第6話

 薬屋に借りた毛布は清潔で心地良かったが、ヒューは熟睡できなかった。悪夢にうなされて何度も目が醒めた。

 夢なのはわかっている。最悪な夢だ。頭の中を幾千もの猫たちが尽きることなく行進して行く。

 そうか、さっきから聞こえるあの耳障りな音は猫の足音なのか!

 ザクザクザク……

 ザクザクザク……

 やめてくれ! 猫の足音なんか聞きたくない。なんて嫌な響きだろう。何かに似ている、そう、あれだ、墓を掘る音。

 ザクザクザク……

 ああ、早く、朝が来ますように。


 朝が来た。

 水車小屋の風景は一変した。

 太陽が昇るや、薬屋の言葉通り猫を求めて近隣の村々から人々が三々五々集まって来た。

 水車小屋の前の空き地に並べられた箱に入ってまったりのんびりしている猫たちを物色して気に入りの一匹をもらって行く。

「決めた、この子にしよう」

「わしはブチのそいつを――」

「兄ちゃん、その白いのをみせてくれ」

「これですか? ありがとうございます」

「ありがとうはこっちだよ。これで家の中で会話ができる。女房が死んでからずーっとお喋りの相手がいなかったからね」

「薬屋の猫は手入れが行き届いていて、どれも元気で美しいって評判よ!」

「先月、従兄弟がもらって来たのを見て、私しゃ、すっ飛んで来たのさ」

 手伝ったエドガーもてんてこ舞いだ。昼になる前に箱は空っぽになった。

「あの、もう残っていないんですか?」

 遅れてやって来た若い奥さんがエドガーを呼び留めて尋ねる。

「あ、すみません、さっき最後の一匹がもらわれて行ってしまいました」

「やだあ! えーーーん、私の猫ちゃんはどこ? えーん……」

 手を繋いでいた小さな娘が泣きだした。薬屋が駆け寄って来る。

「ごめんよ、お嬢ちゃん。来月、また来るからね。約束するよ、次は今日のよりもっと可愛いのを連れて来るからいい子で待っててね」

「あと一匹、いるじゃないか」

 猫たちがいなくなって安心したのか、水車小屋から出て来たヒューが忌々し気にそちらを指差した。

 見ると荷馬車の御者台に例の黒猫が座っている。薬屋は苦笑して銀の髪を搔き上げた。

「ザンネン! あいつはウチの猫なのさ」

「でもほんとに凄い人気だねぇ! 猫市とはよく言ったものだ」

 未練いっぱいに後ろを振り向きながら帰る母子連れに手を振りながら、大いに納得してエドガーが笑う。

 薬屋も笑い返した。

「フフ、最初は薬の出張販売がてら始めたんだよ。猫はおまけだったんだ。なにしろウチの奴が夜な夜な猫を引き連れて帰って来るんだけど、とても面倒見きれないからね。誰か、猫が好きな人がもらってくれないかなと思って」

 心底楽しそうに青年は言う。

「今じゃ、薬より猫目当ての人の方が多い。この村だけじゃなく噂を聞いて近隣一帯からやって来るようになった」

 確かに、傍らには各種薬の箱が並べられている。そちらの方も中々繁盛していた。

「今日は君が猫を担当してくれたので僕は落ち着いて薬売りに専念させてもらったよ。おかげでいい商売ができた。お礼と言っては何だけど、昼飯を一緒にどうだい? この村の食堂は中々イケるよ」


 村の宿屋兼居酒屋兼食堂は、その名も〈ジョージとドラゴン亭〉。

 3人はロンドン街道に面した外のテーブルに陣取った。この道をそのまままっすぐ行ったら、やがてローマ人が築いた城砦に至る。尤もロンドンから放射状に延びる古い街道の行き着く先はほとんどそれだが。

 注文した料理を待ちながら、まずは当店特製ピムスで乾杯した。ミントにルリジサの葉、オレンジや苺キュウリまで入れてレモネードで割ったピムスは井戸水にキリリと冷やされていて最高に美味い。ロンドン市内の手押し車ワゴンで売ってるものなんか目じゃない。

「最悪な出会いだったけど、終わり良ければ総て良し、ということで」

 薬屋の店員は握手の手を差し出す。

「遅ればせながら――僕の名はアシユレー・タルボットだ。よろしく!」

「こちらこそ、よろしく!」

 エドガーも元気よく名乗った。

「僕はエドガー・タッカーです。そしてこちらが――」

「ヒュー・バード」

 ヒューはよろしくとは言わなかった。ニコリともしない。

 よく眠れなかったせいだ。ずっと悪夢と耳鳴りに悩まされ続けた。行進する猫たちとザクザクなる足音。但し、不機嫌の理由は他にもある。今も折りあらば自分の膝に着地しようと狙っているあの黒猫……

 ヒューの視線の先に気づいて薬屋アシュレー・タルボットが言い足した。

「おっと、あっちも、もう知ってるだろうけど正式に紹介するよ。新月だよ」

 薬屋の証言通り、この店のスターゲイジーパイの素晴らしいことと言ったら! 

 これは、元々は豪快な漁師ためのパイだ。卵やジャガイモを混ぜた生地を突き破って4匹の魚が初夏の空を睨んでいる。本場のフォークランドではいわしだがここでは川魚だった。そのうちの一匹の頭を毟り取ってアシュレーは黒猫に投げてやった。

 うっとりと猫を眺めながらエドガー、

「ほんと、綺麗な猫だね、新月……」

「うん、それにこいつは綺麗なだけじゃなく、物凄く賢いんだよ」

「へー、そういうとこもヒューに似てるや。ヒューもね、そりゃ頭がいいんだ。ロンドン警視庁の警部補に頼りにされるくらいなんだから!」

 ヒューは歯を食いしばって警告した。

「だから、俺とあの化け猫を一緒に語るのはよせ」

 無視して更にエドガーは黒猫を絶賛する。

「新月と言う名もピッタリだな!」

 新月の空に月は見えない。真っ暗闇だ。今悠々と魚を食べている新月はまさにそれ、体中に闇を封じ込んでいるように見える。ふいにエドガーは夢の中で見た猫のことを思い出した。月が出た刹那、黒猫の体は銀色に変わったっけ。その色こそ……

(眼前の薬屋の青年の髪の色だ!)

 改めてエドガーは気づいた。アシュレ―・タルボットとヒュー・バード。

 こうして見比べると二人は写真のネガみたいじゃないか。

 銀髪に暗い色の目の薬屋、黒髪に灰色の目のメッセンジャーボーイ、そして? 

 テーブルの下の新月はその両方の色を持っている?


 ヒューとエドガーは薬屋の荷馬車に同乗してロンドンへ戻った。

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