1. 白百合色のdawn
1-1
僕には、母親に育てられたという感覚がない。また、そうした記憶もない。
アルバムを見返しても、親子の写真は結構少ない方だと思う。
なぜなら、生後1ヶ月までしか一緒にいられなかったからだ。
そんな僕の母親の名前は、平野
そんな“天才科学者”は僕を生んですぐ、既に彼女の研究の本拠地となっていたアメリカへ"戻って"しまった。あまりにも無力で
雛さんが当時どんな研究をしていたのかまでは知らない。でも母親の代わりに一生懸命僕を育ててくれた祖母は、科学誌に自分の娘、つまり僕の母の論文が載る度に皺の出来た目元をさらにくしゃっとさせて、嬉しそうにこう言った。
「ねぇ見て、また
“Sue”というのは、雛さんがアメリカで研究員に呼ばせていたあだ名だった。“雛”という字は、すう、とも読むらしい。その上、彼女はオーストラリアのクオーターだ。……つまり、僕の曽祖父がオーストラリア人ということだ。科学誌に載った写真を見る限り、彼女は確かに“Sue”と呼んだ方がしっくり来そうだった。
もっとも僕は、アジア系の顔だ。たとえ、オーストラリア人の血が8分の1入っているとしても。だから僕は半信半疑だ。明らかにヨーロッパ系の曽祖父の写真を見ても、僕はオーストラリアに縁があるなどと思うことができないでいる。
だから、ちょっぴり羨ましかった。幼い頃から美人と言われ、さらに“天才科学者”としての実績も堅実に積み上げていた彼女が。
僕が雛さんと会えるのは、年に3回だけだった。1月と、6月と、8月。その回数が増えることも、減ることもなかった。雛さんはこの時期を頑なに守ってやって来た。
17歳の2月時点で、僕は雛さんと49回しか会っていなかった。僕の誕生日は1月だ。もし今までの時間を雛さんと過ごしていたら、約6200回は会えたはずなのに。実際に僕が雛さんと顔を合わせた回数は、一般家庭の実に120分の1。……その少なさに、改めて驚いたものだ。
時代の最先端を行くリケジョに、“お母さん”なんて親子感ありふれた感じは一切しなかったし、“Sue”と呼べば、それはそれで変に馴れ馴れしい。
だから僕は間をとって、彼女を“雛さん”と呼ぶことにしていた。我ながら、この何とも形容しがたい微妙な親子関係にはぴったりな呼び方だと思っていたし、雛さんもこの呼び方を拒まなかった。僕が初めて“雛さん”と呼んだのは、3歳の8月の時だった、と祖母は正確に覚えていた。会う回数が少ないのだから、覚えているのも当然といえば当然のような気もする。
そんなわけで僕は“雛さん”と呼んでいたが、やっぱり“Sue”の方が合いそうな人だった。
ハーフ顔の雛さんは、僕に会うと決まって英語でしか話してくれなかった。帰国したからと言って日本語を話してしまうと、英語で慣れた感覚が消えてしまうらしかった。というかアメリカにい過ぎて、もはや日本語を忘れていたのかもしれない。頑なに日本語で話しかけても、やっぱり英語が飛んで来た。途中、英語で話してるのに呼び方だけ“雛さん”なのはおかしいかな? と幼心に思ったのだけれど、やっぱり僕には“Sue”と呼びかける勇気が出なかった。
いつしか僕は雛さんへの抵抗を諦め、彼女の“来日”に備えて祖母と英語を勉強した。6歳くらいの時には、簡単な英会話なら結構できていたと思う。
雛さんは、年々英語が上達していく僕を褒めてくれた。ただいつだって彼女は“天才科学者”のままで、褒め方を母親らしいと思えたことは一度もない(アニメなどで、母親らしい褒め方を理解したつもりでいた)。でも僕は、雛さんに年に3回も褒めてもらえるのがとても嬉しかった。
普通の親子関係じゃないことは、早くから自分なりに理解していた。でもそれを嫌だとか、恵まれてないとか思ったことはなかった。年に3回会うだけの関係性の中で、雛さんは僕に十分な愛情と承認をくれたのだった。
雛さんとの話題は、主に僕の日本での生活についてだった。ただやっぱり僕は、雛さんが僕と会えない間に何をしているのかをちゃんと聞きたかった。
けれど雛さんは、僕がどんなに研究内容を聞いても、曖昧に答えるだけだった。そして決まってこう言うのだった。
「響也、間違っても科学者になろうなんて思わないでね。ちゃんとパートナーを探して結婚して、家族を支えてあげて。……響也なら、それができるはずだから」
もちろんこのセリフも英語で言われたのだけれど、和訳するとこんな感じだった。
どんなに世界的な評価を受ける“天才科学者”でも、自分の人生に多少の悔いはあるようだった。
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