第9話 みんな(下)
お母さんが帰って来るなり、お父さんは玄関に走って行った。お母さんに飛び付いたようで、「ぎゃあ」と情けない声をお母さんが上げるのが聞こえた。
「そんなにお腹空いてたの?」
「およめさん、かえってくるのまってたの」
「そう。そうなのね、ありがとう」
リビングにお母さんがやって来る。手に持ったエコバックを、宝物を見つけたみたいにこちらに見せた。
「澪、買ってきたよ」
「ありがと。今晩やろうよ」
「そうね」
私たちの会話を、お父さんは首をきょろきょろ動かしながら眺める。私たちの会話がわからなくて、つまらないのだろう。するとお母さんは、お父さんにエコバックを渡した。お父さんは小さい頭を突っ込んでしまいそうなくらい、勢いよく中を覗き込む。
「何が入ってるでしょうか?」
「花火!」
「正解」
「今日やるの?」
「ご飯食べたらね」
「うわあ!」
お父さんは、花火セットを取り出して、細い腕でぎゅっと抱きしめた。まるで宝物みたいに。大事な思い出みたいに。
「花火、みんなでしたかったの」
もしもお父さんが生きていたら。父の日のプレゼントで、毎年悩みたかった。夏休みに旅行に行くか行かないかで喧嘩したかった。それに、成人式だって見て欲しかった。
でも、小さいお父さんの願いは、こんな些細なことだ。花火のセットを抱えて、お父さんは嬉しそうにしている。お母さんは小さなお父さんを一度だけ抱きしめた。頭を撫でて、それから顔を見て、もう一度頭を撫でる。
「じゃあ、澪にお礼言いなさいね? 澪が“花火買ってきて”って言ってくれたんだから」
「お姉ちゃんありがと!」
弾けるような、花火みたいに明るい声でお父さんがこっちを向く。目の前の景色を、どうしても忘れたくなかった。写真にも動画にも出来ない景色は、どうしたら覚えておけるんだろう。
「お母さんにもお礼言いなね? お母さんが買ってきてくれたんだから」
「およめさんありがと!」
お父さんがこんなに素直にお礼を言える人だったなんて、私はすっかり忘れていた。それに、こんなきらきらと嬉しそうに笑うなんて。
我が家の小さな庭で、私たちは花火をした。ヒグラシなんて鳴かない蒸し暑い夜だったけど、三人で見る花火は夏の欠片みたいに輝いていた。花火を見ると少し胸が苦しくなるのは、見ている側が勝手に、それを夏だと思いこんでいるからだろう。夏がきらきらと輝きながら消えていくのを見て、「ああ、夏が終わる」と思ってしまう。
実際はちっとも秋の気配なんて感じない、熱帯夜続きの毎日だったとしても。
「しゅんしゅんしゅん」
勢いよく前に進む花火を見て、お父さんは手を前後に揺らしながら声を出す。空いっぱいに広がる花火ではないけれど、お父さんの小さな目には、その光が映りこんでいる。お母さんはビール片手に花火をしながら、はしゃぐお父さんに言った。
「あなた、花火大会がない年に来ちゃって残念だったね」
するとお父さんは、ぱっと口を手で覆って、ぷぷぷと笑った。
「おやこでおんなじこと言ってる」
「ええ? ほんとに?」
「ほんとだよ。ね、お姉ちゃん」
「うん」
私がうなづくと、お母さんは眉毛を上げながらビールを飲む。返事の代わりのつもりだろう。お父さんは、残った花火を指でなぞった。
「今日のこと、絵日記にかかなくちゃ」
「絵日記?」
聞き返すと、小さな頭がこくりとうなづく。
「夏やすみのしゅくだい」
「でも、お父さん今、病院にいるんでしょ? 日記に書いたら、びっくりされちゃうよ」
「あ、そっかあ」
「戻っても、今年のこと覚えてたら、書いてもいいんじゃない?」
「うーん……」
お父さんは、腕を組んで考え込む。きっと、哲学者が物事の真理に触れる時は、こんな顔をするのだろう。
「あんまりいっぱいは、おぼえていられないんだって。だから、なにをおぼえておくかは、よく考えなさいって」
「誰に言われたの?」
「わかんないけど……」
「ここに来たいって願いをかなえてくれた人?」
「人じゃないかも」
「まあ、そうだよね」
残りの花火は、あと数本だった。それでも、お父さんがうとうとと舟を漕ぎ始めたから、花火はおしまいにした。お父さんは「まだやる」とぐずっていたけれど、お母さんが「また明日」と指切りげんまんして丸め込んだ。
「明日も、ぼくがここにいるか、わかんないのに」
「それでも、約束するのは大事なことよ」
半べそをかく小さなお父さんに、お母さんは笑って言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。