第7話

 薬屋アシュレー・タルボットは二人をヒューの自宅近いソーホーのブルーア通りで下して去って行った。

「クソッ。早く帰って体を洗わなきゃ。猫の匂いを落としたいんだ」

 遠ざかって行く荷馬車には一瞥もくれずヒューが毒づいた。

 実は帰りの馬車でも一悶着ひともんちゃくあった。

 絶対、黒猫と一緒に乗りたくないと言い張ったヒューが御者台のアシュレーの横に座り、エドガーが黒猫と一緒に荷車の中に乗った。ヒューの猫嫌いは筋金入りのようだ。

「でもさ、荷台の方が快適だったよ。黒猫はおとなしくずっと箱の上で寝てたから、僕もついついグッスリ寝込んじゃった」

「箱?」

「昨夜、猫を入れて運んだあの箱さ」

「空箱をまたロンドンまでわざわざ持って帰ったのか? 処分すればよかったのに。ほんと、変わった奴だな」

 微かな違和感を覚えてヒューは眉を寄せた。とはいえそれは一瞬のこと。

「いけない、石鹸が切れかかってたんだ、買ってくるから待っててくれ」

 通りの角にある雑貨屋へ飛び込むヒュー。その飾り窓ウィンドウの前でエドガーは目をみはった。

「あ! これは――」

 石鹸を買って出て来たヒューの袖をガッシと掴む。

「聞いてよ、ヒュー! 僕がこの前、薬屋で積み上げた箱の上に黒猫の幻を見た謎が解けた!」

「?」

「これだよ、ヒュー、見て!」

 エドガーが指差しているのは雑貨屋の窓に貼られた一枚のポスターだ。

 フランスはマルセイユの洗剤会社Femerが宣伝用に作成したもので、民族衣装をまとった世界中の女性の中央に塔のように高々と箱が積み上げてある。その箱に〈LE CHAT〉と自社の洗剤名のロゴが入っていて、天辺には燦然と光り輝く一匹の猫が得意顔で乗っていた。

    ※このフランスの洗剤会社のポスターは現存します。

「このポスターを僕、以前に見たことがある。母さんの買い物に付き合った時だったと思う。だから、薄暗い薬屋の店内で似たような構図――高く積み上げた箱を見て、思わず過去に見たこの絵と重なって、猫がいるように錯覚しちゃったんだ。そうに違いないよ」

「ふーん、なるほどな、おまえの推理には一理ある。深層心理とか自己暗示と言う奴だな」

 博学のヒューは即座に納得した。

「最近の人間の脳や精神に関する研究の進歩には目覚ましいものがあるからな。ドイツの若い学者フロイトは『夢判断』という論文を発表して話題になってる。なんでも、ヒトが見た夢から意識下の心理を探る研究で、心的外傷トラウマなんて耳新しい言葉を使って――」

 だが、エドガーはヒューの最新の精神や心理学についての講釈を最後まで聞くことができなかった。

「ヒュー! エドガー!」

 突然背後で響く声。

 ヒューは飛び上がり、エドガーは歓喜した。

「うわ、姉貴?」

「あ、アンジーさん!」

「なんて幸運でしょう! いい処で会ったわ。これから私、家へ帰る途中だったのよ」

「クソッ、猫の次は姉さんかよ。どうも最近ついていない。エド、おまえは俺の幸運のお守りラッキーチャームだったけど、どうやら効力が薄れてきたみたいだ」

「何言ってんだよ、アンジーに会えるなんて最高に運がいいじゃないか! アンジー、お久しぶりです。あ、お荷物お持ちします」

「ありがとう、エドガーはいつ会っても紳士ね? あら、背が伸びた? 凄く大きくなってる。さぁ、おいしいお茶を御馳走するわ。もちろん、今日もお屋敷から素晴らしいお土産をいただいてるのよ。じゃ、早く帰りましょう!」

 こうして――エドガーもお邪魔してヒューの住居で楽しいお茶のひとときとあいなった。


 ヒューの姉、アンジー・バードはロンドンの名家サマセット家で住み込みのメイドとして働いている。サマセット家の大豪邸はメイフェア地区にあり、時折り弟が一人で暮らすソーホーの住居へ様子を見に帰って来るのだ。その際、必ずサマセット夫人からのお土産を携えて来る。今日は奥様お手製のビーバーキャッスルケーキ。勿論由緒正しいラッドランド公爵家譲りのレシピを使用しているそう。自分には至って薄く、少年たちには大きく切り分けてお茶を入れてくれた。

 この、アンジーが入れてくれるお茶が絶品なのだ。特にエドガーにとっては。

 それにしても、昨日今日と最近は美味しいものばかり食べているな、とエドガーは思った。キース・ビー警部補のステーキパイとレーズンプディングに始まり、薬屋アシュレー・タルボットがご馳走してくれたピムズとスターゲイジーパイ、しめはアンジーの紅茶とビーバーケーキときた。こんな風に人生が続くならこの世は悪くないかも。

「あー、やっぱりアンジーのお茶は世界一の味だな!」

「そうか? 単にサマセット家が分けてくれた上等な茶葉のせいだろ」

「ありがとう、エドガー」

 にっこり笑うアンジー。この微笑みがまた最高の気分にさせる。

「それに引き換えヒューの可愛くないことったら!」

「何だよ、この間までは俺のこと『自慢の弟』って言ってたくせに」

「それはあなた以外の男の子を知らなかったせいよ。ああ、素直で可愛いエドガーが弟なら良かった!」

 もうひとかけケーキをエドガーのお皿に乗せながらアンジーが言う。

「そうだ、お菓子やお茶だけじゃなくて今日は他にも見せたい物があるのよ。奥様に特別にお借りした素晴らしいもの」

 ヒューはうんざりした顔で、

「ほらきた、またアンジーのお屋敷自慢がはじまった!」

 弟の憎まれ口は無視してアンジーが籠から大切そうに取り出したのは――美しく装丁された二つ折りの冊子だった。開くと、2面に写真が張られている。可愛らしい少女のポートレートだ。

「物知りのあなたなら、もちろん知ってるわよね、ヒュー。最近こう言った肖像写真の撮影が流行しているのよ」

 アンジーの菫色の瞳が輝く。

「ふつうは写真館で撮影するんだけど、そこはサマセット家。特別にお屋敷に有名な写真家を招いて撮ったのよ。私たち使用人も見学させてもらったわ。ああ、ほんとに、素敵だった!」

 夢見るように両手を組んでアンジーは続けた。

「シメオン・コリンズと言う当世ロンドンで一番有名な写真館のオーナー兼写真家が馬車2台を連ねてやって来たのよ。機材や舞台装置、道具類丸ごと運び込んで」

「へー、そりゃシンデレラの舞踏会並みだな! きっと馬車はカボチャで御者は鼠だったろ。目を凝らしてよく見たかい、アンジー?」

「まぜっかえすのはよして、ヒュー」

 アンジーは憤慨して頬を膨らませた。

「あなたってほんと、デリカシーがなくて女心がわからないのね。どんなに賢くても今に酷い目に合うわよ。ねぇ、エドガー、一緒にいてこの子、かなりイラッとくるでしよ?」

「いえ、ヒューはこの世で一番の良い友達です」

 棒のようにピンと背を伸ばしてエドガーが答える。

「あら、本当?」

「はい、僕たち最高に仲良くやってます。今となっては弱みまで知るくらいに」

「ブッ」

 お茶を吹き出すヒュー。

「弱み? まぁ、知らなかった! この子にそんなものあるの? セロリが嫌いなのは知ってるけど、他になにか?」

「まさか、ひょっとしてアンジーも知らないんですか? ヒューは猫が――ムググ」

 エドガーの口を塞いでヒュー、

「へー、よく見るとこの写真、面白いじゃないか! 特に、月に座ってる一枚、構図といい、ポーズといい芸術の域だ!」

「そうでしょう、ヒュー! あなたもそう思う?」

 弟の弱みの話など一瞬で消し飛んで姉はポートレートを覗き込んだ。

「こちらの風船の海の中で木馬に乗っているのも可愛らしいけど、この、お月様、いいでしょ?」

 サマセット家の二人の姉妹が大きな三日月の上に腰かけて笑っている。

「ペーパームーン・ショットといって今一番人気の構図なんですって」

 アンジーは小さく息を吐いた。

「ああ、私もこんな風に撮ってみたい。もちろん、ロンドン1の写真館で、なんて我儘わがままは言わないわ。なんでも、町の写真屋さんでも撮ってもらえるそうよ。メイド仲間のジュリアなんか、お嬢様の撮影を見た翌日に写真屋にすっ飛んで行って撮影したのよ。そっちも見せてもらったけど、中々のものだったわ」

 うっとりと働き先の令嬢たちの写真を見つめるアンジー。その長い睫毛に見蕩みとれながらエドガーは言った。

「僕たちも撮ろうよ!」

 姉と弟はほぼ同時に顔を上げた。

「え?」

「え?」

「町の写真館でいいなら、僕たち、ヒューとアンジー、そして僕と妹のミミ……4人で一緒に写真を撮りに行こう!」

 部屋いっぱいにエドガーの明るい声が響き渡る。

「ほら、僕たち、この間テレグラフ・エージェンシー社の社長のロイター卿から直々に特別ボーナスもらったじゃないか。それを元手に僕たちも肖像写真――ポートレートを撮ろう! 僕は妹のミミを連れて行くからアンジーとヒューも一緒にさ!」

「素敵! いいアイディアだわ!」

 手を叩いて喜ぶアンジー。片やヒューは一蹴した。

「くだらない」

「そんなことないよ。こうして僕ら仲良しになった記念にさ。写真は一生残るものだろ? 僕はこのテレグラフ・エージェンシー社のメッセンジャーボーイの制服姿を孫や曾孫にも見せたい。ヒュー、君と言う素晴らしい友達、そして綺麗なお姉さんのアンジー。妹のミミもね、可愛いうちに写しておきたい。あいつ、きっとすぐ生意気になるにきまってるから『お兄ちゃんお兄ちゃん』て慕ってくれてる間にその姿を残しておきたいよ」

「ったく、おまえと言う奴は突然突飛なこと言いだすよな?」

 呆れた果てたというようにヒューはカリカリと頭を搔く。

「口下手でシャイな恥ずかしがり屋なのか、大胆不敵なのか、最近ちっともわからなくなった」

「わからないのは僕もだよ。ヒューはクールで勇気があって頭脳明晰なのに、たかが猫一匹――ムグググ」

 また口を塞がれるエドガーだった。

「それを言うな!」

「まぁ! 大切な親友に乱暴はおよしなさい、ヒュー!」

 割って入るアンジーに、遂にヒューは頷いた。しかも、意外にも、その顔は微笑んでいた。

「わかったよ、皆一緒にその肖像写真とやらを撮ろうじゃないか。バード姉弟、タッカー兄妹で、代金は俺とエドガーが半分ずつ出すことにしよう」

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