第11話 泳ぐ(上)
遊歩道入り口の駐車場には、何台か車が停まっていた。川へ行くにはこの遊歩道しか道がないから、この時期の日中に来てここに停められるのは珍しい。夏休みの日程がずれているせいかもしれない。みんな、この夏をどこでやり過ごしているんだろう。どこへ行ってしまったんだろう。
車の中に入れてあったサンダルに履き替えて、私たちは川を目指した。最初は、板張りの通路を進んで行く。カズくんのサンダルはお父さんにぴったりだ。私とお母さんの間で、スキップしながら早く早くと歌っている。
「ぼくね、川であそぶのすきなの」
「お父さん、そんなにアウトドア派って感じでもないのにね」
「うちのちかくの山に川があってね、あとね、水晶とるの」
「水晶?」
私が聞き返せば、お父さんを飛び越えてお母さんが続けた。
「大したのじゃないけれど、昔はちょっとした山で水晶くらいは拾えたのよ。今はどうかしらね。探そうと思わないから、もう見つけられないけれど」
「およめさんもさがしたの?」
「大学生のあなたに、しょっちゅう連れられてね」
「きれいなのあった?」
「拾った石のことは覚えてないけれど、それなりに楽しかったわよ」
「そっかあ」
やがて通路はなくなって、川辺にたどり着いた。石が転がる川辺をゆっくり歩けば、川の水面がすぐそばに見える。深さはあまりないけれど、ちらちらと泳ぐ小さな魚の背が、太陽の日差しを跳ね返して輝いていた。
「お姉ちゃん! ほら、見て! さかな! およめさんも早く見て! いっちゃうよ!」
聞いたことがある声だと思った。それは、ロケットの窓からふたご座を見つけたお父さんの声に、よく似ていた。
川を辿れば、すぐそこに小さな滝壺が見える。水辺の香りが、体中をくすぐる。涼しい風が吹いて、ようやく私は、この夏になって初めて、息が出来た気がした。
三人で川の側に座り込んで、水に手を浸す。太陽の日差しと、木々の影。それが私の手と重なってから、川の流れに溶けていく。小さなお父さんの手も、皺っぽいお母さんの手も一緒だ。浅い川底に、影が二つ揺れている。それを覗き込む二つの顔が、川の流れに乗って形を変えた。空の青が透ける川に手を浸すと、まるで世界を覗き込んでいるような気分になる。
「つめたいねえ」
「そうね」
「およめさんは泳げるの?」
「泳げるとは思うけど」
「じゃあ、いっしょに泳ご!」
「わたしじゃなくて、澪と泳いであげて」
「やあだ、およめさんも泳ぐの」
「……はいはい」
私たちは、そのまま川の中を歩いた。足首ほどの深さだった水面は、滝壺に近づくにつれて深さを増す。お父さんは、私たちの先頭で犬かきをしながら進んで行った。小さな背中が、日差しを背負っている。Tシャツがゆらゆら揺れて、お父さんの肌色の背中が時々こちらを覗いた。
滝壺の深さは、私のみぞおちほどのものだった。お父さんはそれも気にせず、すいすいと平泳ぎをして進む。サンダルを川辺に置いて、私も泳いだ。背中で水に浮かんでみれば、何もかもが自分とは無関係のことのように思えた。
狂ったように流行る病気も、大学の友達にずっと会っていないことも、お父さんが死んでしまったことも。
けれど、滝壺をざぶざぶと歩くお母さんがこっちを見た時、何もかもが無関係だなんて夢みたいなこと、あるわけがないと気づいた。
「オフィーリアごっこ?」
「何それ」
「シェイクスピアの」
「あー、綺麗な絵の?」
「そう。髪が靡かなくてよかったわ。あのオフィーリアは生きていないから」
お父さんは、ひたすら水の中を泳いでいる。時々宙返りをして、足をばたばた水面から出していた。向こうに、知らない家族連れが見える。その人たちに自分の遊びを見られたと気づいて、お父さんは大急ぎでこっちに向かって泳いできた。
「はなに水が入っちゃった」
「そりゃ、あれだけひっくり返ってたらねえ」
お母さんは笑いながら、私の隣に浮かんだ。写真館でがちがちに固められた髪は、川の流れでも解けなかった。お父さんも一緒になって、私たちの間でぷかぷか浮いた。水底にはきっと、お父さんの影は映っていないのだろう。
滝の音がざあざあと鳴って、しぶきが顔をくすぐる。空は青く、薄く白い雲が時折通り過ぎていく。
「ぼく、らいねんにはきっと、行けなかったの」
お父さんの声が、滝壺の中ではっきり聞こえた。
「ぼくを連れてきた人みたいな人も、きっとらいねんのことはわからなかったから」
「そっかあ」
私は曖昧に答える。お父さんがこの2020年にやって来た仕組みはわからない。けれど、それが分かったところで、顔も知らない“誰か”に、何と言えばいいのかわからない。
お父さんに会わせてくれてありがとう?
でも、それならもっと言うべきことがあるはずだ。
そもそも、どうしてお父さんが死ななきゃならなかったのか、何晩でも徹夜していいから問い詰めたい。出来ることならその果てに、“誰か”がお父さんを死なせるのを、諦めてくれたらいい。
「この夏の延長線上で、わたしたちは生きていけるのかしらね」
誰に言うでもなく、お母さんは口にした。浮力は私ほど、お母さんを自由にしてくれない。いつもどこかに繋ぎとめて、難しいことを考えさせる。
「あなたが言う“人”にも、わからないことがあるなんて。無責任じゃない?」
「むせきにん?」
「人間の数でも減らしたいのかしらね。それとも、争いを助長して高みの見物でもしたいのかしら。いずれにせよ悪趣味だけれど」
「およめさん、おこってるの?」
「あなたには怒ってないわ。多分みんな、何に向かって怒っていいのかわからないことに、怒ってるのよ」
「かなしい」
「ばかねえ。生きてなきゃ怒るに怒れないわ」
お母さんは立ち上がる。水面が動いて、私とお父さんは水草みたいにゆらゆら揺れた。お母さんの髪は解けたみたいで、お風呂上がりみたいなお母さんが、洋服ごとずぶ濡れのままそこに立っている。
「まだ泳ぎたかったら、泳いでなさい。わたしは、あっちで座ってるから」
岸に上がって服の裾を絞るお母さんが、随分と大人に見えた。もちろんお母さんはとっくに大人なのだけれど、それとは少し違う、違う生き物みたいに見えた。
お母さんには、私には見えない少し先のことが、見えているのかもしれない。
小さいお父さんは、水の中で何度も宙返りした。私にしがみついて、ぐるぐる回ってほしいと何度もせがんだ。その度に冷たい水が私たちを撫でて、夏の暑さを忘れさせてくれる。
「とんぼ!」
お父さんは、私の腕の中で声を上げた。振り返ると、とんぼが一匹飛んでいた。羽根から透ける青空が、少しだけ寂しそうに見えた。
夏はいつか終わるのだと、私は大きく息をした。
「そろそろ帰ろっか」
「まだ泳ぐ」
「でも、今日は晩御飯の後に、花火の続きが出来るよ?」
「そっかあ」
小さな頭が、私の鎖骨の辺りをぐりぐりと押した。眠いのかもしれない。
案の定、お父さんは服を絞ってあげている間に眠ってしまった。川辺で体を乾かしてから車に乗れば、家に着くまでお父さんは目を覚まさなかった。
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