6-4
「今回私が出張で日本に来た理由は、ここにある」
雛さんは冷蔵庫に近づき、それを指差した。
「ここに、採血した血液が保管されているの」
雛さんは日本語を話していた。雛さんの日本語を聞くのは生まれて初めてだった。僕の話す言語も自然と日本語になっていた。
「え、じゃあ、彼女のもここに……」
雛さんは片方の眉を動かした。「やっぱり、何か知ってるのね」
あ……と思ったけれど、雛さんこそ、僕以上の何かを知っている。ここで引き下がるわけにはいかなかった。僕はこくりと頷いた。
「これは、患者さんのためなの……この血液を、患者さんのために、利用してる」
利用? 患者さんのためなら、良いことに使われているのは確かだけど…でも、なぜ蘭の血液が特別に利用されなければならないのだろう。
「……その目的、初めて聞いたよ。本人も知らなかった。半ば強制的にここに来させられて、何も言われず、目隠しをした状態で採血されていた。週2回に採血が増えてからは貧血が悪化して、体に負担がかかるからやめてほしいって訴えたのに、誰も聞く耳を持ってくれなかった……そう聞いた。患者さんを治すためなら、何でそれを正直に伝えないの? 何で彼女でないといけないの? 彼女は患者ではないけど、でも1人の人間なんだよ?……雛さんが採血について知ってるってことは、何か関わってるんでしょ? 雛さんから現場の医者とか看護師に言ってくれよ、いくら何でも週2回はやりすぎだって、目的くらい教えてあげろって」
雛さんは、ゆっくりと首を横に振った。
「その必要はないの」
「なぜ? どう考えても必要でしょう、彼女が可哀想だよ」
「ううん。彼女の場合に限っては、必要でも、可哀想でもないの」
いつから雛さんは、こんなに冷酷な人になってしまったのだろう。僕は困惑した。
「いやいや……雛さんには、人を大事にしようって思いはないの?」
「もちろんあるよ。もし響也なら、私は必ず目的を明かす。でも彼女は違うの。…………人間じゃないから」
僕は耳を疑った。聞き間違いだと思った。
「……は?」
「だから、普通の人間じゃないのよ、彼女は。だから目的を教える必要もないの」
「いや待ってよ雛さん、冗談はよそう。彼女はどう見たって人間だよ。そこに否定の余地はない。それにもし人間じゃないなら、何だって言うんだよ」
雛さんはどう表現したら分からないような表情で、口を開いた。
「研究、材料。決して冗談じゃないよ」
「……は?」
「……だから、研究材料。今後の医療にとって非常に重要な研究のための、存在なの」
材料……? 彼女が? あの美しい彼女が? 人間ではなくて、材料?
僕はすぐに理解できなかった。雛さんの言葉をうまく噛み砕けなかった。
「……え、ねえ、今、自分で何を言ってるのか分かってる? 彼女が人間じゃなくて研究材料? それって…それって、どういうことだよ…………ねえ、どういうことなんだよっ?!」
僕は思わず雛さんの肩を掴んだけど、雛さんは俯いて黙っていた。
「おい、一体どういうことなんだよ、説明しろよっ!!!」
揺さぶっても、雛さんはされるがままで抵抗を見せなかった。“天才科学者”がこんな研究をしていたことに、すごく、ものすごく、腹が立った。
なかなか会えないけれど、密かに自慢に思っていたのに。祖母が褒めていたように、素晴らしい人だと、信じていたのに。
「何か言えよ! 言ってくれよ!…………母さんっ!!」
雛さんは僕の言葉にハッとして、顔を上げた。その瞳からは、何も読み取れなかった。とても小さな声で、離して、と言われて、僕は仕方なく掴んだ手を離した。
しばしの沈黙の後、雛さんは白衣の袖をまくって入念に手を洗い、冷蔵庫を開けた。
中から取り出したのは、群青色の液体が入ったパックだった。雛さんはそれを黒い机の上に置いた。
「これが、証拠」
「証拠、って……?」
「彼女が、人間じゃない、証拠」
「嘘だっ、そんなのは絶対嘘だっ!」
取り乱す僕を見て、雛さんはパックを裏返した。
「これが多分、彼女ってことを示してるんだと思うの」
そこには“R.U”と記されていた。“Ran Ueshima”のことだとすぐに理解できた。僕の体は静かに震え始めていた。
「な、何で青いの……?」
「元々青いの……というか、青くしてあるの」
「青く、してある……?」
雛さんは目を伏せた。その姿は金曜日に抱きしめられた時より、さらに小さく感じた。
「ごめん、響也……説明させて欲しい、全てを」
僕は黙って続きを促した。雛さんはふう、と息を吐いてから話し始めた。
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