7-2
NBJの物語。母が私にプレゼントしてくれて、拓也に渡り、響也に渡り、母の棺へと戻っていった、あの本。私達家族を繋ぐ本。
「忘れてないよ……1番よく覚えている物語だよ」
拓也は私の肩から手を離してホワイトボードに近づき、“歩く特効薬”の隣にマグネットで1つのグラフが書かれた紙を貼った。日本のガン患者数の推移を示したものだった。
「あの話を読んだ時、自分も英雄になると誓ったんだ。俺はあのサイボーグを造りたい。本気でそう思ってる。だから一緒に英雄になってくれないか? 俺達が英雄になる時は、もうすぐそこまで来てるんだよ。……俺は医療先進国のアメリカで、長らく医療関係の研究に携わってきた。日本人の俺に今できること、それがこれなんだよ」
彼はそのグラフを指差した。
「日本では今、高齢化に伴ってガン患者の数も少しずつ増えている。死因で1番多いのはガンなんだ。俺にできること……それは、ガンによって亡くなる人の数を減らすことだ。実はもう、特効薬が開発できそうな段階にある」
彼はそう言うと、研究データをまとめた紙の束を持ってきた。私はすぐに目を通した。
従来、ステージが進行していたり、大きくなりすぎたりしていたガンは主に化学療法で小さくして、ある程度小さくしてから外科手術で切る、それが一般的だった。でも化学療法の副作用に苦しむ患者さんはとても多かった。そんな中で彼が開発しようとしていたのは、悪性の腫瘍を瞬く間に良性に変えてしまうものだった。動物実験の段階では、切れないくらいに悪化していても、大きくなっていても、7割くらいの腫瘍がその薬によって良性に変わった、というデータが添付されていた。言うまでもなく、画期的な研究だった。
「副作用の研究も含めて、本当にあと少しなんだ。どうしても協力してほしい」
「確かにこの研究はすごいと思う、でも……」
まだ拒む私に、拓也は畳み掛けるように言った。
「この薬は、人間の環境に近い生体内で循環させておく方が効力に持続性がありそうなんだ。だからどうしても造らなきゃいけないんだ。この研究は、今後の歩く特効薬研究の布石にもなる。第一歩として、是非やるべき研究だ。……それに、もしこの歩く特効薬がもっと早くに誕生していれば、雛のお母さんも救えたはずなんだよ」
その言葉は、私の心を大きく揺さぶった。
末期癌で亡くなった母。死に目にも立ち会えなかった私。心の底から後悔していた。
私のやりたいことを1番に理解してくれて、響也の面倒を見てくれて、息子がいるくせにたまにしか帰国できない私を、いつも温かく迎えてくれた。母親失格だって泣いた時には、完璧な母親なんてどこにもいないよ、研究者としてのカッコいい姿を見せることは、雛にしかできないすごいことなんだよって慰めてくれた。
なんで死んでしまったの。戻ってきて。会いたい。お墓の前で泣きじゃくった。もっと早く研究が進んでいれば、母は……。私は、彼女の人生を奪ってしまったのだろうか。
後悔の後に押し寄せたのは、罪悪感だった。母みたいに亡くなる人を1人でも減らしたい。この時、本気でそう思った。
拓也の想いと私の想いが今、重なった。私は立ち上がっていた。
「…………拓也。私、決めた。協力する」
「雛なら、そう言ってくれると思ってた。ありがとう」
拓也は私をそっと抱きしめた。私は彼の胸で泣いていた。泣いて震える私を、拓也の手が強く包んでくれた。拓也の温もりに包まれながら、私は彼を改めて信じよう、ついていこうと誓っていた。
「今後の研究は、俺達で極秘に進めよう」
その瞬間にもう、私達の研究者としての人生は終わりを告げていたのだった。
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