第2話

 薬屋のきしむ扉を開けてエドガーは入って行った。

「ごめんください――」

 店内は真っ暗でしんと静まり返っている。両隣が塞がれた立地のため正面の窓からしか光が入ってこないせいだ。左側に細長いカウンターがあり、その後ろの壁は棚になっている。反対側も天井まで抽斗ひきだしの付いた棚。床には異国風のタイルが敷き詰めてあった。全体にひんやりして湿った感じ。何処かに似ている、そう、洞窟だ。このまま進むと人魚の歌声が聞こえてきそうじゃないか。

「ごめんくださーーい」

「店自体、やってないんじゃないのか? とても営業しているようには見えない。もう戻ろうぜ、どうせ、買う物だってないんだし」

 いつもならヒューの言葉に素直に従うエドガーだったが、今日ばかりは腕を払って更に声を張り上げた。

「ごめんくださぁい! どなたかいませんかーーー!」

「いらっしゃいませ」

 突然響く凛とした声。奥のドアが開いて燭台を掲げた人物が出て来た。

 それこそ、長いローブを引きずり真っ白な髭を生やした魔法使いのごとき老人――と思いきや、スラリと背の高い端整な顔立ちの青年だったので、逆にエドガーもヒューもギョッした。

「ようこそ、タルボット薬屋へ。今日は何をお求めでしょう?」

 銀色の髪を揺らして男が微笑む。黒いベストに黒のズボン、緩やかに結んだ天鵞絨ビロードのボウタイ。燭台の灯のせいか目が金茶にみえる。

「これはこれは、メッセンジャーボーイの皆さんですね?」

 今度は向こうが値踏みをする番だ。グレイの地に緑の縁取りの上着、半ズボンにキャスケット……今やロンドン市民なら誰でも知っている、テレグラフ・エージェンシー社の制服姿の二人を眺めて薬屋は満足そうに頷いた。

「と言うことは――喘息の薬ですか? 空気の汚いロンドンを疾走すれば肺がやられますからね。でなければ、捻挫の塗り薬?」

 肩に掛けたローラースケートをグッと掴んで――日中はロンドン市内でのローラースケートの使用は禁止されている――ヒューが答える。

「幸運なことに、僕たちは今まで配達中息が切れたことも、転んで足を怪我したこともありません。風邪ひとつひいたことがないんだから」

「それは良かった! では、そのご健康な皆さんが何故、当店へ?」

「あ、あの、ちょっとお尋ねしたいことがあって――」

 勢いよく割り込んだエドガー。だが、言葉が続かない。

「えーと、えーと、昨夜、僕がプレミアムのボーナス付きの電報を配達中、いや、持っていたのはヒューなんだけど、僕はいつも2番手で万が一まんがいち1番走者が怪我でもしたら代わって届ける補佐役で……つまり」

 見かねたヒューが代わって簡潔に説明する。

「昨夜、この辺りで黒猫に率いられた猫の集団を見たと同僚が言うんです。その猫はお宅の看板の下で消えたそうです。お宅では黒猫を飼っていませんか?」

「とても美しい黒猫なんです。スラリとしてツヤツヤした真っ黒な毛並み――そう、ちょうどこのヒューの髪と同じ色」

「やめろよ! 人の頭を猫に例えるな!」

 すごい剣幕でヒューが食って掛かった。一方薬屋はひどく静かに、水の底から響くような声で、

「当店には猫は一匹もいません。まして、そちらの方の頭のような黒い猫など」

「だから! 人の頭を猫に重ねるなよ、ゲンが悪いっ!」

 ヒューの怒りは収まらなかった。

「エド、おまえは俺の幸運のお守りだから今まで付き合ってやったが、これで帳消しだ。こんなに嫌な思いをしたことはない。よりによって幽霊猫と一緒にされるなんて」

 銀髪の店員も首を傾げる。

「ふうむ? どうやらお客様に必要なのは目薬のようですね? わがタルボット薬屋の目薬は大変良く効くと評判です。おひとついかかでしょう?」

「そういえば、黒猫の血や胎盤は目薬にいいらしいな? 中世の修道院の蔵書かなんかで読んだ覚えがある」

「滅相もない。当店の目薬は薬草由来です。お試しになられますか?」

「結構だよ。さあ、エド、これで気が済んだか? 猫は一匹もいないってさ、帰るぞ――どうした?」

 店員とヒューのやり取りをよそにさっきからエドガーは身動ぎもせず佇んでいた。その眼は一点を凝視している。

 先刻店員が出て来た奥のドアの横、箱が数個、塔のように積み上げてある。エドガーはそれをじっと見つめているのだ。

「エド、あの箱がどうかしたのか?」

「あれは全部空き箱ですよ。洗剤や消毒液が入っていた。かたずけようとまとめて置いてあるんです」

「そうでしようとも、いくぞ、エド。失礼しました」

 固まったままのエドガーを引きずって薬屋の外へ出るや、ヒューはまくし立てた。

「一体どうしたんだよ、エド。おまえ、真っ青だぞ? あんな箱に目を釘付けにして。まるで魂を吸い取られたような顏をしてる」

「じゃあ、君には見えなかったのか、ヒュー?」

 エドガーの声は震えていたが、訊き返したヒューの声はもっと震えていた。

「なにが?」

「僕が見ていたのは箱じゃない。箱の天辺てっぺんに、いただろう? 真っ黒い猫が。じっと座って僕らを見下ろしていたじゃないか」

「いや、箱の天辺には何もなかった。闇以外にはな・・・・・・。どうしたんだ、エド、昨夜は猫の行列を見て、今度は箱の上の猫か? しっかりしろよ!」

 ヒューは後輩の背中を力いっぱいどやしつけた。

「何か悪いものを喰ったのか、いや、そうか、その逆だな。腹がすき過ぎているんだ。考えたら俺たち未だ朝食すら食ってない。ちょうどいいや、この辺りで何か食べて帰ろう」

「食事なら僕が御馳走するよ、メッセンジャーボーイズ!」

 早朝の通りに響くその聞き覚えのある声は――

「久しぶりだな、テレグラフ・エージェンシーの諸君。元気そうで何よりだ」

 声の主は、そう、ロンドン警視庁、ニュー・スコットランドヤードの輝ける新星、キース・ビー警部補だった!

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