第9話

 撮影は大成功に終わった。

「ブラボー、よろしいですか、みなさん、では、動かずに、こちらを向いて――アン・ドゥ・トロワ!」

 写真館のスタジオに設置された三日月の上に4人仲良く腰掛ける。もう一枚はアンジーとミミが中央に座ってその両脇に制服姿の少年たちがスックと佇む。

 今を時めくテレグラフ・エージェンシー社のメッセンジャーボーイに花のように美しい娘と少女。この4人組の珍客を歯ブラシ型トゥース・ブラッシュの口髭を生やした写真家は褒めちぎった。

「トレヴィアン! メッセンジャーボーイをこんなに近くで見たのは初めてですが凛々しい坊ちゃん方ですな! お嬢さん方ときたらチャールズ・コートニー・カランの描く海辺の御婦人方が当店へお越しかと錯覚しましたよ! え? ご存知ない? それは残念。このロンドンで修行した新進気鋭の画家です。同郷なので応援しているんです」

「同郷というと、フランス人の画家?」

「いえ、アメリカ人」

 偽名臭いエッフェル氏は咳払いをして、

「パードン、ムシュウ、装丁はどうなさいます? 革張り、クロス張り、紙制……ご自由に選べます」

「革は流石にゴージャス過ぎる。でも」

 悪戯っぽくエドガーにウィンクしてヒューが言った。

「誰かさん曰く孫子まごこにも見せる一生ものだから、奮発して2番目に高価な布張りにしよう」

「お色はどれにいたしましょう?」

 見本帳を前にアンジーとミミが即座に声を上げる。

「ローズ色がいいわ!」

 ヒューとエドガーは渋いモスグリーンが好みだったがここは女性陣に譲ることにした。幸せそうな姉や妹の頬と同じ薔薇色のポートレートも悪くない。

「ではお引き渡しは10日後ということで、メルシー、アデュー、ボッソワ!」

 折角おめかしして出て来たのだ。何処かへ寄って行こうと言うことになった。

 思えば、父は療養中、母は仕事で忙しくいつも一人で留守番しているミミをこんな風に外へ連れ出すのは久しぶりのことだ。

「どうだい、ミス・タッカー、動物園へでも行くかい?」

 うやうやしく膝を折って尋ねたヒユーにミミは満面の笑顔で即答した。

「水晶宮がいい! お魚を見たいわ!」

 

 動物園はロンドンの中心部、リージェンツパークにあるが水晶宮はやや遠い。4人は汽車に乗った。それもまたよし。

 言うまでもなく鉄道も大英帝国の誇りだ。世界中の何処よりも早く1825年に開通した。張り巡らされた線路の長さは既に国内の運河より長くなっている。轟音とともに飛び去る家々……吹き過ぎる緑の風……

 あっという間に水晶宮に到着した。

 その名も美しい水晶宮クリスタルパレスは、1851年の第一回ロンドン万博の会場として建築された鉄骨と硝子でできた巨大な建物だ。万博終了後解体されたものの1854年ロンドン郊外、シデナムの丘に、更に規模を大きくして再建された。ウィンターガーデン、音楽ホール、植物園や博物館、美術館を併設した複合施設となっている。ここに水族館が開設されたのは1871年。これまた大英帝国が誇る、世界最大の水族館である。

 一行はガラス越しに涼し気に泳ぐ魚たちを見て歓声を上げたり、吐息を漏らしたり、存分に楽しんだ。

 ところでこの後、少々肝を冷やす出来事があった。

 煌めく魚たちに別れを告げて大満足で水晶宮を出た時、突然エドガーの手を放してミミが走り出したのだ。

「あ、ミミ?」

「だめだよ、ミス・タッカー……何処へ行くんだ?」

「ミミちゃん、止まって! 危ないわよ!」

 兄たちの声を置き去りに白い少女はどんどん加速する。ローラースケートの無いエドガーとヒユー――今日は休日なので持参して来なかった――は慌てて追いかけた。スカートの裾を絡げてアンジーも後を追う。

「……ここ水晶宮も素晴らしいですが、何と言っても印象深かったのは1853年、世界初の水族館フィツシュハウスの誕生ですよ。そう、リージェンツパークの動物園に併設されていたんですがね。私は子供ながらによぉく憶えています。何しろ、その時初めて水圧に耐える板ガラスの水槽が用いられたんです……」

 ちょうど水晶宮へ向かって歩いて来た娘連れの紳士、熱心に水族館の歴史について語っているその人にミミは衝突した――

水族館アクアリウムと言う言葉が生まれたのもこの頃です。〈アクア〉と〈飼育場ヴィヴァリウム〉の合成語! まさにピッタリだと思いませんか?」

 ドンッ

「キャッ!」

「おっと?」

 よろめく紳士、小さなミミは弾き飛んで草の上に転がった。

「失敬失敬、大丈夫かね、お嬢ちゃん?」

 すぐに紳士が抱き起してくれた。

「すみません、妹がご迷惑をおかけしました」

 漸く追いついたエドガーが冷や汗を流しながら謝罪する。

「妹の無作法な振る舞いをお詫びします」

「いや、私もつい話に夢中になっていて前をよく見ていなかった。こちらこそ申し訳ない。怪我はないかい、お嬢ちゃん? ない? それは良かった!」

 紳士は咎めることなく白いシルクハットを拾い上げると連れとともに水族園へ入って行った。

「だめじゃないか、急に駆けだすなんて! 危ないだろ!」

 兄の顔に戻ってエドガーは厳しく叱った。

「一体、どうしたっていうんだ?」

「だって、猫ちゃんが――」

「猫?」

「私、猫ちゃんとお友達になりたかったの」

「おいおい、魚の次は猫か? でも嘘をついちゃだめだ、こんな処に猫なんているはずない――え?」

「エド、あれを見ろ」

 肩に置かれたヒューの手、エドガーは引っ張られるままにそちらを振り向いた。

 確かに猫がいた! 水晶宮前の広い草地に真っ黒な猫が。

 猫は体を捻ると茂みの中に消えた。

「そんなに叱っちゃだめよ、エド。小さい子は皆、突然駆けだすものよ。ヒューなんかこんなもんじゃなかったわ。ねぇ、ミミちゃん?」

 追いついたアンジーが優しくミミを引き寄せる。妹をアンジーに委ねるとエドガーはヒューにだけ聞こえるヒソヒソ声で囁いた。

「ヒュー、あの猫、あれは新月じゃないか?」

「気のせいだろ。黒猫はロンドン中にいるさ」

 ヒューは吐き捨てた。その後で自分の言葉にブルッと身震いする。

「ロンドン中にいる猫……それを思うと別の意味でゾッとするけどな」

 この後、4人は再び汽車でロンドン市内へ戻り、出来たばかりのアールズ・コートの大観覧車〈グレート・ホィール〉に乗ってロンドンの街を一望した。

 高さ309フィート(94m)、直径270フィート(82.3m)、40基の客室、一室の定員は40人と言うこの信じられないくらい巨大な観覧車は、元々は印度帝国博覧会のために作られたものだ。

 遥か高みから見下ろすロンドンの街は思いのほか美しかった。毎夜、ここを走り回っていると思うと不思議な気分だ。尤も、同僚のメッセンジャー、伝書鳩たちはこういう風景を見ているわけか。 

 ロイター卿が1841年に創設したテレグラフ・エージェンシー社では、今現在、ロンドン市内は少年たちが、市外は鳩たちが最速の情報配達を担っているのだ。

 地上に降りると、観覧車を取り巻く野外市場の色取り取りの屋台で気に入った美味しそうなものを片っ端から味わった。

 こんな風に、この日は本当に満ち足りて幸福な時間を過ごしたのでエドガーもヒューも水晶宮前の些細な出来事はきれいさっぱり忘れてしまった。

 

 翌日の夕方。夜番として出社した二人はすぐさま配達室を束ねる室長チーフに声を掛けられた。

「ヒュー、エドガー、喜べ。今夜はついてるぞ、プレミア付きのメッセージがある。しかも配達人として直々に君たちをご指名と来た」

 〈大至急〉とスタンプされた特別便の配達は、受け取った側がくれるチップの他に社から3ポンドのボーナスが出る決まりだ。

「さあ、これを最速で届けてくれ」

 渡された封書に記された住所は、ヴィクトリア地区エンバーメント通り/ニュー・スコットランドヤード/特殊犯罪科/キース・ビー警部補となっている。


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