第11話
「起きろ、エド!」
翌日。セビロー街にある自宅アパートの居間のソファでエドガーはヒューに叩き起こされた。「起きろったら!」
異口同音に妹も声を張り上げた。
「さあ、早く起きて、お兄ちゃん!」
「……一体なんだよ?」
夜番の仕事を終えて帰宅した後、エドガーはこのソファで夕方まで眠る。出社前にヒューが呼びに来てくれることは今では珍しくないのだが、それにしても今日は早過ぎる。時計を見るとまだ昼の1時過ぎじゃないか。
「どうしても行きたい場所がある。時間がかかるかもしれないからそのまま出社してもいいようにメッセンジャーの制服を着てローラースケートも持参してくれ。昼食はミミちゃんの分も持って来たよ。僕らは歩きながら食べよう」
クルッと反転してミミに紙袋を差し出すヒュー。
「はい、ミス・タッカー。お兄ちゃんを借りるけど許してくれ。お詫びに甘いファッジも付けといたからね」
「全然かまわないわ! わー、トードーね? 美味しそう」
紙袋を覗き込んで歓声を上げるミミ。シュークリームのようなフンワリした皮でソーセージを包んだ最近人気の軽食だ。
「いつもありがとう、ヒュー。じゃ、行ってらっしゃい! 気をつけてね!」
アパートの階段を駆け下りながら自分の分――まだ湯気の立つトードー・イン・ザ・ホールに齧り付きながらエドガーは訊いた。
「で? 何処へ行くつもりなのさ、ヒュー?」
ぶっきらぼうにヒューが答える。
「タルボット薬屋」
「やっぱり気になってたんだね? 一昨日、水晶宮前で見た猫は新月だと思ってる?」
「それもあるが――猫以上にあの薬屋の正体が引っかかるのさ。あいつは胡散臭すぎる。あの男のことをもっと探ってみたい」
「君の勘は鋭いからなぁ! でも、いいのかい?」
少々意地悪くエドガーは訊いてみた。
「あそこへ行ったら新月がいるんだぜ」
予想外に素直に答えるヒューだった。
「だから、おまえについて来てほしいのさ。いいか、万が一あの
こうして、
「ごめんくださーーい」
まだ昼過ぎだと言うのに、店内は薄暗く森閑と静まり返っていた。
「ったく、こんなんで商売していけるのか? 前に来た時は早朝だったけど、昼間でこれじゃあ開業してるとはとても思えない」
陽光がほとんど射しこまない細長い店内を見渡してヒューは露骨にこぼした。
「これじゃ一日中燭台が必要だな。こんな陰気な店で調合された薬なんか俺は御免だ。何が混ぜられているかわかったもんじゃない」
「でもさ、一応ドアは施錠されてないんだから、
「ミャア」
「ぎゃあ、出たぁ!」
猫の声に飛び上がってエドガーにしがみつくヒュー。奥のドアが薄く開いて黒猫の金色の目が覗いていた。
次の瞬間、猫は身を翻した。さながら、ついて来い、というように。
「行ってみよう、ヒュー、大丈夫、僕が先頭に立つから」
「――」
心の中で笑いを噛み殺すエドガー。
(なんか、いつもと立ち位置が逆だな。)
扉を抜けると右手に狭い階段があった。そこを猫はゆっくりと登って行く。エドガー、続いてヒューが後を追う。階段は踊り場を間に挟んで曲がりくねって伸びている。とうとう天辺に行き着いた。その最後の突き当りのドアを猫が押すと……
「うわっ!」
二人は同時に叫んで目を瞑った。暗がりから一転、燦燦と陽が降り注ぐ――
そこはサンルームになっていた!
中央の机の前に薬屋アシュレー・タルボットがいた。この前と同じ、キチンと結んだボウ・タイに黒のチョッキとズボン、シャツの袖を肘までたくし上げている。
猫に続いていきなり二人が入って来たと言うのにアシュレーはちっとも驚いていない。
「悪い、悪い、来店した君たちの声は聞こえたんだけどどうしても手が離せなくて――それで新月に迎えに行ってもらったのさ」
「こんにちは。硝子張りとは豪華ですね!」
先刻の悲鳴は聞こえたはずだ。ヒューは精いっぱいの虚勢を張って快活に挨拶した。
「あんな薄暗い陰気な店の上にこんな立派な温室があるなんて想像もできませんでした。素晴らしい!」
「どうせ褒めるなら、『自家版水晶宮』みたいだと言ってくれよ」
若い薬屋は誇らしげに胸を張る。
「なにしろ曾祖父から祖父、親父――我がタルボット家三代が、店の売り上げのほとんどと情熱の全てをそそいで作り上げたんだから」
「水晶宮と言えば――」
ヒューが単刀直入に訊いた。薬屋自ら話題を提供してくれるとはありがたい。
「一昨日、あなたはそこへ行きましたか?」
薬屋は持っていた
「どうしてそんなことを訊くんだい?」
ここですかさずエドガー、
「実は、その時、僕たちもそこにいて、あなたの飼い猫にそっくりの黒猫をみたんです。それで」
「へぇ、新月に会ったのか」
アシュレー・タルボットは猫を振り返った。笑いながらあっさり認めた。
「水晶宮か、うん、行ったよ。新月を連れて、配達帰りに馬車でね」
ヒューが畳みかける。
「魚を見に?」
「よせよ、僕が行ったのは植物園の方さ。しょっちゅう訪れているんだ」
「何のために?」
「ご覧の通り、職業柄、植物に興味があるからさ」
「気をつけろ!」
いきなりアシュレーが叫んだ。
ちょうど近くにあった最も背の高い植物、その花盛りの鉢に手を伸ばしたヒューを制したのだ。
「ジァイアント・ホグウィート、そいつは猛毒だ。セリ科でロシアのカラカス地方が原産、肌に触れると火傷のような水泡ができて数か月……下手したら数年は苦しむことになる」
「こ、この美しい花が?」
ポン・フィンを巻いた手首を押さえてヒューが喘いだ。間一髪、危ないところだった。
「毒草は皆、美しいよ」
アシュレー・タルボットは頷いた。
「こっち、青紫のお星さまのような花はカロトロピス。キョウチクトウの仲間だ。スノードロップも白くてちっちゃくてカワイイだろ? ピンク色のがイヌサフラン。ほら、こんなに可憐だ。こちら、沈丁花の仲間のオニバシリは赤紫の色が綺麗なだけじゃなくて香りも素晴らしい。嗅いで見てごらん」
温室内を移動しながら薬屋は教えてくれた。
「葉っぱの下に恥ずかしげに咲く小さな紫の釣鐘型の花がハシリドコロ。ベラドンナはもっと大きな紫の釣鐘。向こう側、上向きに咲く紫がマンドラゴラ。中世の伝承では採取した人が真っ先に死ぬので代わりに犬に引っこ抜かせるとか、恐ろしい書かれ方をしてる。滲んだ青紫のトリカブトも優美だな! 僕が一番好きなのはシラーかな。どう? 青くて華奢だろう? こんなに儚げなのに、こいつも球根に恐ろしい毒を持ってるんだぜ」
「君は毒草ばかり育ててるの?」
思わず訊いたエドガーに薬屋の青年は銀の髪を搔き上げてニヤリとした。
「毒は薬でもあるからね」
唇を引き結んで言い直す。
「というか、毒と薬は裏表なんだよ。例えばミカン科のヤボランジ、これは緑内障に良く効く目薬になる。一方、今ロンドン中の良家の居間で大人気の
アシュレーは涼し気にそよぐ緑の葉っぱを千切ってメッセンジャーボーイたちの鼻先に翳した。慌てて仰け反る二人。それを見て声を立てて笑う。
「安心しなよ、これはティーツリー。凄く甘い匂いがするだろ? オーストラリアから来たんだよ。精油として殺菌力がずば抜けている。丈夫で挿し木ですぐ育つし万能の、薬屋泣かせの木さ」
「ほんとだ、いい匂いだね? じゃ、この葉には毒はないんだ」
受け取って深々と匂いを吸い込むエドガー。
「人間にはね。猫には毒になる」
「え?」
ギャッと叫んでエドガーが放り出した葉をヒューが拾い上げた。
「じゃ、猫除けのお守りにもらっとこう」
「残念ながら、君が期待するほどの――猫の命を奪うほどの効力はないよ。せいぜい酔っぱらうぐらいさ」
アシュレーはティーツリーの隣の樹、たわわに揺れている小さな
「それでは僕たち人間も一服しよう。お茶の時間だ。自慢のハーブティを御馳走するよ」
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