第14話

 数十分後――

 タルボット薬屋の前に黒い警察馬車が止まりキース・ビー警部補と彼に率いられた十数名の精悍な警官たちがドッと中へ入って行った。


 薬屋から距離を置いて、ヒューとエドガーは沿道に並んだ屋台や手押し車ワゴンの間で待機していた。

 ロンドンはどの通りもそうだが、薬屋の真向いの道の両側もこの種の店がずらりと並んでいる。

 先刻ローラースケートを預けた羊の足を吊るした屋台、熱い鰻を売る屋台、焼きジャガイモ、ハムサンド、プラム入りプティングにエンドウ豆のスープ……いつもなら鼻をくすぐる匂いが今日ばかりは全く心に届かない。

 そんな二人の元へキース・ビー警部補がやって来たのはかなり時間が経過した後だった。

 ニュー・スコットランドヤードの新星、切れ者、蜂の一刺しビーは静かに、しかしきっぱりと首を振って言った。

「何もなかった」

「え?」

「まさか?」

「地下室の木箱の中は土だ。それ以外は何も入ってなかった」

「土だけ?」

 ヒューが一歩前へ出る。

「ちゃんと調べたんですか?」

「勿論だ。優秀な警官たちが全部の木箱を徹底的に調べた」

 キース・ビー警部補はまばらな口髭をしごいて、

「薬屋が言うには、あそこに入っているのは培養土だとさ」


―― ここにあるのは全て薬草を育てるための土です。曾祖父以来受け継ぎ調合してきた特製の、門外不出の土ですよ。土がどんなに貴重か、育種家や園芸家ならご存知と思います。


「で、でも、奇妙過ぎる。あいつ、わざわざ郊外の水車小屋から山ほど土を持ち帰ったんですよ」

「そのことも訊いてみたよ。だが……」


―― あそこ、水車小屋の土は他所では得難い水苔を含んだ凄くいい土なんです。


「そんな――」

「いやはや、僕には庭いじりなんて悠長な趣味はないが、将来引退して田舎にコテージを持った時のために、大いに勉強になったよ」


―― 土にはまず基本用土と言うのがあって、それらが赤玉石や真砂石や軽石です。そこへ混ぜるのが補助用土。腐葉土、ビートモス、石灰、堆肥などなど。これら肥料を含み養分となる諸々を基本用土に加え、更に水はけなどを調整して作った土が培養土です。この培養土は用途に合わせて微妙に違います。種まき用や差し木用、野菜用や草花用……木箱がいくつあっても足りませんよ。


「そういうわけで、地下室に土を入れた箱が置いてあっても全く不思議はない、ということだ」

 警部補は腕組みをして続ける。

「君たちが教えてくれた通り、薬屋は銀行家の姉妹が失踪した当日、水晶宮に行ったことは認めた。但し水族園ではなく植物園だと言っている」

「そんなのは何とでも言える」

「まぁな。だが、あの日水晶宮近辺にいた全ての人をしょっ引くことはできない。我々ニュー・スコットランドヤード、ロンドン警視庁は世界に轟く近代警察なのだから。確実で決定的な証拠がない限り、どうにもならないのさ」

「僕はミスったんですね?」

 ヒュー・バードの顏は苦痛に満ちていた。

「ガセネタ……見当違いの間違った情報であなたに無駄足を踏ませてしまった――」

「いや、そんなことはいい。気にすることはない」

 警部補は一語一語噛みしめるようにして言った。

「これは全て僕自身の失策ミスなのだ。いくら捜査に行き詰まったからって、君たちみたいな子供――善良な勤労少年に頼った僕が悪い」

 グイッと鹿撃ち帽ディアストーカーを押し上げるキース・ビー警部補。

「明日からは初心に戻って地道にやるさ。まずは水晶宮一帯を徹底的に捜索する。どんな些細な痕跡でもいい、事件解決に繋がる情報を必ずや発見してみせる」

「……申し訳ありませんでした」

 絞り出すようなヒュー・バードの声。項垂うなだれた少年の、その肩をポンと叩いて警部補は警察馬車の方へ戻って行った。

「ヒュー……」

 それ以上、エドガーも言葉が出なかった。

 うつむいて地面を見ていたヒューが身動みじろぎする。エドガーはヒューの灰色の瞳の先を追った。

 タルボット薬屋自慢の硝子張りの温室は最上階の裏側にある。通りに面した表側は至って平凡な煉瓦造りだ。その三階の窓にアシュレー・タルボットの銀色の頭が見えた。

 薬屋の青年はじっと二人を見下ろしていた。更にその上、もっと高い屋根の上に守護怪物ガーゴイルのごとく座っているのは新月。

 暮れ始めた空は濃紫に薄紫、そして紅蓮くれんに暗紅、カーマイン……温室で見た最も不吉な毒花の色が溶け出している。その真ん中に針金で吊り下げたような薄っぺらで偽物臭い半月が白く滲んでいた。



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