10-2

 先生は藍色の液体が床に広がっても、驚いた顔をしなかった。


「……救急車、呼ぼうか。正門じゃなくて北門の方に来てもらおう。平野くん、病院まで付き添ってあげて」


 先生が携帯で119番を押して話し始めた。周囲は蘭の血が青いという事実と、真理の悪事が明るみに出て制裁を受けたという事実を前にして、ただオロオロしていた。


「蘭? らーん?」

「ひ、響也っ、ごめん……けほっ」


 咳き込む蘭を支え直した。随分と痩せ細っていた。


「私の血って、青かったんだ……これが、や、けほっ、薬品の、色……だかっ、だから、採血、の、時に、目隠し……」

「無理して喋らなくていいよ」



 僕が蘭の背中をさすっていると、容体は少し落ち着いたようで、呼吸のリズムが戻ってきていた。


 蘭は右手を伸ばして僕の頬に触れた。僕は頬まで藍色に染められた。


「響也」

「ん?」

「ありがとう。私の役目は終わりかな…………」

「終わり……?」

「愛してるよ」


 蘭は微かに笑顔を見せると、その細さからは考えられない力で僕の顔を引き寄せ、唇を重ねた。その直後、蘭の全身から力が抜けた。


「ら、蘭?……ちょ、おい、蘭?!」

「平野くん、連絡したからもうすぐ着くと思う」


 先生を振り返ろうとして、唇まで藍色になっていることに気づき、慌ててセーターの袖口で拭いてから、分かりました、と答えた。


 その直後に救急隊が到着した。


 救急隊の人達は既に群青色に変わった現場を見て、一瞬目を丸くした。しかし、こうした異様な場面にも耐性はあったのだろう。その後すぐに救助に当たった。


 救急隊の人と一緒に北門まで彼女を運んだ。息は微かに聞こえるものの、意識はなくなっていた。


「名前を呼び続けてあげて」


 先生と救急隊の人にそう言われ、僕は救急車の中でずっと蘭の手を握って名前を呼び続けた。意識は戻らないまま、例の病院へと搬送された。


 ストレッチャーは一般病棟ではなく、僕が雛さんと話した研究棟の中へこっそりと運ばれた。ここまででいいよ、という救急隊の人に全力で逆らって、僕は部屋までついていった。




 雛さんと話した隣の部屋にストレッチャーは入れられた。ドアを開けると、雛さんと同い年くらいの白衣を着た男性が腕組みをして立っていた。彼は僕を見た。


「君、セーターも顔も真っ青だな……吐血したのか。どういう状況だった?」


 僕は今日だけでなく、蘭がいじめられてからの日々を手短に話した。彼がここにいる時点で蘭の正体は知っていると思われたので、蘭がいじめに遭った理由も話した。


「うーんそうか」


 そう言うと彼は、ちょっと彼女のこと診るから、と僕を一旦部屋の外に出した。15分くらいして、再び僕を招き入れた。


「今色々検査してみた。君、きっとニュースとかで彼女のこと知ってると思うけど…極度のストレスに耐えきれなくなって急激に痩せて、体の免疫機能が異常を起こした。その結果、彼女の中にある薬の成分が彼女の内臓や細胞を攻撃する事態に陥っている。ここからの回復は難しいな……。残念だが、新たな彼女を造るしかない」


 息をしているかもよく分からない蘭を見ながら、彼は淡々と告げた。胸元には、“上島拓也”と書かれた名札がついていた。


「……は? 造る?」

「ああ……残念だけど、彼女の役目は終わりだ。もうすぐ心臓も止まる。蘇生しても元通りの機能は発揮しないだろう。でも、よく頑張ってくれたと思うよ。十分合格だ」

「合格って……自分で倫理を度外視して造っといて、最後には使い捨てかよ」


 僕の言葉は、いつの間にか少々乱暴なものになっていた。


「あんた……あんた、それでも父親かっ?! 何で同じ本を読んでるのに、こんなにも考え方が変わるんだよ?!」

「父親……?」


 僕は彼の目を見て告げた。


「僕は、平野雛とあなたの息子です」


 彼は目を丸くして、でもすぐ嬉しそうな顔になった。


「え? ええ?! 本当に?! 君が響也くんか! 俺の息子……初めて見たよ! 確かに、よくよく見ると俺に似てるなぁ!」

「そういうこと言ってんじゃないんだよ」

「な、何だよ、親子の対面だってのに」


 なぜここで笑顔を見せられるのか。蘭の顔はだんだん青白くなっていた。


「読んだんだろ? NBJの話。どこで道を間違えた」

「間違えてはいないよ。みんなが俺についてこれないだけだ。俺達の息子なら、俺の考えは1番理解できるはずだろう?」

「いや理解できない。なぜ彼女に愛着の1つも湧かない? わざわざ上島って名字つけて、オルキデアの日本語を名前に当てたんだろ? なのに何で今も、見殺しにしてくんだよ」


 一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、ああ、雛から全て聞いたのか、と彼は納得して、そんな人聞きの悪い言葉を使わないでくれ、と言った。


「愛着はあるよ、いっぱい。大切に育てたし、綺麗な藍色の血をしてるだろう…最初は藍って名前でも良かったんだけれど、これって音読みするとランって言うんだ。そしたらNBJのサイボーグの名前を思い出してさ。色々な思いを込めて、蘭にしたんだ。でもやっぱり元々は試作品というか、研究材料だから……殺すわけじゃないんだけどさ。彼女の死は決して無駄にはしないよ。今後、もっと長く生きられるような工夫をする。もしどうしても目の前の彼女を救いたいなら響也、自分でやってくれ」


 ああ、と僕は悟った。


 多分彼にも、大事に想う気持ちはある。雛さんを愛したように。


 でも違ったんだ。価値観が。


 彼は蘭の死を反省し、活かすことで遠い未来の苦しみを救いたい。僕は、今生きている目の前の彼女を救いたい。


 同じ本を読んでも、僕達は異なる視点を持ったんだ。僕はオルキデアが消えた時の文章を読んで、泣いた。恐らく彼は泣かなかったのだろう。


「時間がない。救いたいならすぐに他のスタッフを呼ぶんだ」



 僕は考えた。全身全霊で、考えた。


 蘭は生きたいのか? 救われて、僕に愛されるだけで本当に幸せか? 今までに負った傷は癒えるのか?


「……やっぱり、できません」

「……いいんだな?」


 正しいかどうかなんて、分からなかった。


 けれど、終わらせるべきなんだ。全てを。



「蘭が自分の宿命に苦しむのを、ずっと近くで見てきたから」

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