます