第3話 およめさん(下)
カズくんが置いて行った洋服一式を、男の子に着せてあげる。下着と半ズボン、白いTシャツ。サイズはぴったりだ。
すっきりしたところで、ふと私は思いつく。男の子を台所に連れて行き、冷凍庫からアイスを出した。
「ねえ、レモンのアイス好き?」
「アイスすき」
「これは?」
私とお父さんが大好きだった、レモン味のアイスだ。上にレモンのスライスが乗っていて、下には酸っぱいかき氷がたっぷり入っている。男の子はこれを見たことがないようで、しばらくじっとアイスを眺めていたけれど、やがて重たい頭が落ちるようにうなづいた。
「食べる」
「よし、じゃあ半分こしようね」
「ぜんぶ食べちゃだめなの?」
「晩御飯がまだでしょ」
「ちぇっ」
ダイニングテーブルの席に座って、二人でアイスを食べた。椅子はまだ三つあるけれど、ここに人が座ることはもうほとんどない。誰かが遊びに来た時か、カズくんが泊まりに来た時くらいだ。三つ目の椅子は、七年前から荷物置き場に変わってしまった。
ガラスの器に、半分に分けたアイスを入れる。レモンのスライスも綺麗に半分に分けてあげた。男の子は、初めて食べるレモン味のアイスを、スプーンで掬ってぱくりと食べる。「すっぱい」と目をぎゅっとつぶっていたけれど、気に入ったらしい。それからは、「すっぱい」を繰り返しながら、化石でも掘り起こすかのように黙々とアイスを食べ進めていく。
この、舌に乗るとぴりりと痺れる味は幸せだ。そうして、このアイスを食べる度に。私はお父さんのことを思い出す。
「お父さんもね、このアイス好きだったんだよ」
「お父さん?」
「そう。君とおんなじ名前のお父さん。まだ生きてた頃は、時々二人で夜に、こっそりこれを半分こして食べたの」
小さい頃は、カップに入ったアイスをかわりばんこに渡し合って、スプーンで掬って食べていた。懐かしい。秘密を分け合うみたいなその仕草を、私もお父さんも楽しんでいたように思う。そうだったらいいけれど、確かめる方法はもうどこにもない。
「お父さんって、さっきのお墓の人?」
「そう。私が中学校入ったばっかの頃に、病気で死んじゃったの」
すると男の子は、アイスを掬う手をぴたりと止めた。柔らかい眉毛をささやかにひそめて、口を尖らせ考え込む。
「……お姉ちゃん、ぼくの子どもなの?」
「え?」
「だって……」
もごもごと言葉を口の中で食むけれど、男の子は何も言わない。小さな顔が険しい表情を浮かべたまま、アイスを口に運ぶ。
お母さんが部屋から出てきたのは、その時だった。表情が穏やかだから、会議が終わったんだろう。私たちの姿を見つけると、お母さんはまた、呆れたように笑った。三つ目の椅子に誰かが座っているのは、お母さんにとっても珍しい景色なのだから、仕方がない。
「ねえ、これ見せたことあった? お父さんの遺品なんだけれど」
そう言ってお母さんが見せてきたのは、古ぼけたアルバムだった。表紙は昔ながらの小花柄で、見覚えはなかった。「知らない」と答えれば、お母さんはアルバムをテーブルに置いて、表紙をめくった。
初めに出てきたのは赤ん坊の写真だ。ページをめくる度に、赤ん坊は大きくなる。はいはいを始めて立ち上がり、庭を駆け回り転んで笑う。幼稚園に入って卒園して、小学校に入学する頃になって、誰もが気がついた。
「ぼく!」
男の子は声を上げる。指さした写真の中で、男の子と同じ顔をして立っている、小さいお父さんの姿があった。
「ぼく、やっぱりお姉ちゃんのお父さんだったんだ! ……あれ?」
丸い目が、ゆっくりとお母さんの方を向いた。何度か瞬きしたその目が、正面に座るお母さんのことを目に焼き付けるかのようにじっと見ている。まるで時間が止まったように、男の子はぴくりとも動かなかった。お母さんは、男の子の目の前で指を振った。
「ちょっと、どうしたの?」
「ぼく……。こんなおばちゃんと結婚したの?」
「こら」
「いてて」
あまりに真剣な顔で男の子が言うものだから、お母さんは口元で笑みを弾けさせながら男の子の頬を優しくつねった。
「あなたも生きてたら、これくらいのおじさんになってたの。ばかねえ」
「ぼくのおよめさんは、ほっぺたつねるのがじょうずだね」
「はいはい。その言い方、変わらないわね」
お母さんは笑いながら、椅子に座る私たちの間で視線を行き来させた。食卓に人が三人いることを、懐かしく思う気持ちはわかる。いつもお母さんはその席に座って、私とお父さんが食事したり喧嘩したりするのを見てきたのだから、当然だ。
今、ここにいるお父さんは小さいけれど。お母さんから見える景色はきっと、あの頃とよく似ているはずだ。
「本当に、変わらないわね」
そうやってつぶやく声は、少しだけ震えて聞こえる。けれどお母さんは、アルバムをそのままにして部屋へ帰ってしまったから、確かめる術はない。お母さんが泣いているのを見たのは、いつが最後だろう。
お母さんは、お父さんが死んだ時から、泣くのを止めてしまった。
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