第14話 やくそく(上)

 蝉時雨が響く、人気のない墓地。私とお母さんと、小さなお父さんは、“高桐家”の文字が刻まれた墓の前に座り込んでいた。


「お父さん、元気でね」

「うん。またいっしょに、アイス食べようね」

「私はもう、一緒には食べられないよ」

「ぼくはできるよ。お父さんになるんだから」

「……じゃあ、小さい私と、一緒にいっぱい食べよう。レモンのやつ」

「うん。やくそく」


 私たちは身を寄せて、ゆっくりと空に昇る線香の煙を眺めた。風がないから、それは空に届きそうなくらい真っ直ぐに、何も言わずに伸びていく。


「お父さんさ、もうやり残したことはないの? やりたかったこと、忘れちゃったんだっけ?」

「ぼくがしたいことは、きっとぜんぶできたよ」

「そっかあ。よかったね」

「お姉ちゃんとおよめさんは?」

「私たち?」


 行かないで。最初に思ったのは、そんな言葉だった。行かないでと言ったら、お父さんはここに残ってくれるんだろうか。でもそうしたら、お母さんはどうなるんだろう。私はどうなるんだろう。未来で巡り合えなくなったら、どうなってしまうんだろう。

 すると、お母さんは座ったまま、お父さんを抱きしめた。


「きゃあ」


 お父さんは嬉しそうな声を上げる。小さな腕が、お母さんの背中に回るのが見えた。もちろん、お母さんを抱きしめるには、ちっとも大きさが足りないけれど。


「あなた、ちゃんと大人になりなさいよ?」

「うん。およめさんをむかえに行かなくちゃ」

「きっと、わたしも待ってるから」

「ぼく、およめさんをびっくりさせるってきめたんだ」

「……そうね。さぞ驚くでしょうね」

「たのしみにしててね」

「あなたに会ってから、ずっと楽しかったわよ。会いに来てくれてありがとう」

「うん。しゃぶしゃぶ、おいしかった」

「そう。またたくさん作ってもらいなさい」


 小さな手は、お母さんの背中を撫でる。水晶と写真を触っていた、あの時の手のように。


「ぼくたちの子どもはなきむしだから、見つけたらいっしょにないてね」

「……そうね。そうしましょう」

「それに、ぼくのおよめさんも、なくのじょうずでしょ?」

「うるさいわねえ」

「げんきでね、およめさん」

「あなたもね」


 お父さんから離れたお母さんは、目を真っ赤にして涙を堪えていた。こんなお母さんを見たのは、お父さんが死んだあの病室以来のことかもしれない。けれど、お母さんはすぐに目を拭ってしまう。こっちを見た時にはもう、お母さんはいつものお母さんの顔をしていた。


「澪は、したいこと決まった?」

「う、うん」


 私も、お父さんに抱き着いた。お父さんが生きていたら、こんなこときっと絶対にしない。けれど、もうお父さんはいないんだから。小さいお父さんになら、これくらいしたって許してもらえるはずだ。


「お父さん、大好きだよ」


 小さな耳に聞こえるよう、私はひとつひとつの音を大事に口にした。散々大嫌いだと言った分が、これで取り戻せるかはわからなかった。それでも言った。


「大好き」

「てれちゃう」

「嬉しい?」

「うん」

「よかった」


 何度も言った。大好きだと。行かないでなんて言えない代わりに。死なないでと言えない代わりに。全部の言葉を大好きに変えて、小さいお父さんを抱きしめて、何度も言った。大好きと。それだけは決して疑えないように、永遠に続くおまじないのように。


「お父さん、よく覚えててね。忘れないんじゃなくて、覚えてて」

「ぼくもすきだよ」

「うん。覚えてるよ」

「そっかあ。よかった」

「お父さん、お願いだから元気でね」

「お姉ちゃんも」


 お父さんは笑って立ち上がると、ぼんやりと空を眺めていた。線香の煙が、ゆらゆら揺れていた。


「たのしかったねえ」


 そんな言葉の後に、後ろで大きなカラスの鳴き声が聞こえた。

 思わず、私とお母さんは振り返る。しかし、カラスの姿はどこにも見当たらない。


 もう一度向き直った時、そこにはもう、小さなお父さんはいなかった。

 水晶も写真も、跡形もなく消えていた。


 やっと、一迅の風が吹いた。それはほんの少しだけ涼しくて、私は初めて、秋の気配に触れた。

 お母さんが、私の手を握る。お父さんが死んだ病室に似た、お母さんの手だ。だけどその手は優しく強く、ちっとも震えていなかった。


「お父さん、行っちゃったね」

「そうね」

「また会えるかなあ」

「さすがに、二度は来ないでしょう」

「そっかあ」

「今頃、目が覚めてあっちじゃ大騒ぎじゃない?」

「そう言えば、釘が刺さって熱が出てたんだもんね」

「まずはあっちで、しっかり育ってもらわなくちゃ。じゃなきゃ、澪にも会えないのよ」


 私の手を引いて、お母さんが立ち上がる。だから私も、お母さんの隣に立って墓を見つめた。お父さんがこの中にいるなんて思えない。きっとどこかで、ぶつぶつ文句を言ったり、へらへら笑っているはずだ。少なくとも、ついさっきまで私たちの目の前にいたお父さんは、病院のベッドで目を覚ましたはずだから。


 すると、後ろから声がした。


「おや。二人揃ってご苦労様です」


 袈裟を着た住職が、マスクをつけて立っている。私たちが慌ててマスクをつければ、住職は目を細めて笑った。


「不便なものですね」

「ええ、本当に。今年のお盆は、お声掛けせずにすみません」

「いえいえ、このご時世柄仕方ありませんよ」


 慣れた風に返事をしてから、住職は線香の煙に視線をやった。


「涼太には会えましたか?」


 私たちは、住職の言葉に顔を見合わせた。けれど、彼は思い出話をしたかっただけらしい。「しょうもない話です」と手を振って続ける。


「若い頃……。まだ酒も飲めないくらい若い頃に、あいつがよく言っていたことを思い出したんです。“クソ暑い夏に、俺がお嫁さんと子どものところに現れたら、その時はよろしく”って。何のことだかさっぱりでしたが、今年のような妙な夏ならば、そんなこともあるかもしれないと思いまして」


 住職は、墓石に手を合わせる。そうしてこちらに頭を下げて、また寺の方に引き返して行った。


「お父さん、本当に私たちのことだけ覚えてたんだね」

「もっと他のことを覚えて帰れば、お金の一つも稼げたでしょうに」

「だけどさ、お父さんらしいよね」

「そうね。そう思うわ」


 お母さんは、呆れたように優しく微笑んだ。

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