第8話 みんな(上)
──これがいつもの夏ならば。だいたい今くらいの時期に、花火大会があった。うちから良く見えるところに上がるので、私は小さい頃からあの花火を見て育った。カズくんが花火を見に来るようになる前は、家族三人で二階のベランダからそれを眺めたものだ。
花火は視界いっぱいに広がって、端っこなんてないかのように濃紺の空に舞い上がる。魔法みたいに咲いて、それからはらはらと消えていく。火薬の香りがするのは、近所の人が道路で手持ち花火をしているから。外が賑やかなのは、見物客でいつもより人通りが多いから。そんな浮足立った夏の夜が、私は好きだった。あの夏は、息をしていた。
「おおー、今のいいなあ」
お父さんは、花火が始まる前まではいつもぶつぶつ文句を言った。暑いとか首が痛いとか、そんなことを。お母さんは慣れっこで、はいはいと言って済ませていたけれど。
お父さんと最後にこの家で花火を見た時、私は、お父さんの愚痴を聞いているのが嫌だった。だからずっと黙って花火を見ていたのだけれど、お父さんはいつも通り、上がる花火に「いいなあ」とか「綺麗だなあ」とか言い続けていた。
お父さんは腕組みをして考え込んだ後に、ビールを飲んでいるお母さんに言った。
「花火、いつまでやるんだろうなあ」
「あと15分くらいじゃないの」
「そうじゃなくて、あと何年続くだろうって意味」
「スポンサーがいなくなるまで?」
「俺のお嫁さんは、物を考えるのが上手だな」
また花火が上がる。空が明るくなって、どこかから歓声が聞こえた。私たちと同じように、家から花火を見ている人がいるんだろう。
「花火、毎日やればいいのにな。午後五時のチャイムの代わりに」
「毎日上がってたら、そのうち誰も見てくれなくなるんじゃない?」
「そういうモンか」
「そういうモンよ」
「じゃあ、自分で手持ち花火やればいいか」
「それもどうせ、毎日やってたら飽きるでしょう」
「ちぇっ」
二人はそんな会話をしていた。私は黙って、花火を見ていた。
それから一か月もしないうちに、お父さんは病院に運ばれた。病院の部屋からは、花火が見えなかった。
だから、あれがお父さんと最後に見た花火だった。──
家に帰ってお風呂に入れば、小さいお父さんはソファですうすうと寝始めた。夕方近くになっていたから、私は晩御飯の準備を始める。もし花火大会があったら、棚にはカズくん用のお菓子が溢れていただろう。今、その棚はすかすかだ。おやつなんてほとんど買っていない。
どうせなら、去年の夏に来てくれれば、お父さんと一緒に花火が見られたのに。そうしたら、最後の花火のやり直しが出来たのに。
私は、お母さんにメッセージを送った。少ししてから、“了解”と手で丸を作るパンダのスタンプが返って来た。お母さんは最近、会話を全部スタンプで済ませようとする。
カレーが出来上がる頃に、香りに誘われてお父さんが台所にやって来た。どん、と足にくっつかれたから驚いてみれば、お父さんの方が驚いたような顔をしてこちらを見上げている。
「おかあ……、お姉ちゃん」
「そうだよー。お父さんの娘の、お姉ちゃんだよー」
からかうように返事をしたら、お父さんは少し口を尖らせる。でも、大して怒ってはいなかった。カレーのいい香りがしたからだろう。
「おなかぺこぺこ」
「起きてすぐにもうカレーが食べられるの?」
「うん」
「もうすぐお母さん帰って来るから、そしたら食べよう」
「およめさん、早くかえってこないかなあ」
恋しいのはカレーなのかお母さんなのかわからないけれど、お父さんは歌でも口ずさむような口ぶりだった。寝起きの子どもなのに機嫌がいい。私の足を小さな手でぺちぺち叩いてから、テーブルの席に座ってしまった。
「お父さん、花火大会がない年に来ちゃって残念だったね」
「花火、なかったの?」
「うん。今年はね」
「なんで?」
「人が集まると、病気がうつっちゃうでしょ? だから中止になったの」
「そっかあ」
お父さんの声は、テーブルの上にぽとりと落ちる。もしかしたら、花火が見たかったのかもしれない。でも、少ししてからお父さんは顔を上げた。
「今年じゃないとだめだったのかも」
「どういうこと?」
「きょねんでもよかったら、きょねんに来るでしょ?」
「……そういうもの?」
小さな頭をかしげながら、お父さんは曖昧に返事した。
「ちがうのかなあ」
「お父さん、何かしたいことがあって今年に来たんだよね?」
「うん」
「何しに来たの?」
「わすれちゃったの」
「そっかあ」
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