第2話 およめさん(上)

──お父さんは生前、ごく普通の会社員だった。まだ子どもだった私には、彼が何をしていたのかまではわからない。ただ、葬式に会社の人が来ていたから、嫌われてはいないんだろうと思ったのを覚えている。

 会社の人が言っていた。


「高桐さん、プロジェクトの節目になると、こっそりしゃぶしゃぶに連れて行ってくれるんですよ。だからってわけじゃないですが、高桐さんのチームになるのを楽しみにしてる奴も多かったです」


 私は子どもながらに、お父さんがしゃぶしゃぶ食べたかっただけじゃないの、と思った。でも私には、会社の人の思い出を台無しする資格がないから、その場では何も口にしなかった。お母さんは、どう思っていたのだろう。

 

 両親の馴れ初めはよく知らない。知っているのは、大学からの付き合いだということだけ。私の名前が、二人が出会った大学の近くを流れる川に由来すると、聞いたことがあるからだ。

 だから大学に入った時は、「もしかしたらここで結婚相手が見つかるのかな」なんて、私は呑気なことを想像したものだった。

 実際は特にそんなこともなく一年が過ぎ、いざ二年目になったら、急に大学は平たいオンライン授業に変わってしまった。──


 最後に大学の友達と顔を合わせたのは、いつのことだろう。授業の合間に、下らない話で笑ったのはいつが最後だろう。スマートフォンを見れば、メッセージアプリのグループチャットが盛り上がっているのを目にすることもある。だけど、それが返って寒々しく思えてしまい、会話に入る気にはなれなかった。

 でも、私のような実家住まいと違って、一人暮らしの子は心細いのかもしれない。例え平たい文字列だとしても、誰かの心を癒すのであればそれは十分意味がある。




 墓地で出会った男の子と、二人でバスに乗って家に帰った。影はないけれど、男の子の姿は他の人にも見えるらしい。バスでは子ども料金を取られたし、先に乗車していた知らないおばあさんが「大きいマスクしてかわいいねえ」なんて声をかけてきた。マスクは、私が持っていた予備のものだ。子ども用のものなんて、持ち合わせがあるわけもない。


 男の子は、ここ最近の風潮をさっぱり理解していなかった。「マスクは給食当番の時にしかしない」とぶつぶつ不満げな声で言うし、私が話したことも信じられないといった様子を見せる。


「せかいじゅうの人がみんなおんなじ病気になるって、映画みたい」

「そうだよね。私も最初は、そう思ってたよ」


 窓の外を眺める丸い頭が、不思議なものを眺めるようにふわふわと揺れていた。この街の景色を、細い首を伸ばしてまじまじと見つめている。どんな顔をして見ているのか知りたいと思った時に、男の子の顔が、窓ガラスにも写っていないのを思い出した。



 家に戻ると、お母さんが台所で淹れるコーヒーの香りが、玄関まで届いていた。もしかしたら、これから会議でも始まるのかもしれない。ただいまと台所の方に声をかければ、お母さんはカップを持ったままこちらへ歩いて来た。自室に戻る道すがらだから、顔を見せてくれたんだと思う。

 仕事前の引き締まった顔が左右非対称にひっくり返ったのは、私の隣に見知らぬ男の子がいるからに違いない。このご時世でなかったとしても、知らない子どもを家に上げるのは、気が引けることだ。

 それでもお母さんはちゃんと背中を丸くして、男の子と同じ目の高さで優しい声をかける。


「どうしたの?」

「ぼく、たかぎりりょうた」

「……本当に、高桐涼太なの?」

「そう」

「お父さんとお母さんはどこ?」


 男の子は、マスクの下でもごもごと何かを言って首をかしげる。腕組みをして考え込んだ後で、丸い目がお母さんの方を向いた。


「たぶん、病院にいる」

「どこの病院?」

「ぼくがはこばれた病院」

「運ばれた?」

「うん」


 私とお母さんは、顔を見合わせた。誰が聞いても、その違和感は拭い去れないだろう。私も思わず、横から口を出す。


「ねえ、なんで病院に運ばれたのに、ここにいるの? 逃げてきちゃったとか?」

「ううん」

「じゃ、なんでここにいるの?」

「おねがいしたから」

「お願い?」

「うん」

「なんの?」

「ぼくが死んだ後のせかいを見たいですって」

「え?」


 言葉の意味がわからず、私はお母さんの顔を見た。お母さんも、私と同じように困った顔をしているのに期待して。

 けれど、お母さんは違った。何かを諦めたような、理解したような、それでも呆れて微笑むみたいに口を緩めて、「ああ、そういうこと」とつぶやく。私が子どもの頃に転んで帰って、泣きながら何があったのかを話した時と、同じ顔だ。当時よりも目じりに皺が増えたけれど、お母さんはあまり印象が変わっていない。

 お母さんは、男の子の頭を撫でた。


「わあ、汗びっしょり。とりあえず、シャワーでも浴びたらどう? 洋服はー……。澪、カズくんが置いて行ったの着せてあげてくれる?」

「え、いいの?」

「それが最善策だもの。手、お誕生日の歌二回分洗うって教えてあげて。わたし、そろそろ会議出ないと」

「う、うん、わかった」


 男の子は、「だれかたんじょうびなの?」と首をかしげていたけれど、ちゃんと私と一緒に歌いながら手を洗った。小さな手は、まだ何も知らないようにふわふわと柔らかい。爪は綺麗に整えられていて、桜色をしていた。


 そのまま二人でシャワーを浴びると、まるでカズくんが泊まりに来た夏休みのように思えた。風呂場の窓の向こうでは、夏の日差しが揺らめき蝉の声が聞こえる。夏は息を吹き返したかのように見えるが、風呂場を出てしまえばそんなことは夢だったのだと気づかされる。

 

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