第3話

 二人はすぐ挨拶を返した。

「キース・ビー警部補、お久しぶりです!」

「ビー警部補も相変わらずお元気そうで――」

 とは言えない。聡明なヒューは言葉を濁す。キース・ビー警部補は見るからにやつれていた。夏用に軽い素材で仕立てた――それでもデザインはあくまでもこだわってインバネスコートと鹿撃ち帽ディアストーカー――も威風堂々、燦然と輝いているし背後にはこれ見よがしに数人、制服警官を引き連れているが警部補当人は頬がこけ目は血走ってショボショボしている。実際に目薬が必要なのは警部補かもしれない。

「いい所で会った、美味い飯を奢るよ、メッセンジャーボーイズ。ああ、おまえたちは先に戻っていいぞ」

 警官たちに声を掛けてからキース・ビー警部補は小声で二人に言った。

「実は折り入って話があるんだ」


 オーチャード街を突っ切り、少々歩いて警部補が連れて行ってくれたのは、キングスストリート31番地、看板に〈家庭料理ハドソン亭〉とある。いかにも彼が贔屓にしそうな店だ。

「さあ、遠慮なく食べてくれたまえ! ここのステーキパイはロンドン1だぞ。何しろ自前の麦酒ビールで煮込んだステーキ肉がゴロゴロ入ってる。それにデザートのスポッテッド・ディック……レーズン蒸しプディングときたらほっぺたが落ちること請け合いさ」

「いただきます!」

 早速、グルービーソースがたっぷりかかったパイに齧り付くエドガー。片やヒューはピンと背を伸ばして椅子に座ったまま神妙に尋ねる。

「で? 僕たちに話って何でしょう?」

「実は、僕は今、ほとほと困っている。それこそ、猫の手も借りたいほどだ」

「猫の話なら、もういいです」

「そう言わずに、まあ、聞いてくれ。この二月余りの間にロンドン市内で恐ろしい事件が進行しているのだ」

「そんなニュース聞いてませんけど?」

「箝口令を敷いている。だが、隠しておけるのも最早時間の問題だ。だからこそ、こうやって君たちに協力を願い出たわけさ」

 好物だと言うパイに手も触れないで警部補はじっと二人を見つめた。

「君たちの手を借りたい。君たちはロンドン中を駆けまわっているからな。だから、どんな些細な情報でもいい。怪しい話や噂、人物のこと、それらを耳にしたり目にしたら即、僕に知らせてほしいんだよ」

 キース・ビー警部補は咳払いをした。

「君たちメッセンジャーボーイの情報収集能力は充分承知しているからね」

 承知しているどころか、以前キース・ビー警部補は二人にかぶとを脱いでいる。ヒューとエドガーの活躍のおかげで難事件が無事解決に至ったのだ。

 ロンドンっ子にとっては水代わりのビターエールで喉を潤すと警部補はいきなり本題に入った。

「いいか、よく聞きたまえ。このロンドンで若い娘たちが忽然と消え続けているのだ」

「若い娘たち?」

 牛肉を飲み込むのを止めて目を白黒させるエドガー。ヒューは至って冷静に訊き返す。

「それは誘拐・・と言う意味でしょうか?」

「多分……いや、そこの処もよくわからない。と言うのも、娘たちがいなくなる前の状況が皆目わからないのだ。娘たちは搔き消えたようにいなくなっている……」

 薄い口髭を撫でながら警部補は続けた。

「届けが出ているだけで13人。ブルジョワや商人の娘、お針子やメイドもいる。流石に貴族や上流階級はいないがね。共通点はいずれも、見目麗しい美少女たちと言う点だ。おっと、もう一つ、娘たちは2人、もしくは3人で一緒にいなくなっている。だから失踪者数は13人だが通報件数は6件だ。それぞれの関係は、姉妹や従姉妹いとこ同士、あるいは仲の良い友人」

 短い溜息。

「写真を見るかね?――全くいい時代になったものだ。どの娘も写真――当世流行の肖像写真と言うヤツを撮っているから捜索する我々警察としては便利この上ない」

 コートの内ポケットから警部補は写真の束を取り出してテーブルに並べた。ほとんどは俗にカルト・ド・ヴィジットと呼ばれる名刺版写真だが冊子仕立てのポートレート版も2冊ある。

「どうだい、言った通り皆、綺麗な娘だろ?」

 写真を順に眺めながらヒューは指摘した。

「〝連れ立って〟と言うことは、娘たちは打ち合わせをした上での出奔――つまり、自由意志による家出なのでは?」

「それは考えにくい」

 即座に首を振る警部補。

「家族の話では、娘たちは皆生活に満足しているんだよ。どの子も生き生きとして元気いっぱいで好奇心旺盛、まさに自分の人生、毎日の暮らしを楽しく謳歌していた」

 警部補はまばたきした。

「だいたい、家出にせよ、連れ去られるにせよ、この大都市ロンドンでその瞬間・・・・を誰かに目撃されていないなんてあるはずがない。それなのに、そういう報告が一切ないのだ。これまた家族の証言によれば、どの娘も日中はいたのに『ふと気づくといなくなっていた』『いつのまにか姿が見えなくなっている』と言う具合なんだ」

「それを聞くと僕は尚更、家出説を採りたくなりますね。娘たちは、昼は出来るだけおとなしく隠れていて、夜、闇に紛れて逃げ出したのかも」

 ヒューの言葉を警部補は否定しなかった。悲し気に頷くと自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「最初の届け出があってから失踪報告は今回で6回目なんだぞ。その間ずっと昼夜を問わず連れ立った若い娘たちの行動には注意を向けるよう、僕は全警官に命じて来た。彼女たちの華奢な足ではたかが知れているから、当然、不審な馬車の通行は特に厳重に目を光らせている」

 だが、今のところ怪しい馬車や荷車は一台も警戒網に引っかかっていない、とニュー・スコットランドヤードの若き警部補は赤毛の髪を掻きむしった。

「だから、君たちに頼るのだ。君たち、メッセージを配達の際、怪しい物音、叫び声や馬車の音に注意してくれ。そして何か察知したらをすぐに僕に知らせてほしい。今回の事件で非常にやりにくいのは――」

 ここで一旦言葉を切る。

「問題は、若い未婚の娘たちのことなので取り扱いが非常に難しい。今のところ家族側からも隠密の調査を求められている。これは親御さんたちにしてみれば当然のことだ。独身の僕にもその想いは理解できる」

 むっつりと警部補は言った。

「報道は凶器にもなる。新聞が騒ぎ立てあおった為に恐怖や好奇心が先行して犯人逮捕に至らなかった例は近年ヤマのようにあるからね」

 警部補が暗にほのめかしているのは1860年のロード・ヒル・ハウス殺人事件や1876年のランベス毒殺魔事件、F・ディーミング連続殺人事件のことだ。それら忌まわしい事件は大英帝国の全住民を巻き込んで騒ぐだけ騒いだ果てに迷宮入りしている。

「特にイーストロンドンで5人の娼婦が殺害された事件は酷かった。この連続殺人犯を〈切り裂きジャック〉として大々的に宣伝したのは新聞だった。おかげで国中恐怖と好奇心の坩堝るつぼと化し、我々ニュー・スコットランドヤードも浮足立ってまともな捜査もできず、挙句の果てに数百人もの怪しい奴を片っ端から逮捕しては証拠不十分なためにすぐに釈放する、を繰り返した。あの無念を再び味わいたくはない」

「わかりました」

 きびきびとヒューが答えた。

「何か変わったことを見聞きしたらお知らせします。仲間にも詳細は漏らさずにそれとなく情報を集めてみます」

「おお! よろしくたのむぞ、メッセンジャーボーイズ!」


「マクビティビスケットからステーキパイとはランクが上がったな! よほど警部補は今回の事件に苦労しているらしいや」

〈ハドソン亭〉からの帰り道、エドガーのほっぺたを指差してヒューは笑った。

「おい、右頬、レーズンプディングに豪勢にぶっかけたカスタードクリームがついてるぜ」

「ひゃぁ」

 慌てて顔を拭うエドガー。

「だが実際、パイもデザートも美味かったな! 腹いっぱい詰め込んでおまえも血色が戻ってる。これでもう、変なものは見ないですむさ」

 だが、そんなことはなかったのだ!

 むしろキース・ビー警部補の思いつめた顏のせいもあってか、その日帰宅して、居間のベッド代わりのソファに横になったエドガーは奇妙な夢を見た。


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