第12話

 一階に降りて、店舗奥の意外なほどこじんまりして居心地の良い台所のテーブルを囲んだ三人。

 ローラースケートを足元に置きヒューは壁を背に一番奥に座った。隙あらば膝に飛び乗ろうとする黒猫を避けたのだ。一方エドガーは……

「ほんとだ、なんて美味しいお茶だろう! マスカットのような香りがする――」

 さっき摘み取った白い花にライムの輪切りを加えて薬屋アシュレーが煮出したハーブティを一口飲んで感嘆の声を上げる。

「一緒にラズベリークッキーもご賞味あれ。僕がジャムから手作りした自信作だよ」

 アシュレーは嬉しそうに笑った。

「エルダーフラワー茶は初めてかい? 気に入ってもらえて良かった。フフ、この木、エルダーツリーはこの可愛らしい花ゆえに〈妖精の住む木〉と呼ばれてるんだ」

「もっと他の呼び名もある。〈魔除けの木〉」

 そう言ったのはヒューだ。

「この木の枝を火にくべると悪魔が見えるという伝承から付いた名だ。毒がもたらす幻覚だろうけど」

「え?」

 カチャン、慌ててカップを下に置くエドガー。ヒューは片目をつぶって安心させた。

「大丈夫さ、エド、この木で毒があるのは・・・・・・未成熟の実と種子、葉っぱと樹皮だ。花はハーブティとして古くから飲まれてる」

 薬屋は眉を上げた。

「詳しいじゃないか」

「オーストラリア産のティーツリーとやらは初めて見たけど、この木に関しては知ってた。父親から教わったことがある」

「ヒューのお父さんは教区牧師だったんだよ!」

 自分のことのように誇らしげにエドガーが解説する。

「だから、ヒューも聖書はもちろん魔除けとか悪魔とか魔女について物凄く詳しいんだ。そうだよね、ヒュー」

「ああ、なるほど。そういえば君、最初に店へ来た時、『薬屋には黒猫の屍骸がある。黒猫で薬を作るから』などと言ってたな。いかにも牧師の息子の言いそうな台詞だ」

 アシュレー・タルボットはじっとヒューを見つめた。

「認めるよ。我がタルボット家はいつから続いてるかわからないくらい、代々薬屋だった。だから、君の言う通り黒猫のミイラや毛皮、骨をちゃんと持っている」

 小さく息を吐いて肩を竦める。

「元々はアイルランドの出身で、ここへ店を構えたのは曽爺さんの時代だった。その際、曽爺さんが故郷から持って来たのが、中世から伝わる古い処方箋を詰めたトランク一個と、黒猫だったのさ」

 薬屋は白い歯をのぞかせた。

「それが初代新月さ。以来、ずっと我が家では黒猫を飼い続けている」

「それはまたどうして?」

 エドガーの質問にアシュレーはヒューに視線を向けたまま答えた。

「黒猫に対する代々の贖罪か、はたまた守り神として」

「というと?」

「アイルランドには黒猫伝説がある」

 薬屋は母国の伝承を語り始めた。

「彼の地には、その名もケット・シーと言う猫の王様がいてね。人語が話せる、二本足で歩く、などその定義は色々あるけど、とにかく黒猫なんだそうだ。このケット・シー、家庭に入り込んでいても正体を悟らせることはない。但し、耳を傷つけると罵声を浴びせそれまで見聞きした飼い主たちの秘密や悪事を大声で語り出すらしい。それ以上怒らせるとこちらの命が奪われるからご用心。他にも、王族のケット・シーは毎年5月1日に猫の会議を開き猫たちの報告を聞くそうだ。眼病に効く井戸や王女の病気を治す薬草、枯れない水源の場所……たまたま果樹園の木の上で寝ていた商人が耳にして、それら猫の情報で人々を助け市長に出世したとか」

 足元の猫に目をやってアシュレーは話を締め括った。

「と言うわけで――勿論、我が家の新月がケット・シーだなんて僕は断言しないけど、曾祖父は信じたから連れて来たんだろうな。伝説の黒猫は銀の鎖の上で丸まってるそうだ。初代新月もまた、船着き場の酒樽の陰で銀の鎖の上に寝ていたらしい」

「あ!」

 慎重にラズベリークッキーを飲み込んでからエドガーが叫ぶ。

「ひょっとして、看板に巻き付けてあるあの銀の鎖は……」

「そう。初代新月が座っていた鎖だ。曾祖父はそのままそれを猫の首に巻いて船に乗り、遙々ロンドンへやって来た。そして、その記念に創業以来看板にぶら下げてるってわけ」

「それでわかったよ。僕はずっとあの鎖が気になってたんだ。でもさ」

 お代わりのエルダーフラワー茶を注いでもらいながらエドガーが忠告した。

「君の新月には銀の鎖は巻かないのかい? 鎖と言わないまでも、首輪は付けたほうがいいと思うよ。だって、野良猫と勘違いされて誰かに連れて行かれたら困るだろう?」

 薬屋は頷いた。

「それについては僕も悩んでるんだ。実際、何度か首輪をつけようとしたんだけど、こいつがひどく嫌がってつけさせてくれない。いつも逃げられてしまう」

「猫の話はもういいよ」

 唐突にヒューが切り出した。

「実は今、ロンドンで奇怪な事件が頻発しているんです。若くて綺麗な娘たちが忽然と姿を消し続けている。僕とエドはそれに関する情報を収集するようニュー・スコットランドヤードから頼まれているのですが、タルボットさん、あなたは何か変わったことを見聞きしていませんか?」

「へえ、初めて聞いた。若い娘たちの失踪事件か。だが、残念ながら、今の処、僕が君たちに教えることができる奇異な情報はないな」

 ヒューは粘った。

「薬屋は犯罪者に接する機会が多い職業だと思うんです」

「殺人鬼が毒薬を買いに来るから?」

「毒薬とまではいかなくとも、ある種の薬」

 首を巡らせて天井を見つめながらヒュー・バードはゆっくりと言葉を繋ぐ。

「一時的に人を眠らせたり……意識を無くさせたり……動きを麻痺させる薬はヤマほどあるんでしょう? これは仮定の話ですが、ぜひ教えてください。そう言う薬を使って娘たちを騒がせずに言いなりにし、連れ去ることはできるでしょうか?」

「できるよ。実に簡単だ」

 アシュレーはほっそりした指を一本立てた。

「但し、一々薬屋に来なくてもいいと言うことも教えておこう。今、君が言ったことに使用できる薬はどの家庭にもあるからだ。それこそ窓辺の万年青オモトなみに誰もが身近に持っている」

 微笑を浮かべて薬屋は言った。

「例えば〈マザーズ・シロップ〉――良家の優しい乳母たちが毎日飲ませてくれるぐずり止めのシロップは皆それさ。阿片が入ってるんだ」

「――……」

「この件に関して僕の意見を言わせてもらえるなら、〈薬〉はさほど重要じゃない。誘拐魔が最も頭を悩ます問題は〈娘たちの居場所〉だろうな」

 ハーブティを一口、啜る。

「十数人もの若い娘たちを隠し続けるにはよほど広い敷地か、特別な場所が必要だと僕は思う。もちろんこれも、“生かしておくなら〟という条件付きだが」

 薬屋の青年は更に、もっと大胆なことを言ってのけた。

「死体になれば娘たちは騒がない。逃げる心配もない。薬など無くても永遠に大人しくしているよ」

 居心地の良い台所でエドガーはまばたきをした。友人ヒューの黒い頭と薬屋アシュレーの銀の頭がチカチカと交錯する――やっぱり、この二人、とてもよく似ていて決定的に何かが違う。でも、その〝何か〟とは何だろう?

 いつの間にか、テーブルの下にいた黒猫が消えていた。

 口に出してエドガーが告げた。

「新月がいなくなってる……」

 アシュレーは全く意に介していない様子で、鼻で笑った。

「あいつは一日中、好き勝手に暮らしてるからね」

「素晴らしい温室、そして、美味しいお茶とお菓子、興味深い話を聞かせてくださってありがとうございました。凄く勉強になりました」

 ヒューが立ち上がって挨拶した。

「では、僕たちはこれで失礼します」



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