第17話
シメオン・コリンズ写真館は大通りに面した豪奢な建物だった。
気品溢れるジョージ王朝時代の白い煉瓦の4階建て。間口が長く奥行が浅い長方形型で、中央に入口があり、左右に4つずつ並んだ細長い飾り窓にずらりとこの写真館で撮った写真がディスプレイされている。ポートレート版、名刺版……丸や楕円や四角、様々な形の金銀の額に入れたもの、オルゴールやロケットに嵌め込んだ瀟洒な小物仕立てのもの……
ヒューとエドガーは昼番のメッセンジャーボーイが配達している振りを装って写真館の周囲を三度往復した。
いつも不思議に思うのだが、テレグラフ・エージェンシー社の制服は今やロンドン市民に知れ渡っていて一目でそれとわかる。にもかかわらず、常に街並みに完璧に溶け込んで透明人間のごとく姿を消し去ることができるのだ。今回もヒユ―とエドガーに注意を払うものは一人もいなかった。
三往復の間に二人が目にしたものは――
頻繁に馬車が止まった。これは撮影予約客と思われる。家族やカップル、友人グループ、学生集団、妙齢の娘たち……着飾った人々が次々に中央玄関から館内へ入って行った。一方、四つの飾り窓の前には別の美しい流れがあった。こちらは館内には入らずゆっくりと窓を巡って展示されている写真を熱心に眺めている。最近これと似た光景を見たな。ふとエドガーは思った。何処だっただろう? そう、水晶宮だ。水族館で魚たちを覗いたあの時もこんな風だった。
この写真館の前に溢れた一群も、館内に入って行った人々に負けず劣らず綺麗に着飾っていた。予約を入れる前の下見だろうか? 乳母や女中を伴った中流階級の娘たち。そうかと思えば、明らかにお使い帰りの寄り道と思われるメイドや休み時間に抜け出してきた女給、お針子、店の売り子等がいる。それぞれ所属している階級は纏っている服装で容易に識別できた。だが、共通している点が一つだけあった。飾り窓を覗く娘たちのキラキラ輝く瞳だ。いつか自分もこんな風に撮ってもらいたい。憧憬の煌めき……
「どう思う、ヒュー?」
先に言葉を発したのはエドガーだった。
「このくらい大きな建物なら、十数人の娘たちを余裕で隠しておけるよね?」
ちょっと声を潜めて、
「ほら、アシュレーは言ってたじゃないか。誘拐犯が薬よりも考慮すべきは〝娘たちの隠し場所〟だって」
「それはアシュレーの意見だろ?」
ヒューは肩をそびらせた。
「言っとくが、俺は、あいつは胡散臭い野郎だと思っている。俺にとってはあの薬屋も犯人候補の一人さ」
向かい側の時計屋の壁に掲げた大時計を見つめると、
「そろそろ出社時間だ。戻るぞ」
「偵察はこれで終了?」
帽子の廂を押し上げてヒューは意味深に微笑んだ。
「今日のところは、な」
この日は、テレグラフ・エージェンシー社に着くとすぐ、警部補と約束した通り、仲間たちに失踪した銀行家の姉妹の容貌を伝え、見かけたら教えてくれるよう協力を求めた。その後はいつものように仕事をこなした。
夜が明けて退社時間が来るとヒューはエドガーの肘を掴んで言った。
「このまま俺の家へ行こう。話したいことがある」
その真剣な表情にエドガーは即座に頷いた。
「了解」
「ミミヘ伝言を書いた方がいいな。あっちの方向へ帰る奴――おーい、マシュー、セビロ―通りのエドの家にメッセージを配達してくれないか?」
なんでも持ち歩いているヒューから渡されたメモ帳と鉛筆で伝言を書くエドガー。
「『ミミヘ。お兄ちゃんはヒューと残業する。夕方には帰るからいい子で待ってるように。エドガー』……こんなもんかな」
「よし、マシュー、ミス・タッカーはまだ字が読めないから必ず玄関で音読してくれよ。それ込みで1シリングでどうだ? おっと、この花束も一緒に届けてくれ」
いつの間にか通りのワゴンから小さな花束を買って来たヒュー。
メッセンジャーボーイがメッセンジャーボーイを雇うなんてと、大いに面白がった同僚は快く引き受けてくれた。
この後、ヒューからエドガーは恐ろしい人生の選択を迫られることになるのだが、神ならぬ身には知る由もなかった――
ソーホーの自宅へ着くなりヒューは決然と言い放った。
「エドガー、俺はこれからシメオン・コリンズ写真館の内部を偵察するつもりだ。知っての通り、俺は先日の薬屋の件で一度、外してる。つまり、大失敗をしでかした。過ちは2度と繰り返さない。今度と言う今度は確実で決定的な証拠がほしい。その為の潜入調査だ。前回以上に危険をともなう状況が想定される。それで――」
「勿論、僕もつきあうよ」
最後まで言わせずあっさりとエドガーは同意した。
「僕だって君が〝木の皮〟ならぬ〝ポートレートの革〟から炙りだした悪魔の正体をこの目で見てみたい。そして、それ以上に」
背をピンと伸ばしてエドガーは言い足した。
「僕は地上の天使と誓約を交わしてるんだ。常に君の一番近くに立っているって約束したんだよ。だから、僕がチビだからって、決して君の足手まといにはならないから、安心してくれよな」
「おまえはもうチビなんかじゃないよ、エド」
神妙な顔でヒューが言う。
「実際、入社したての頃はチビだったけど、今じゃ
「え?」
正直、エドガーは物凄く落胆した。
最も力を込めた〈
とはいえ、エドガーは精いっぱい自分を慰めて奮い立たせた。
(でも、ま、いいか。縮んだって言われるよりはましだもの!)
そんなエドガーの肩を抱いてヒューは上機嫌で言った。
「おまえが同意してくれて嬉しいよ。では準備に掛かろう」
5分後。エドガーは激しく首を振ってもがいていた。
「前言撤回! 嫌だよ、僕、やっぱり、一緒には行けない――」
「今更なんだ、さっき、俺と行動を共にすると誓ったじゃないか!」
「でも、こんなやり方だとは聞いていない。だめだよ、無理だ。僕にはとても――着れない」
二人が居るのは、ヒューの家の前、共同井戸のある空き地を挟んだ小劇場の、その衣裳部屋だった。ちょうどこの劇場の裏口がヒューの家に面しているのだ。
「うっそー、とっても良く似合っててよ、坊や。サイズだってピッタリじゃない」
毛むくじゃらの大きな手で押さえつけているその男が言った。
「ほーら、完成! 嫌だ、似合い過ぎてる! これ、オフィーリアの衣装なんだけど、
「いいんじゃないか。じゃ、俺は黒にする。これでごまかせるだろう?」
「あんたは何着てもイケるわよ」
「そいつの髪型も頼むよ、
「まかせといて。フフ、金髪のクルクル巻き毛、いいわねー! だめ、動かないで坊や、お花をいっぱい挿してあげる」
傍らで着替えながらヒューが命じる。
「いいか、エド、おまえは一言も口をきかなくていい。そう、その表情、恥ずかし気に笑ってればいいんだ。シャイで臆病な末娘と言う設定さ。会話は全部俺が担当する」
「そうよ、ヒューは大俳優の素質があるわ。だから、メッセンジャーボーイをお払い箱になったらウチへ来いって誘ってるのよ。勿論、私が徹底的に仕込んであげる」
小劇場〈レッドドラゴン〉の劇団長兼主演女優アレン・ディアスによれば、お隣さんのヒューは既に子供の時から舞台に借り出されているとのこと。役者の頭数が足りない時や急病、緊急事態時の貴重な代役要員らしい。
この日頃の貢献度に物を言わせて、ドレスから帽子、靴に至るまで劇場の衣装を借り受けて即席の姉妹が完成した。
ヒューは今回、淑女に化けて、問題のシメオン・コリンズ写真館に乗り込もうという計画なのだ。
エドガーは白のオーガンジー、透けるパフスリーブと首から胸元までのさざめくフリル、水色のサッシュ、短い金髪に散らした花々、麦わら帽子……
対照的にヒューは黒一色だ。二カ所だけ、襟元と袖口に細いレースが覗いている。漆黒の髪には同色のサテンの帽子、見え隠れする憂いを秘めた灰色の瞳……
「なんてことブラボー! 熟していないオフィ-リアと気の強過ぎるミランダってとこね!」
劇団長は拍手喝采した。
「せっかくだから、そのロンドン1の写真館とやらで是非とも写真を撮ってもらいなさいよ! あんたたちのその姿、記念に残す価値があるわ」
感動のあまり団長が劇場の前へ
初めて乗るフカフカの馬車の座席で、エドガーは涙目で、
「それだけは絶対嫌だ! 未来にこんな写真が残されてたまるもんかっ」
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