第3章 三人の夏

第10話 二十さい

 翌日、私たちは朝から街の小さな写真館にいた。駅前に大きなショッピングモールが出来る前は、みんな節目の際にここで写真を撮ったものだ。私がここに来るのは、多分小学校卒業の時以来。確かお父さんは、写真を撮る時以外は車いすに乗っていた。

 お父さんがいなくなった時から、ここでは写真を撮っていない。


 昨日の夜、お母さんが突然、「成人式の前撮りをしよう」と言い出したからだ。お母さんが思いつきで何か言い出すなんて珍しい。

 私は寝ぼけたまま髪を派手にまとめられ、重たい着物を着せられ、苦しくて浅い呼吸を繰り返していた。土曜日なのに写真館の予約が取れたのは、写真館の客足が減っただけが理由ではないだろう。このご時世のせいだと言うしかない。私は、「小さいお父さんは写真に写らないよ」とお母さんに言った。お母さんはそれでもいいと笑った。


 私とお母さんが着物を着る間、お父さんは暇そうに足を揺らして椅子に座っていた。けれど、着付けが完成したのに気づいたら、椅子から飛び降りて目を丸くしながら駆け寄って来る。それから私とお母さんの間で、丸い視線を行ったり来たりさせる。


「二人とも、おひなさまみたいだね」


 小さいお父さんにとって、着物を着た人と言えば雛人形ぐらいしか覚えがないのだろう。それでも、お父さんが子どもなりに褒めようとしてくれているのは、ふわふわした頬の動きでなんとなく理解できる。小さい手が、私の振袖をひらひら揺らす。


「色がいっぱい」

「成人式の時に着るんだって」

「せいじんしき?」

「二十歳になったら、大人になったお祝いをするの」

「お姉ちゃん、二十歳なの」

「もうすぐね」

「へえー、大人だね」


 小さいお父さんに会ってから、ろくに化粧もお洒落もしていなかった。だから、着せ替え人形みたいになった私を見て、お父さんが何を言い出すのか、想像がつかなかった。

 お父さんは、じっとこちらを見上げていた。


「ぼくが生きてたら、ここにいるはずだったの?」

「そうだね」

「ふうん。死んじゃってかわいそう」


 他人事のように言うけれど、お父さんはそれを、自分のことだと理解しているような口ぶりだった。そうして、こちらをじっと見上げたまま笑った。


「大きくなったね」


 まるで小さい時の私を、知っているみたいに目を細めて。でも、伸ばした手は着物の裾しか触れない。お父さんは小さかったし、私は着物でぐるぐる巻きにされて、身動きが取れなかった。だから、私はお父さんと手を繋いだ。こんな風に手を繋いだのは、いつが最後だったんだろう。



 着替え部屋から移動して、カメラの前に立つ。写真館のおじさんが、坊ちゃんも一緒にどうぞと何度も言ってくれた。もちろん、小さいお父さんが誰かなんておじさんは知らない。お父さんはお母さんの後ろに隠れて、ちっとも出てこなかった。

 おじさんは、お父さんに影がないことに気づかない。気づいていても、口にしなかっただけかもしれない。

 その場で見せてもらった写真には、もちろん、お父さんは全く写っていなかった。お父さんは「じょうずにかくれたから」なんて言っていたけれど、自分が写真に写らないことを、忘れたわけではないだろう。

 大きく刷った写真は後日受け取りだが、手のひらに乗る小さなサイズの写真を、おじさんが何枚か渡してくれた。どこにもお父さんはいなかったけれど、よく似た顔をした二人がそこにいるのを、お父さんは満足そうに眺めていた。



 写真館からの帰りの車で、お母さんは言った。いつもよりしっかりした化粧と一つにまとめた髪型が、私服のシャツにちっとも似合っていない。へんてこな仮装をしているみたいだ。


「三人で撮れなくてもいいのよ。そこにいたことを、わたしたちが覚えていれば」


 もし小さいお父さんが写っていても、きっとお母さんは同じことを言ったと思う。お母さんの横顔は、やけにすがすがしかった。


「どうせ忘れちゃうんだろうけど、澪の振り袖姿、あの人に見せてあげたかったから」

「そうだね。そうだよ。私も、見て欲しかったし」

「じゃあ、よかったわね」


 後部座席では、カズくん用のジュニアシートに座るお父さんが、足をぷらぷらと揺らしている。バックミラー越しに目が合うと、お父さんはぷぷぷと口を両手でふさいで笑った。


「お姉ちゃん、おけしょうしてる」

「写真撮ったんだから仕方ないでしょ」

「あたまもきらきらきら」


 髪飾りは取ってもらったけれど、スプレーでつけられたラメがまだ残っている。それが外からの光で反射して、お父さんにはそう見えるらしい。


「およめさんも、色がいっぱいある着物にすればよかったのに」

「わたしはもう、そういう年じゃないの」

「そうなの? みたかったのに」

「大学の卒業式で見られるわよ」

「でも、それじゃずっと先だもん」

「首を長くして待っていてちょうだい」

「やくそくね」


 お父さんは細い首をぐいぐいと上に伸ばす。私にしか、その様子は見えていないけれど。お母さんの横顔が、ふと柔らかく微笑んだ。


「あなた、卒業式の時に言ってたのよ。“お前のそれ、やっと見られた”って」

「大人のぼくが?」

「そう。大人のあなたが」

「へえー。おぼえててすごいねえ」

「なんで“やっと”なんて言ったのか、ずっと不思議だったんだけれど」

「ぼく、たのしみしてたんだね」

「そうみたいね」


 小さいお父さんは、まだ恋なんて知らないだろう。小さいお父さんには、もうお母さんは恋心なんて持てないだろう。二人はどう見ても親子にしか見えないのに、なぜだろう。思い出を辿る時、お父さんはほんの少しだけ大人に見える。お母さんは、ほんの少しだけ女の子に見える。


「かっ……」


 思わず私は、助手席で声を上げた。お母さんがちらりとこちらに視線を送るのが分かった。


「川! 川行きたい、川!」

「川?」

「ほ、ほら。お父さんとお母さんの、大学の近くの川が私の名前の由来なんでしょ?」

「大学の川に行きたいの?」

「いや、さすがにそんな遠出は出来ないけどさ、山の上の川なら行けるでしょ? 車だし!」


 すると、お父さんはジュニアシートの上で体を大きく揺らしながら答えた。


「ぼくも行きたい! 泳ぐのじょうずだよ!」

「お父さんもああ言ってるし、いいでしょ?」

「わたしはいいけどー……。頭、そのまんまでいいの?」

「ちょっとくらい平気だよ」

「泳ぐ気? 着替えは?」

「まあ、車だし。汚れたら、後で掃除するよ」

「ほんと、あんたって時々、あの人に似てるわよね」

「そう?」

「……駐車場、近くが空いてたらいいけれど」


 車は、私たちの家の近くを通り過ぎていく。そのまま坂道を上がって行き、展望台よりもさらに上を目指して、車は息をしない夏の間を駆けて行った。

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